タイムパラドクスとミドルネームの関係性についての考察
かのアインシュタイン博士が立証した特殊相対性理論を打ち破る、光速を越える物質が発見されて既に十年以上の月日が経過しようとしている。その後、時空間理論は空間圧縮論や物質の電子化に関する考察などの手助けを借りて、僕たちの生活に役立つ技術へと展開した。もちろん宇宙開発にも成果を残し始めているらしいが、僕達が宇宙旅行を気軽に出来るようになるにはもう少し時間がかかりそうだ。そしてもちろん、人類の夢とされてきたその技術も確かな進歩を見せているわけで。
だから、突如として現れた彼女の言い分があながち間違っていると否定はできない僕が居るわけです。
「つまり、君は未来から来たって事なのかな? えっと、小林さん」
「はい、その通りです長谷川博士博士。あ、私の事は直美=コバヤシテクノコーポレーションセタガヤシブインフォメーションマエエントランス=小林とお呼び下さい」
漢字で書かれるとわかり難いかもしれないが、『博士』が僕の名前で、『博士』は彼女が僕に付けている呼称である。つまり未来では僕は博士の称号を貰っているというのが彼女の言葉なのだが。そんな事よりも突っ込まなくてはならないところがある事は御覧の通りである。
「えーと、その長ったらしいのは君のミドルネームっていう事で良いのかな?」
「はい、長谷川博士博士。あ、お気軽に直美=コバヤシテクノコーポレーションセタガヤシブインフォメーションマエエントランス=小林と呼んで下さいね、長谷川博士博士」
無用と思えるほどのフルネームの連呼は彼女のポリシーか何かなのだろうか。一先ずそこの改善が終わらないと話が長引いて仕方ない。そう判断した事は、間違っては居ないと思いたかった。
「僕の事は博士で良いよ。名前で呼んでくれてかまわない。そっちの方が気楽で良いよ」
「なるほど、わかりました長谷川博士博士。これからは長谷川博士博士の事は名前で呼ぶ事にします。それが長谷川博士博士の意向ならばいたしかたありません」
本当にわかっているのだろうかと疑いたくなるような返しである。いや、言っていることは合っているのだが。
「本当にわかってるんだよな?」
「もちろんわかってますよ。えっと……ヒロシくん」
それは不意打ちでした。
しかし、特筆すべきなのはこういう状況に誘導したのが自分であるという事です。少し戸惑ったように上目遣いで申しわけ無さそうにこちらの反応をうかがってる彼女は何とも言えず、こう、アレなわけで。つまり僕は今、自分を褒めてあげたいというわけです。
「あ、あの。教科書に載るくらい有名な研究者である貴方にくん付けは失礼なのかもとは思ったのですが、この時間軸での貴方は私より年下な訳で、かと言って呼び捨てにする訳にもいかず、こうお呼びするのが妥当ではないかと判断したのですが……ダメだったでしょうか?」
「へぇ、教科書に載るんだ。でも、うん、まあそれで良いよ。くん付けで」
「そうですか、良かった! ありがとうございます。私の事はどうぞ、直美=コバヤシテクノコーポレーションセタガヤシブインフォメーションマエエントランス=小林とお呼び下さいね」
困ったときはおろおろと、嬉しい時は笑顔で、とても素直な反応を示す彼女はとても心地よく、好ましいと思わざるを得ない。しかし、執拗に自分のフルネームをを繰り返す彼女にどう対処したものか、考える必要があるようだ。
「その……ミドルネーム? のコバヤシコーポレーションって会社の名前だよね?」
「はい、コバヤシテクノコーポレーションは時空間理論を研究して私たちの暮らしに役立つ商品の開発を承っている会社です。恥ずかしながら会社の所有は私の名義になっているのですが、実際は父から受け継いだだけのものでして、経営に関しても未だに父の教えを受けながらという形をとっておりました。今回のような特例が無い限り私はお飾りの代表としてあったわけで、働いてくださっている社員の皆様には申し訳ない思いです。はい」
どうやらおしゃべりなのが彼女の仕様であるようだが、今回のは何か胸につかえていたものを吐き出すかのような言い方だった。社長でありながら中間管理職的な自分の立場について普段は言えない思うところが有るのだろう。
それは良いとして。
「えっと、セタガヤシブとかインフォメーションマエとかいうのは? 住所のようだけど?」
「はい、住所です。ミドルネームは自分で考えてつけても良いという制度が出来まして。それは自分の親から貰った名前が気に入らなくて改名する人が増えた事と、法の改正を良しとしないお偉いさんや名前の改正を非情だ不健全だと言い張る団体が現れた事でちょっとした論争になりまして、折衷案として誕生したものなのですが、私自身にはネーミングセンスというものが欠如している節がありまして、それならば何かの役に立つ物にしようと思いついたのがこのミドルネームなのです」
「役に立つ?」
「あ、その。迷子になったときとか……」
「えっ? つまりこれ君の住んでいる場所の住所なの?」
