次なる課題
その表情は、凪――。
それまでの荒ぶる魂は鳴りを潜めているが、その他の感情も読めない。
少し、ステップを踏むペースを落とし、用心深く彼女の様子を伺っていると、彼女は大樹の幹に手を当て、歌う潮が立つ上の枝を見上げる。
ふわりと、足と地面とが離れ、彼女は幹のラインに沿うように上へ上へ上っていく。
もう、彼女が纏う空気に殺気は感じない。
しかし、潮が心配で、ついそちらを気にしすぎ、咲月はよそ見をした拍子にステップを乱し、朔海の足につまづき――
あ、と思ったときにはぐらりと体が傾く。
咄嗟に、彼が支えてくれようと腕に力が入ったのを確かに感じたのに、咲月の体は、彼に向かって倒れていく。
ぐっと、なんとか踏みとどまろうとしている朔海が頑張っているのが分かるのに。
普段の彼なら当然のように軽々支えてくれるはずなのに。
咲月に押し倒される形で、彼の体までが共に地面に向かって傾いていく。
「「うわ!?」」
二人一緒に、地面に突っ込むように倒れこむ。
……地面、とはいえ、ここは普通の場所ではない。
見目はそっくりに整えられ、その香りや感触は似ていても、その“素材”となっているのは全て彼の心を形作っているもの。
思った程の痛みはない。
だが……
ちらりと、警戒し、ローレルの様子を伺えば――
彼女は、特に太い一本の、地面と平行に伸びた枝を選んでそれに懐くようにぎゅうとだきしめ、その上で寝転がり、何やらくつろいでいる様子だ。
潮が、歌うのをやめ、彼女と入れ替わるようにこちらへ降りてくる。
「――姫様」
そして、これまで以上に深刻そうな声で咲月を呼ぶ。
「……潮?」
「ローレル様は、もう落ち着かれた。ひとまずは安心して良いでしょう」
その喜ばしいはずのセリフを、何故か切羽詰まったように潮は言う。
咲月は、潮の言葉に向き合うように、起き上がり、彼の前に座った。
「今、この状態が、この状況でできる最善で……」
潮は、一度言葉を切り、ちらりと朔海に目をやり、
「――これが、限界です」
彼に突きつけるように言った。
「あの樹は、この世界に満ちる力を、ルーンの力を借りてコントロールし、凝縮・加工したもの。力を削られていたローレル様からすれば、あれは久しく見なかった極上のご馳走のようなものです」
あれは、つまり朔海の力の塊で。
それが、彼女のご飯、という事は……
「ただでさえボロボロのコイツが、大精霊が満足するだけの力を吸い取られたら、カラカラに干からびます」
潮の警告に、咲月は青ざめる。
「とにかく、まず一度、ここから出て、何より先にこいつの回復をしなければ。その後、ローレル様をこの世界から現実世界に戻し、改めて交渉しましょう」
朔海は、地面に背を付けたまま、なかなか起き上がろうとしない。
それも当然であると、咲月も分かっているから、急いで頷く。
「ど、どうすれば……」
しかし、勝手の分からない世界で、咲月は答えを潮に求めるしかない。
一度、それを経験している朔海は、何も言わず大人しく目を閉じた。
「大丈夫です。目を閉じてください。“主”が容認している限り、もう出入りは難しくありません」
潮の答えに、咲月も急いで目を閉じれば、とん、と額を指で突かれる感触があり――
突然、床が抜け、高所から落下するような浮遊感に思わず叫びそうになる。
先にそれを覚悟していた朔海が、咲月の手に触れる。
――その彼の手の温もりが、ほとんど感じられないほどに儚くて。
「姫様」
始まるのと同様、唐突にその浮遊感が終わり、潮の声を聞いた咲月は急いで起き上がった。
吸血鬼である彼を、今すぐここで回復させるには、方法は一つしかない。
咲月は彼が起き上がるのに手を貸しながら、彼の前に膝をついた。
片手で襟をはだけ、もう一方の手で有無を言わさず彼の頭を抱え込む。
彼の荒い呼吸を耳元で聞きながら、咲月は目を閉じ、耳を澄ます。
……この場は静かなままだが、鋭敏な吸血鬼の聴覚が、すぐ上階の騒ぎを捉える。
すでに、この場所には勘付かれているらしい。
今は咲月が塞いだあの扉を開けようと四苦八苦しているらしいが、いつそれを見限り、破壊という手段を思いつくか分からない。
――時間の余裕は、無い。
当然、彼もそれに気づいている。
一度、大きく息を吸い、半分ほど吐き出し――
無言のまま、咲月の首筋に牙を立てた。




