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序:悪意のメモリー

 序




 十二月二十三日。

 宵の口の十九時を過ぎると、身を突き刺すほどの凍て付いた風が、豪勢な住宅地の谷間を矢のように突き抜けてきた。港町のガス灯をモチーフにした街路灯は悲鳴のような高音をかなで、家路に着く者達を各々(おのおの)の砦へと追い立てていた。


 この辺りは、海側の都市部から割とマイナーな鉄道路線で繋がれている。そのせいか、知名度的にかなり地味な駅名が連なっている。

 狭い道路幅。無理に鉄道路線を敷いた為に起きる、開かずの踏み切り。一般的には「一方通行か」「迷路か」と見間違えてしまうほどの情景がそこにある。

 それを除けば、閑静で住み易い場所だった。コロコロとリンゴが転げ落ちるように、急勾配の激しい傾斜角がスキー場のゲレンデにも似た坂道を形成する。その上の方から買い物カゴをぶら下げた婦人達が、慣れた調子で自転車のブレーキをキイキイ鳴らし下ってくる。

 時には車も行き来するが、こんな狭い道なので、めったにお目にかかる事はない。まだ夕陽が沈む前には、子供たちも「ケンケンパ」と言いながら“案山子遊び”をしたり、縄跳びをしたり。中には地べたに座り込んで、ちびたチョークでお絵かきを楽しんでいる女の子も見受けられるほど――。

 のきを連ね、道幅いっぱいに商品をせり出して売る八百屋や魚屋の威勢のよさに、道を通る誰もが振り向いて品定めをする。時には、昔懐かしい紙芝居の青年が大荷物を載せた自転車で、大仰に挨拶をしつつ通り過ぎる。

 そんな所々に存在を誇示しているせせこましい商店街も、すぐに渋滞してしまう交差点も、住めば都。それぞれが住人達の心の中により良いスパイスとなってつむがれている。

 片桐須美かたぎりすみの自宅は、そんな地域の外れにある高台の高級分譲地に存在した。

 その場所は背の高い木々に囲まれ、近くにはさる学園の校舎が建ち並び、東京の高級住宅街と横浜の港町の空気が一様に味わう事のできると噂される、風光明媚な住宅地として名を馳せていた。

 父の片桐道夫かたぎりみちおは、三十年前に小さな広告代理店を立ち上げて、コツコツと基盤を築き上げてきた。その甲斐あってか、今や会社は首都圏に五支店を構えるほどの成長を遂げていた。

 鉄筋二階建ての6LDKは父道夫の自慢だった。リビングには薪を使った煉瓦造りの暖炉。山奥の民宿を思わせる囲炉裏端。キッチンとリビングの間には、趣味としか言いようがないミニチュアカウンターバーが存在する。

 父、母、妹と、家族のそれぞれが八畳間クラスの自室を持っている。一階の広間から外へ抜けると、芝の手入れの行き届いた広い庭も存在する。そしてその一隅には、須美の十二才の誕生日に仔犬として連れて来られたゴールデンレトリバーの“雷蔵くん”が待ち構えている。

 須美は高校二年生である。学園生活も良好で、既に三学期にはイギリスへの短期間留学が決定している。

 その、明るくて屈託のない笑顔は学園内でも陰ることはなく、二年生でありながら、同級生下級生はおろか、諸先輩方からも羨望の眼差しが注がれているほどであった。

 彼女にとってこの十七年間は、まるで燦燦さんさんと照りつける太陽の日差しのようなもの。永遠に陰ることを知らない恒久的なもの。天の恵み。選ばれた者にしか与えられない僥倖ぎょうこうと思えた。

 そう、あの忌々(いまいま)しい事件が起きるまでは――


 絶対領域。家族の聖域。いや、彼女の心の最後の領域。それが打ち砕かれた時、すべての永遠が崩れ落ちた。それは、目の前の赤々とした暖炉の薪の燃えかすよりもはかなくてもろいものだった。

 一体誰がこんな事を。一体誰が何の恨みがあってこんな事を――

 何べん悔いようともその事実から逃れる事は出来なかった。ただそれだけ。たった一度の事実があっただけ。たったそれだけですべてが狂い出した。

 その事件がもとで家族全員が一歩も外へ出られなくなった。足音に怯え、時に聞こえる怒号に耳をふさぎ、窓枠から投げ付けられる石つぶてから身を守るようにして過ごさねばならなかった。

