本番前日
ざわざわと――。
流石に今日ばかりは、朔海の率いる側近たちだけでなく、儀典省から派遣された役人や、たくさんの侍従に侍女、下働きの者や兵達が、この広い会場が手狭に感じる程に大勢、忙しなく出入りしては、明日の準備を整えていく。
――この場だけではない。
戴冠式の会場となるここから、街中の闘技場へ向かうルートの確保と警備計画。
そこで行われる妃の披露目式に伴う称号への挑戦。
そこへ至るまでのタイムスケジュールを綿密に詰めていく。
朔海が、それぞれの責任者と話を詰め、導き出した指示を仰いで側近たちがそれを実行部隊である役人や使用人たちに具体的な命令を下していく。
城の中での朔海の立場は、まだ弱い。
竜王位を得て、一応の発言権は得ているけれど、それでも長いこと魔界を離れていた分の存在の希薄感や、人脈の乏しさまでを一夕一朝に埋められるものでもない。
おそらく朔海自身が直接役人や使用人に命じても、彼らは素直には動かないだろう。
だが、朔海が抱える側近たちはそれぞれ魔界でその力を認められた者たちだ。
彼らに背き、彼らの勘気を自ら被ろうとする者など、居るはずもない。
命じられた仕事を、忠実にこなす彼らによって、床は鏡のごとくピカピカに磨かれ、窓や鏡も一点の曇りもなく磨き上げられ、緋毛氈や招待客の席、壇上など、会場の仕様が急ピッチで整えられていく。
そんな様を横目に見ながら、咲月はといえば、明日の式進行を書き出したメモとしかめっ面でにらめっこをしていた。
披露目式の方は、そもそも民衆相手のものだし、咲月自身が先頭に立って計画したものなのだから、そうそう心配すべき事もないのだが、戴冠式の方は違う。
王制や、貴族文化を持つ国であるなら、おそらくどこでも、こういう儀式というのは色々と細々とした“伝統”という名前の作法や決まりごとが山ほどあるものなのだろう。
しかし、儀典省から「覚えろ」と渡されたマニュアル本的なそれの分厚さには目眩を覚えたくなったし、これまで数回こなしたリハーサルでも、幾度となく鋭いダメ出しが飛んだ。
今日、これから、この会場の支度が整い次第、最後のリハーサルが行われる。
それを終え、ひと眠りしたらもう――明日は、本番だ。
今日のリハを見守るのは、この城の役人たちが主だが、明日の本番は、貴族院や元老院の議員や有力貴族の代表者、王族関係者等々、そうそうたる面子が勢ぞろいで、こちらを注視することになるだろう。
そして、そういう輩は得てして、普通なら見逃してもおかしくないようなごく些細な過ちでも目ざとく見つけては、あげ足取りをするものだ。
だから、明日はどんな些細なミスもおかしてはならない。
分厚いマニュアル本も頭に叩き込んだし、何度かの練習で、式次第も体に叩き込んだ。
だから、大丈夫なはず。
それでも……そのプレッシャーに押しつぶされそう――。
昨日までだって、不安がなかったわけじゃないけれど。
けれど、もう明日が本番という直前の空気が、その重みを何倍にも増やしている。
彼らの鼻を明かしてやろうと、半ば捨て身の覚悟で乗り込んだ前の儀式の時には感じなかった種類の緊張。
それは、自分のミスが、自分自身のみならず、朔海や、ひいては未来までをも巻き込んでしまうから。
壇上に上がる階段で、ドレスの裾を踏んづけて転ぶ夢。
宣誓の声が裏返る夢。
壇上で、頭が真っ白になって動けなくなる夢。
昨夜は浅い眠りの中、嫌な夢ばかり見てはハッと目を覚ますこと数回。
寝不足もあって、神経が磨り減っていく。
手に持った紙に目を落としたまま視野を狭めていた咲月は、だから、血相を変えて飛び込んできた一人の男の存在に気付けなかった。
彼が真っ先に朔海のもとへ飛んで行き、そっと耳打ちするのを、見ていなかった。
その囁きに、朔海が顔色を変えたのすら、咲月はその時、見逃していた。
「朔海様に、緊急の伝令です!」
ひしめく者たちの間に無理やり割って入りを繰り返し、息を切らせてやってきた侍従が、切羽詰まった声を挙げた。
朔海は、見覚えのない顔に、眉を顰めた。
「我は、烏の使い。赤の狼が、我らの子を奪いし一族に牙を剥かんとしていると、主の仰せです」
しかし、やけに無表情なその男が声に出したその言葉に、朔海はすぐにその真意に気付き、頭からたらいいっぱいの氷水を浴びせかけられた気分を味わった。
思わず大声を出さなかっただけ、自分を褒めてやりたい。
「――悪い、少し外す」
朔海は足早に、一人会場を抜け出した。




