迫る危機
――彼女の血は、本当に甘くて。
覚えのある感覚が消え、周囲に感じる空気が変わったと認識すると同時に、朔海はそのまま意識が飛びそうな酩酊感と、自分の体があまりに重く感じられ、背を預けた床から起き上がる気力を振り絞る理性は、強烈な血の渇きにいつ心が折れても仕方のない、そんな極限状態を再認識させられた。
今すぐ、血を補給しなければまずいというのに、自分だけではうまく起き上がることすら難しい。
のろのろしている間に、咲月がこちらへ駆け寄ってくる。
彼女は、躊躇うことなく襟元をはだけて朔海の目の前に自分の首筋を惜しげもなく晒し、朔海の頭を抱え込む。
すぐ目の前で脈打つ、その血管を流れる彼女の血の味を知る本能が、理性を押しのけ、頭をもたげる。
何かを考えるより前に、朔海の体は勝手に動き、彼女の首筋に、深々と己の牙を突き立てた。
じわりと滲んだ血が、舌に触れ、その甘さに目眩を感じながら飲み下せば、力が枯渇し、疲弊しきった身体を優しく癒してくれる。
彼女も吸血鬼となった今、彼女の血では、普段の飢えは癒せないが、まさに今のような緊急事態となれば、下手な人間の血よりはるかに高い効果を得られる。
一口飲むだけで、鉛のように重かった体が軽くなり、二口目には、狭まっていた視野や聴覚に余裕が戻り、三口目には、そこかしこにある小さな傷と地味な痛みが癒えていく。
……限界をとうに超えた渇きに、いつものように彼女を気遣う余裕は無く、牙で穿った傷から溢れる甘露を容赦なく啜り上げる。
こんな吸い方をしたら、咲月にかかる負担は計り知れない。
そう知りながら、けれど一度堰を切られた欲を、途中で止めるには、朔海の理性は既にあまりに疲弊しすぎていた。
ほんの僅かに残された冷静な部分で、朔海は彼女が既に人間でない事に安堵する。
吸いすぎて、彼女を狂った化物としての吸血鬼にしてしまう可能性もないし、人間のようにすぐに貧血で倒れたりする事もない。
ただ、彼女はひどく焦っていた。
――その理由は、朔海の耳にも届いている。
……正直さっきまでは雑音の様にしか聞こえていなかった声が、血を飲み下す毎に、意味のある言葉として脳裏に刻まれていく。
癖のある英語を話す彼らの言葉を、彼女は直には聞き取れず、朔海や潮を通じてその意味を理解している。
潮も朔海もそれどころではなかった今の今まで、まずい状況とは理解しつつも、まだ漠然とした危機感しか抱いていなかった咲月が、復活した朔海の聴覚が拾った単語を理解し、青ざめた。
『火薬』、『油』、『火』。
少し調子は戻ったが、厚い扉に隔てられた向こう側での大騒ぎの中からでは、朔海もまだ単語の端々を拾うのが精一杯であるが……
正直、物足りないどころではなく足りないが、最低限の回復は叶った朔海は、全理性を動員して、牙を収めた。
「――大丈夫?」
乱暴な吸血で、朔海が彼女に言うべきセリフを、咲月が心配そうにかけてくる。
ここで強がっても、彼女にはすぐにバレてしまうだろう。
「このままここでのんびりしていたら、じきに大丈夫じゃなくなりそうな雰囲気だし。いい加減、決着をつけないと、明日になってしまうから」
朔海は、苦笑を返し、ゆっくり立ち上がり、彼女に手を差し出した。
「さあ、行かないと。……あそこをどう突破するか、君は何か考えはある?」
考えなしに出て行って、飛んで火に入る夏の虫の上に袋の鼠になるのはごめんだ。
力づくでなら簡単に出ていけるだろうが、既に焼けてボロボロのこの家でそんな事をすれば、騒いでいる連中を生き埋めにしてしまう可能性がある。
「なら、オレが行って囮になって奴らをここから引き離す。この街の連中に、俺を傷つけられる奴は居ないからな」
朔海が何も言わないうちに、潮はふわふわと扉の向こうへと消えていく。
「ローレル様の祭壇で待ってる」
と、それだけ言い残して。
普段、どんなに朔海に対し悪態をつこうとも、結局はツーカーの仲、という訳で。
そのツンデレぶりに、こんな状況だというのに、咲月はつい口の端が緩んでしまった。




