4: (三)
それだけに、彼女は助かったのだ、と正太郎は願いまじりに考えていた。
だが、彼女に会いに行くことはままならなかった。そう。確認が出来ない。生死の行方さえ分からない。なぜならあの晩、近隣の救急病院に美咲を届けてゆくことが至難の業であったからだ。
(俺の姿が人目に触れれば、それだけ疑われる確率が高くなる……)
これは、裏の顔を持つものであれば誰でも思うこと。偽装の脚本を組むものなら、できるだけリスクを伴う行動は避けるべきだ。事件の表舞台に顔を出さぬべきだ。
正太郎はいつもそうしてきた。それが彼の生き様だった。裏の顔と市井の顔の隔絶。それこそが彼の唯一残された生きる道。そして生き残るすべてだった。
(やはりそうだ、そうだとも。ただ感情に流されてしまっては本末転倒というもの。横道に逸れた魚のままでは、生まれ故郷に辿り着かない……)
彼は考えあぐねた結果、直接自らが美咲を病院に送り届けるという手法より、公衆電話から救急隊を呼ぶという手法を最善とした。直接他人の目に触れることがないからだ。傷ついた彼女を特定の場所へと移動し、救急隊を待つ方法が安全、と答えを出したのだ。しかし……
(公衆電話の場所が特定されるのは仕方ない。それも知り得たことだ。もちろん指紋も残さず声色も変え、さっさとずらかってしまえばいいことなんだ)
だが、その手法を遂行するには一番重要な問題が残っていた。救急隊が到着するまでの時間だ。美咲が刺されてから相当な時間が経っている。命の灯火が消えかかっているのは一目瞭然。厳然たる事実だったから。
何かを善しとすれば、何かが悪しとなる。何かが足されれば、何かが減る。すべてはいたちごっこであり、堂々巡りが人智の限界。もしこの世に絶対という事象があるならば、それは人の憧れが生み出した確固たる意思の概念でしかない。彼はそう思っていた。
彼は考えあぐねた。そして思考を極限にまで活用した。あの標的となる者と相対する時のように、命を賭けて闘いあっているときのように脳内のあらゆる部分を発火させた。
(最良の策を……。少しでも最良の策を……)
その瞬間、脳内が凄まじい演算をし始める。そして、彼の脳内は幾筋。幾通り。幾百万通りの光が駆け巡る。常人では計り知れない世界が渦巻いてゆく。すべてが、すべてがうまく行く方法を……。いや。せめて、せめてすべてが元通りになる方法を求めて。
全身全霊の凄まじいものが辺り一帯に轟いていた。聴こえているのは降り止まぬ雨が路面に叩きつけらる音だけ。しかし、それ以上の振動が彼の体を包み込んでいた。夜の闇に幾筋もの雷が打ち下ろされているかのようだった。あたかも巨大な黄金の竜が地上のすべてを巻きつくすかのような勢いがあった。
なのに。なのにどうしものか。彼の思考は意外な答えを出したのだ。あれだけ身魂を注ぎ込んだにも拘わらず、思わぬ場所へと行き着いたのだ。
(そ、そんなばかな。そんなばかな……)
答えはたった一つだった。行き着くところはたった一つしか得られなかったのだ。美咲の命を救い、己の日常を崩さぬ方法が、彼の全身全霊もってしても、ほんの、たった一つしかはじき出されなかったのだ。
(お、俺はあの時、どうかしていたんだ。どうかしちまってたんだ……)
正太郎はあの晩の回想を止め、歯軋り混じりにはにかんだ。そして疲れきった表情でじめじめとする木目調の古びたカウンターに両肘をついた。うな垂れた。勢いで背広の袖口がぎゅっと引っ張られる。彼の逞しい両手首、そして両こぶしがぬっと露わになる。彼はそのこぶしの一番硬い部分で額をゴツゴツと何度も強く叩いた。
(なあ、美咲ちゃん。あれで良かったんだよなあ。なあ……)
