駆け引き
確かに捉えたはずなのに、何の手応えも無い。
おかしい、と、改めて赤く散った飛沫を見れば――
「おわっ!」
飛沫が突如、わさわさと襲いかかってくる。
飛沫――ではない。無数の、血色のコウモリ――あまりに在り来たりでひねりもない、それはただの簡易使い魔だ。
しかし、油断していたところにまるで甘いものに集るアリの様に――しかもその密度がまるで濃厚な霧の様なそれに大挙して押し寄せられれば流石に煩わしいことこの上ない。
ブンブンと錘を振り回し、何とか周囲のそれらを撃ち落とそうと躍起になるが、何しろ数が多い。振り回すたびに手応えは感じるものの、まとわりつくそれらの数は一向に減っていないように思える。
「――ッ、チッ、うぜぇ!」
横薙ぎに大きく錘を振り、牽制しながら、彼はそれから逃れるように大きく後ろへ跳び、距離を置く。
――が。
その、跳躍の最中、全身の肌にピリリと小さな痛みが無数に走った。
見れば、腕や頬など、鎧に覆われていない部分全てに、無数の細かな切り傷が走り、ほんの僅かに血が滲んでいた。
当然、その程度の怪我は怪我のうちに入らない。次の瞬間にはもう消えてしまう程度の、取るに足らないものだ。
さして気にも留めず、彼は周囲四方八方へ視線を飛ばし、朔海の姿を探した。
上空では、大量の使い魔コウモリが群れをなして円陣を描くようにマーズを囲って飛び交っているが――それだけだ。前後左右――……先程マーズに僅かながらにも傷を負わせた鎌鼬が、しつこくしつこく攻撃を仕掛けてくる――が、錘で牽制すればもう、敵ではない。
……が、どうにもすばしこく、中々打ち落とすことは出来ない。
何より――
「……奴はどこだ!?」
「――……霧化、なんてさ。吸血鬼としちゃ、初歩の初歩クラスの技でしょ?」
不意に耳元で声がして。
冷たい感覚が、首筋に――頚動脈のまさにそのすぐ上に据えられた。
「王手だ――さぁ、どうする?」
「成る程、あの大量の使い魔は霧化をカムフラージュするための布石だったわけだ」
「まあ、ね。……だけじゃないけど」
上空を舞っていたコウモリたちが高度を下げ、二人の周囲を輪になって飛び――不意にその姿が溶けて青白い光を放った。
そうして浮かび上がったのは――
……その真の姿を、マーズは目にする事は叶わなかったが、高い場所から舞台を見下ろす観客達の目にはその全貌が映っていた。
「魔法陣――!」
己にも多少ならぬダメージが返るのを承知で、錘を朔海の背に叩きつけようとするも、身体が動かない。まるで金縛りにでもあったかのような……。
「どうだい、僕の愛しい人が思いついたこの戦法は? ……そろそろ毒も効いてくる頃だと思うんだけど」
ひんやりと、無能王子と囁かれた者とは思えない鋭く冷たい声が鼓膜に突き刺さる。
「さて、今のこの王手から、チェックメイトへ持っていくにはいくつか方法があるわけなんだけど。……あなたが負けを認めて試合放棄を宣言するか、もしくは僕がこのままこの刃を引いて貴殿の命を絶つか――……またはここで貴殿の全てを僕が喰らい尽くすか」
チリリと熱い痛みが首筋に走る。
――この感触。
「……銀の刃、か」
「ああ、そうだ。だが、貴殿の命をただ奪うだけでは僕には何の旨みもない。無為に血を流すくらいなら、その力の全てを僕は己の糧としよう」
マーズは四大公の一人。四大公の名を得るためにこれまでに獲得してきたいくつもの称号は紛れもなく己の血に与えられたもの。
だからこそ、それを残らず奪われたならば、それもそっくりそのまま奪い取られてしまう。
それを得るためにこれまでしてきた努力も、磨き続けた実力も、何もかも全てが――
「俺の力は……俺の物だ! 奪われて……たまるかッ!」
ギリギリと歯を食いしばり、精一杯踏ん張るが、いかんせん指先一つ動かせやしない。
「さて。僕は別に貴殿の死を望んでいるわけではない。僕の望みはあの書状に記した通り。と、いう訳で……僕と一つ取引をしませんか、マーズ公?」
「ふん、……いいのか、それで。ここで受けた屈辱を俺は忘れねぇ。今はお前に膝を折っても、明日はお前に刃を向けるかもしれねぇぜ、俺は」
「今はそれでも構わないさ。……こんな力ずくの強引なやり方で本物の忠誠など得られはしない。……例えここが魔界であっても、心が、感情がある限りは力で全てが決まることは決して無い」
マーズ公は、朔海のその言葉に小馬鹿にしたような笑いを浮かべた。
「ふん、俺はこんな甘ちゃんの小僧に負けたのか? ……ちっと地位の上にあぐらをかいて色々怠け過ぎたか」
一つ大きくため息をついてから、マーズは声を上げた。
「――降参!」