交渉
今、ここにいる住民達は、咲月や朔海と紅狼の間の問題に関して、全く無関係なのだ。
――それを、自分たちの事情に巻き込んだ。
だからこそ、咲月や朔海は彼らに余計な被害が及ばぬよう、気を配っていた。
実際、朔海にとってもここにいる者たちとは無関係なのである。
唯一、関係のある咲月だって、正直実感としては無関係だと思う。
だが、むしろだからこそ、自分たちの事情に巻き込まれただけの人間が傷つけられたり、果ては亡くなりでもしたら大変寝覚めの悪い事になると、そう思ったから、こうして力を割いて大掛かりな結界まで張ったのだ。
しかし、仮にも直に血のつながりのある実母が居るのだと、その彼女があの火柱の中に居るのだと言われれば――
「……ああ、分かっていた。――お前がそう言う奴だとは知っていたけど。全く、とことん下衆な奴だ」
すうっと腹の底が冷える気分を咲月が自覚した時には、朔海が竜化を解いていた。
「どうしてお前みたいな奴が、あの葉月の肉親なんだろうな」
憤りを隠さない、緋色に染まった瞳で紅の狼を睨めつけながらも、狼に取り囲まれた地に足をつけ――
「お前みたいな奴の言う取引など信じるに値しない。僕らにだけ要求を飲ませて、お前は後から約束を反故にするだろう事くらい、簡単に想像できる。本当に取引する気があるのなら、誓約をしろ」
一歩、紅狼へ近づけば、彼を警戒するように、彼を囲う狼たちの輪が一歩分狭まる。
「潮、咲月をあの人のところへ案内してやれ。あの中から、彼女を無事に連れ出すんだ。……できるな?」
その中で、朔海が小声で潮に囁いた。
「待て、お前、まさかあの野郎の要求、飲むつもりなのかよ?」
「……奴にも言った通り、素直に飲む気はないよ。奴の言う取引に馬鹿正直に応じるなんて間抜けな事はしないさ。けど、この取引を無闇に蹴れば、彼女の命はその時点で、確実に危うくなる」
だから、こうして交渉に応じている。
「――こうなったのには、僕に責任がある。もっと、僕に力があれば、こんなに待たせる事なく、それこそ君とここへ乗り込んだ時に彼女を連れ出すことだってできたかもしれない」
葉月の助言があったとはいえ、自分が王位を正式に継ぐまでは彼女を迎えないという決断をしたのは朔海だ。
「こういう、“もしも”の備えもせず、放置していたんだ。こういう事態を防げた可能性があったのに、何もしなかった僕に、今出来るのは、君にこうして彼女の救出を頼み、そのための時間を稼ぐことくらいだからね」
「……俺は」
その朔海の頼みを黙って聞いていた潮は、ぎりりと牙を噛み締め、呻くように呟いた。
「オレは、この街を守護する大精霊様の仔で、姫様の精霊だ。だから、オレがこの街を守り、姫様の母君をお助けするのは当然のことだ。お前なんかに、頼まれるまでもない」
小さな手を強く握り締め、ふるふると震わせて、朔海に背を向ける。
「本当なら、お前なんかの助けを借りるまでもなく、オレが街も、母君もお守りするのが、当たり前なのに、オレの力が足りないから……」
ふと、精霊樹を見上げて言う。
「大精霊様の種から、ご主人様の力を受けて孵り、共に成長した精霊は、大抵は主を看取った後、力を得られなくなって、そう遠くなく消滅する。でも、その力次第では、大精霊様の隣で、大精霊様のお力になれる事もある」
それだけの力を有した精霊は、新しい精霊樹として、新たな村の中心となる。
昔、ここの連中がもっと力を持っていた頃は、もっといくつも同族の集落があったんだ。
だが、それも時代を下ると共に力を失い、精霊樹の精霊も弱り、いつしか消えていった。
「今あるのは、ここだけ。……その現状は、お前も知っての通りだ」
もはや、拳だけでなく全身を震わせながら、潮はこぼす。
「……俺に、もっと力があれば。大精霊様に、あの頃の様な力があれば。こんな連中に好き勝手される事にはならなかったはずなんだ」
――紅狼たちが、この街を標的にした。それは間違いなく朔海の責任であるが。
「ここは、ただの、力なき人間の民が住む街じゃない。……魔物を狩る事を生業とする者の集う街だ。なのに、魔物相手に街を守りきれていないのは、決してお前のせいじゃない」
人さらいなどという非道な真似をしてまで力を欲したにもかかわらず、その力を得られていない――どころか、その性根こそが力を失う理由だと理解できなかった。
「確かにこいつらは、オレたち一族がこれまで相手にしてきた中じゃとびきりの強敵だ。最盛期だった頃の、一番の腕利きだって、万全の態勢での紅狼に勝つことはできなかっただろう。……けどな、奴らを街に入れないまま追い払う位のことは簡単にできたはずなんだ、お前たちの助けを借りなくてもな」
だが、現状はどうだろう。朔海や咲月が駆けつけていなければ、街はあっけなく滅んだだろう。
こうして必死に守っていてさえ、狩人たちは狼たち相手にまともな抵抗ひとつできていない。
「お前が、命をかけて守るべきは、姫さまと、他の誰でもない、お前自身であって、この街の連中じゃない。姫様の母君を気遣ってくれるのは嬉しいが、それだって、お前が命をかけてまで守るべきものじゃない」
そして、潮は大きく息を吸い――
「――姫様!」
大声で、叫んだ。
「姫様、オレに力を貸してください。一族直系の血を引く姫様のお力を、オレに貸してください!」