正太郎は彼女に問いかけた。しかし、目の前に浮かび上がった彼女は何も答えてくれなかった。
彼が頭を叩く振動でグラスに注がれた冷たい水が小さな波を起こした。ちゃぷんと音をたてて絡み合った。浮き上がった氷がこすれ合い、カラカラと音をたてて揺れあった。
ぎゅっと目を瞑るとあの晩の光景が鮮明によみがえってくる。あの時の息づかいまでもが同化してくる。
なあ美咲ちゃん、なあ――
彼は目眩いを起こし、とうとう息が出来なくなってしまった。
あの時――
少女美咲の制服は血にまみれていた。
生温かい液体が背中の傷口の辺りから止め処なく流れ出していた。一度は収まりかけた出血も、また勢い増し始めている。正太郎は迷った。あれをやれば美咲は助かるのではないか。あれをやってみる価値はあるのではないか。彼は、美咲のぐったりと力ない体を愛車の助手席に腰掛けさせると、右手を彼女の首筋に置いた。
死の概念自体を消してしまえばいい――
それが彼女を助ける唯一の方法であれば、と彼は思っていたのだ。いや、それこそがたった一つの答えだったのだ。
しかしその方法は無謀な賭けでしかなかった。彼はまだこの方法を試したことがない。彼の“思考”への潜入は死への呪文そのもの。人を“生かす”ためものではない。後にも先にも“生かせた”ためしがない。間違って死なせてしまったら……元も子もない。
常々、“死の概念”を取り払った人間はどうなるものだろうか、と考えていた。不老不死。常態延命。いにしえの頃より現実、幻想問わず膨大な人々によって思い描かれてきた永遠の錯綜だ。だが彼は、それを試す力があるにせよ実行するまでには至らない。
俺はそれほど傲慢ではない――
正太郎は口の端を上げ力なく笑った。彼によって彼にしかない有り余る能力。そんな尋常ならざる能力を、自らの興味や都合だけで試せるわけがない。いわばこれは強制的な人体実験そのものだ。時間という留まる事のない永遠の檻の中に鎖で繋がれた人体標本。そんなものを作るのは趣味じゃない。やるべき事じゃない。
気がつけばポタポタと意味の分からぬ汗が一筋、二筋と滴り落ちてくる。
だが彼女をよく見ろ。刺された直後から意識を取り戻した様子がない。脈も弱くなり体温も下り始めている。まだ太陽の温かさも激しさも、一緒くたにして容易に取捨分別などできぬ若葉。その生命が無残に散ってゆくのを黙ってみているわけにはゆかない。ただ指をくわえて見ているわけにはゆかない。そうさ、彼女との約束も果たせないまま、このまま手をこまぬいているなんてできるものかよ。正太郎は冷や汗が滲む濡れた手で鼻先の横を掻いた。ええい、やってみるさ。なんとかなるものさ。
雨粒が愛車の幌を強く叩いている。バラバラとまばらだった音がドロロロと分け目のない四連符の連続音に変わってゆくのが分かる。剣で刺された無数の穴から雨雫が流れ落ちてくる。
こんな雨足の中でも“やつら”の炎は黒煙を上げ燃え続けている。この少女の命にあれほどの勢いがあれば……、と彼は思った。正太郎の右手がためらいのためか、とまどいのせいか震えている。もし彼の思惑が的外れの方向に進んだなら、悪い方へと転げ落ちてしまったなら……彼女は間違いなくやつらと同じ運命にたどり着いてしまう。ひどく悲惨な死に向かってしまう……。
キミの炎は何色なんだ――?
彼は、何をしようとまったく反応のない美しい少女の首を持ち上げた。震える右手がそろそろと少女の首筋に添えられる。
(ええい、ままよ……地獄などあるものか。やって出来ないことなどあるものか! 俺は正太郎、負けるものか!)
死の概念を消し去る。死への機能を消去する――
まさにその時、正太郎の意識が美咲の中に潜入していったのであった。
第一部 完