 今まであれだけ恩恵をくれた父、母、そして可愛い妹にさえ迷惑をかけてしまった。

 だけどそれはあたしが犯した過ちなんかじゃない、あたしが望んだものなんかじゃない――

 須美は世界中の悪意に犯され続けていた。


 少し足を延ばせば、東京との県境を示す一級河川がゆったりと流れ、都会のよどんだ空気をも清々しいものに変えていた。

 彼女は、小学校に上がるか上がらないかの頃に自転車に乗れるようになった。その前は“ミカちゃん”というキャラクターのロゴとイラストの入った補助輪付きの自転車が宝物だった。

 が、母方の祖母にあたる群馬のおばあちゃんが、入学祝いと称して気の早いプレゼントを贈ってきた。そのせいで、それから毎週のように父と河原の特訓をするハメになった。なんとプレゼントは、子供用の高級マウンテンバイクだったのだ。

 しかし、彼女はありがた迷惑だなどと一度も思わなかった。もうすぐ生まれてくる新しい家族にもお姉ちゃんとして格好の良い所を見せたかったし、八月に上京を約束しているおばあちゃんにも、元気に格好良く乗りこなしているところを見せてやりたかったからだ。

 父は、彼女のつやつやした髪を、弧を描くようになでながら言った。「ママは毎日病院で、須美の妹を産むために一生懸命頑張っているんだぞ。須美は一体何が出来る?」

 須美は襟元で二つ手に束ねたおさげ髪をゆらゆらとはずませて、意気揚々と答えた。「逆上がりができるようになる。自転車にも一人で乗れるようになる」

「お手伝いの方は?」

「うん、もちろんお手伝いもするよ。お勉強もする。お洋服も自分でたたんで枕もとにおいて寝る。だから――」

「だから?」

「早くママに帰ってきて欲しい。ママに帰ってきて欲しい」

 彼女はそう言いながら、父の太い腕に寄りすがりピョンピョン飛び跳ねた。父は複雑な笑みを投げかけて、より一層須美の頭をなで回した。

 須美の母は、生まれつき体が弱かった。その分、妊娠五ヶ月を過ぎる頃になると、入退院を繰り返す生活が続いていた。

 父は何かと不憫ふびんに思い、若くて頼りがいのある家政婦を雇っていたが、須美の心を満足させるまでには至らなかった。その満たされない思いが、幼い須美の芯の強さを育んでいった。その気持ちだけが彼女の意欲を掻き立てていた。

 いきなり補助輪なしのマウンテンバイクは恐怖に値した。乗り心地は“ミカちゃん”の時とは雲泥の差だった。不安が体中を取り巻いて、足の裏から冷たい何かが込み上がって来るのを感じていた。右にも左にもすかすかとした風が舞い、須美の寂しく縮みきった心の中をあざけり笑っているかのようだった。

 それでも彼女は、転んでも転んでも起き上がった。葉っぱの苦い味と涙のしょっぱい味が、起き上がるたびに訪れた。やがて膝小僧がすりむけて血がにじみ出した時、涙が勝手に流れ落ちてきて止まらなくなった。そんな時は、父が一生懸命駆け寄ってきてハンカチで膝小僧を押さえてくれた。

「もう少しだ。大丈夫。須美になら必ず乗れる」

 ようやく父の手が離れ、補助なしでバランスを保てた時、今までの痛みより、寂しさなんかより、頬で風を切る爽快感のほうが上回っていた。父は、遥か遠くの後ろの方で何やら意味不明の大声を上げていた。が、須美には何を言っているのかさっぱり分からなかった。けれど、手を大袈裟に叩き、ターザンのように体いっぱいの雄叫びを上げて喜びを目一杯表現していることは、河原にいる誰もが理解できた。

 彼女はよろよろとよろめきながら、雲の上にでも上ってゆくような気持ちだった。

 これでママに会える。ママが帰ってくる。可愛いい妹を連れながら。これでまた、パパとママと、私と一緒に暮らせる。そして新しい家族も一緒になって――

 根拠はどこにもないけれど、それが彼女の願いだった。そうすることでそうなると信じていた。まだあどけない、幼児としての理屈も邪念も何もない、強い信念のような願いだったのだ。

 だから印象に残っていたのかもしれない。だから深い記憶の底に残っていたのかもしれない。こんな状況に陥るまで。今生の別れを惜しむ間もない、

(こんな最後の最後の最後の瞬間まで――)

 それが、彼女のこの世に生きている上での、跳ね返ってきた記憶の断片だった。次の瞬間、氷のように硬く冷え切った刃が首筋の辺りを通り過ぎた。片桐須美は、どす黒い恐怖に怯えながら、悲鳴を上げることさえ許されなかった。十七年間生きてきて、二番目に不幸で、二番目に恐怖した瞬間だった。

 彼女は、誰にも言いわけを述べる間もなく、絶望の悲しみに暮れたまま、一瞬にして絶命するしかなかったのだ。




 


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