阿鼻叫喚の中で
血が煮え立つ、だなどと、何かの比喩ではなく実際に目にする場面など、普通ではあり得ない。
それは人の世ではないこの魔界でさえも、そうそうお目にかかる機会はない。
ましてや、この規模。
あまりに急激に加えられた熱に、水分が一気に蒸発するその力で、大量の血が弾け飛ぶ。
血の匂いを濃厚に含んだ水蒸気が霧のように闘技場を満たし、弾けた血が雨のように降り注ぐ。
――そして、それは四大公クラスの吸血鬼の血、だ。
あっという間に観客席が阿鼻叫喚に包まれた。
観客席に詰めかけていたのは大半が街の住人。……貴族クラスの吸血鬼よりも力の劣る者ばかりだ。それが、四大公クラスの毒を浴びればどうなるか。
その答えが、今まさに眼下に繰り広げられている。
毒に焼けただれた肌を押さえて呻く者。
蒸発し、漂うそれを吸い込み苦しむ者。
その苦しみ様は、その者の実力差を如実に表し、七転八倒する者もあれば、顔をしかめる程度の者まで居るが、少なくとも全く平気な顔をしている者は殆ど居ない。
――そして、彼ら同様血を浴び、血の霧を吸い込んだ朔海は、血を含んでドロドロになった地面へと降り立ち、膝をついた。
先程の火傷に加え、そこへ塩をまぶされた様な苦痛に額に脂汗が浮かぶ。
吸い込むごとに香る血の匂いが、喉の痛みを思い出させる。
それでも、朔海は気力を振り絞って、ゆっくりと立ち上がった。
その視線の先には、泥に半分埋もれるように倒れ伏したマーキュリーの姿がある。
それは、青いじゃがいもから全身を赤く焦がし、まるでチリソースをまぶしたようになったまま、ピクリとも動かない。
「……あれ、もしかして死んでるのか?」
潮が恐る恐る尋ねる。
「彼は、まだ灰になってない。……吸血鬼が死ねば、例外なく灰になる。だから、彼にはまだ息があるはずだ」
しかし、彼がもう戦いを続けられる状態でないのは誰の目にも明らかだった。
「ま、マーキュリー公、戦闘不能!」
パニックを起こしかけた会場に、かき消されそうなアナウンスが流される。
「つ、続けて第七戦を開始します! ――カヴァルステラ首長、朱馬殿、舞台へ!」
名を呼ばれた彼は、肩で息をする朔海の前へ、不機嫌そうな顔をしながら、この阿鼻叫喚の中を悠々と降り立つ。
「……全く。全くをもって、不愉快だ。このような煩い場は好かんが、それ以上に――礼儀知らずの若造らめが、場をこうも荒らしおるとは。実に、不愉快だ」
一歩踏みしめる事にぐしゃりぐしゃりとぬかるむ地面に、ひと睨みでひとを氷結させられそうな目を向け、苦々しげに呟いた。
――まあ、その気持ちは分からないでもない。
「……だよなぁ。あの衣装じゃ――」
潮はそれを見て、呆れたように呟いた。
「けどなぁ、一応戦いの場だろう? 今のこの地面の状態は確かに最悪だけどよ、ありゃ戦う格好じゃねえだろ?」
何しろ、彼は大変簡素ではあるが、しかし、ともすれば裾を踏んづけそうな丈の黒の貫頭衣を身につけ、その上から濃い朱のマント状のガウンを羽織っているのだ。
自らの城で、城主の椅子に座るには相応しい格好だろうが、どう見積もっても動きやすい格好とは言えまい。
実際彼は、その長い裾が地面に触れるのを厭い、煩わしそうにわざわざ裾を摘んで歩いている。
その足元は、白い足袋に昔ながらの――古代ローマ人の様な、草履に似たそれを履いているせいで、既に悲惨なまでに汚れてしまっている。
彼の不機嫌の一番の理由はそこにあるらしい。
忌々しげにそこから視線を逸らし、既に立っているのがやっとという有様の朔海に、慇懃に腰を折って見せた。
「――ここまでの戦い、私の好みからは大いに外れておりましたが、なかなかにお強い。成る程、我が一族の下位の者たちよりかは優秀であると認めましょう。……ですが、今のそのご様子を見るに、私の相手が務まるとは到底思えませぬ」
「……それは、どうかな」
現状、あまり余裕がない状態なのは確かである朔海は、そう控えめに言い返した。
「私、衣装を汚すのが何より嫌いで。ですから――」
彼は表情こそ微笑みながら、しかしイライラしているのを隠しきれていない様子で告げた。
「ここらで、ぜひ試合放棄を」