希望の星
ぶるりと、寒くもないのに思わず身震いしてしまいたくなる悪寒を感じ、朔海はそっと小さくため息を吐いた。
食事を済ませ、しばし歓談を楽しみ。――しかし、明日も忙しい朔海と咲月を慮り、少し早めのお開きとなった、ひと時の団欒。
彼女たちを主寝室の他にいくつかある寝室へ案内した後、穏やかな空気のまま、咲月と2人、昨日まで朔海の両親が使っていたそこへ足を踏み入れ。
無駄に豪奢な部屋に、二人して目眩を覚え、早めのリフォームの必要性を互いに確認しつつも、今日のところは諦める他ないとベッドに横になった――その時。
……潮を通じ繋がる咲月との絆とはまた違う、葉月と交わした主従の絆。
潮を通じて咲月と意思疎通が図れるような、そこまで強い絆ではない。
しかし、葉月が抱く喜怒哀楽の感情がそのどれかに強く傾いた時、それと察知できる。
――そう、今のように。彼……葉月が、ギリギリで抑えている強い怒りと憎悪の片鱗が、まるで悪寒のように感じられる。
……意図して繋げば、おそらく朔海を通じて、咲月もそれを感じることは可能であろうが。
楽しい、嬉しいといった感情なら良いが、疲れているだろうこんな時に、わざわざ負の感情を共有しようとは思わない。
だから咲月は、心配そうに、
「寒いの?」
と尋ねてくる。
「……いや、それほどでも。日本は今頃、冬真っ盛りだろうけど、魔界に四季なんてあって無いようなものだから。地域や日時によって多少誤差程度の違いはあっても、一年中このうすら寒いくらいが普通なんだ」
多少寒かろうが、吸血鬼にとってそれは支障にならない。
「――ああ、でも……」
しかしそれは、温もりに惹かれない理由になりえない。
「身体は別に冷えてないけど、今日はさすがに心とか内蔵とかは色々冷やしたかも」
もちろん、本当に緊張したのは咲月の方だろうが、それを黙って見ているだけというのも、なかなかに地味に辛い仕事だ。
疲れた心に触れる温もりが、たまらなくもどかしくて。
「今日の咲月は……見ていて、凄く綺麗で格好良くて……。とても誇らしかったけど。でも、ちょっと面白くなくて」
もっと言えば、つい今しがたまでのほのぼのとした団欒ですら――それは朔海の望みでもあり、微笑ましいとも思うのに――ほんの僅かながら、面白くないと感じていて。
「もう、咲月はこの国の王妃だから。僕が独り占めにはできないけど……」
本当を言えば、この国の王である朔海がその気になれば、ちっとも難しいことではなく、実際王家の歴史書を紐解く――までもなく、涼牙にでも尋ねればすぐにも王妃を籠の鳥として飼い殺しにした先祖の話がいくつも聞けるだろうが。
「……でも、今――この部屋の中に居る間だけは――」
そんなのは、朔海の望むところではないから。
「格好良い服着て、一番高い席に座って。……本当は、そんな大した距離でもないのに、凄く遠くて。朔海はもう、この国の王様なんだって、分かっていたのに思い知らされた気がして……。面白くなかったのは、私だって同じだよ」
彼に頼らず、力を見せる。その目的を終え、城に戻ってからも忙しく、今、ようやく二人きりになれた。
ルナや師匠とのおしゃべりはもちろん楽しかったけれど。それでも、ほんの僅にもどかしい思いを抱えていた。
でも、今は――
「だって、この時間を守るために、この今を選んだんだもの。そこは当然、でしょ?」
それだけで済まない事情を理解しても、やはりそこは譲れない。
だから、咲月は遠慮なく彼に手を伸ばし、触れる。
すぐそこにいる彼を確かめるように彼の温もりを求めれば、
「――うん」
彼も素直にそれを求めはじめる。
「……でも。僕たちが、初めに望んでいたこと。僕たち二人で、静かに暮らす未来も、僕は諦めてはいないから」
ベッドに身体を預けながら、朔海が咲月の耳元で囁く。
「いつか。魔王ルシファーの望みを叶え、契約を満了したら。……王位は誰か適当な後継者を見つけて譲って。そしたら、あの屋敷に戻って。今度こそ、二人で静かに暮らそう」
それは、きっと、人間の感覚で言えば永遠にも等しい、果てしなく遠い未来の話。
けれど、それは二人にとって、この豪華絢爛な部屋よりよほど魅力的な話で。
「うん。そうだ、今は無理でも……だからって、諦めなくてもいいんだ」
朔海の言葉でまた一つ、先の見えない長く険しい道の先に希望の星が灯る。
互いの熱で、摩耗していた心が癒される心地よさに微睡みはじめる頃――
カツン、と。
小気味の良い音を響かせながら、黒のビショップの駒を一つ、他に並ぶ駒のない盤面の真ん中に置き、それを楽しげに眺め――
「やはり最初の一手は、彼……ですか」
「まあな。王も女王も強い駒だが、使いどころを間違えると痛い目にあう。王を失えば、ゲームが終わる。あれは実にいい駒だが、盤面に投入するにはまだ時期尚早だ。お前の用意した騎士に至ってはまだ駒ですらない見習いだしな」
「……知らせはもう?」
「使いは、出した。明日辺りには着くはずだ」
「ならば。その采配が吉となるように」
漆黒の翼を背負う少年のような見目の彼が置いた黒のビショップを手に取り、それと対照的な純白の翼を背負う青年が、駒に口づけを落とした。
魔界の空を、目当ての“彼”の居場所を目指し、魔王の命令書を携えた“使い”が翔けていく。
――双葉葉月。魔王ルシファーの名に於いて、古の契約に基づき、『管理人』の役を申し付け、任を命ず。
また一つ。次の歯車が回り始める――が。それはまた、別の話――……。