「はいっ!」
元気な笑顔で二つ返事を返すわけですよ。
自分が死んだ後の法律なんかに興味はないが、この国の未来は間違いなく不安である。個人情報保護法はどこに行ったんだよ。
「あの、エントランスって玄関口だよね?」
「はい。あ、玄関に住んでいるという訳ではなくて、会社自体に住んではいるのですが、入り口に近い方が便利だろうとエントランス近くに自室を作りましてですね」
「そこで生活してるんだ」
「はい、おかしいでしょうか?」
度重なる質問でさすがに不安になったのか、こちらをうかがうような質問をしてきた。考え方や習慣が大分未来へ向いている事は仕方のないことなのだろうか。
「うん、いや。おかしいかどうかは、君の時代の人間に聞くと良い。この時代とはズレがあるかもしれないし。とにかく、君の名前については了解したよ」
「本当ですか、良かったです」
「うん、でも、良かったら君の事は小林さんって呼びたいんだけど、ダメかな?」
「え……そんな、それは少しよそよそしくないですか? これから一緒に暮らすのに」
「いや、普通だと思う……て、ちょっと待て。今聞き漏らすには衝撃的過ぎる事を言ったぞ。小林さん」
「直美=コバヤシテクノコーポレーションセタガヤシブインフォメーションマエエントランス=小林って呼んでほしいんですが」
「フルネームで呼ぶのはよそよそしくないのか? ってそうじゃなくて、一緒に暮らすってなんだよ」
「はい、ここで一緒に。私はそのために未来から来たんですからっ」
今日一番の笑顔を浮かべながら、今日一番わけのわからない事を言い始めた彼女をそれでも可愛いと思ってしまうという、もう末期的な症状を自覚しながら、僕はそれを聞き返さなければならなかった。
「そういえば、君がここに来た理由をまだ聞いてなかったっけ。僕に何かを届けに来たんだと勝手に解釈してたんだけど?」
「すごいです。その通りですよ博士くん。私は貴方に時空転移装置ひらたく言うとタイムマシンの作り方を伝える為に未来から来たのですよ」
「作り方って……タイムマシンを作ったのが僕って事!?」
「はい。その功績を称えられて、貴方は教科書に載るほどの有名人になるのですから!」
「……それって、つまり君が教えてくれるからタイムマシンが出来るって事だよね? 未来から来た君が教えてくれなければそれは完成しない、と?」
「そう、そうなんです。さすがです。飲み込みが早すぎてビックリですよ。あ、ちなみにこれは正史に残っている事実なので、時空間航行法には抵触しません。安心してください」
どうりで。過去の存在である自分に関わっているにしては彼女は積極的すぎると思ったんだ。つまりこれは歴史に残る行為で、未来の使者である彼女の教えで僕がタイムマシンを作り上げる事は彼女の居た未来では教科書に載るほど有名な出来事である、というわけか。
まてよ、それって僕の功績か?
「なんか……僕じゃなくても良いような気がするんだけど?」
「いいえ! 貴方に会って、お話を聞いて確信しましたっ! 貴方ほどこの異常な事態に異常な速さで適応してやや冷静すぎて引くくらいの対応を見せる人物なんて、この時代の地球上をいくら探しても滅多に見つからないですよっ!」
なんだか褒められている気がしない。むしろ馬鹿にされてる?
「まぁ、いろいろ置いといて。君の言い分はだいたいわかったよ。でも、それならタイムマシンの制作に関する情報だけ置いて帰っても良いんじゃないかな? わざわざ君がこの時代に残る必要性を感じないのだが?」
「そんな事ありません。だいだい、帰る方法も有りません!」
「え? あのけして広くは無いうちの庭を今も占領している、君が乗ってきた無用に幅をとる球体はタイムマシンじゃないのか?」
「はい、あれはただの時間移動用のカプセルです。時空転移装置本体は我社の専用転移室に備え付けられていますので。時空転移装置は電荷によって大きな負荷をかけるため、固定式で無ければならないのですよ。その超電荷でカプセルを光速以上の速さで打ち出し、一気に特異点を越える事で時間移動を可能にしているのです。あれはそれらの衝撃から内部のものを保護するためのカプセルなんです」
うん、説明を聞いても良くは理解できない。こうなると、自分が本当にタイムマシンの開発者になるという話も、俄かには信じがたくなってきたな。
「えーと、本当に僕が開発者なんだろうか?」
「はい、間違いありません。今はわからなくても、これから私がみっちりと教えますので、大丈夫ですよ!」
「え、君が教えてくれるの? 何かに情報を保存してあってそこから取り出すとか、脳に直接チップを埋め込むとかじゃなくて?」
「はい、情報は私の電子脳に保存してありますので私がお教えします。私の時代では電子脳同士で情報を通信する事も可能ですが……ヒロシくんはまだ電子脳を持っていませんよね?」
「あ、ああ。電子脳っていうのも初耳だけど、なんとなくわかるよ。似たような物が出てくるSF作品を読んだ事があるから。その電子脳は今は使えないんだよね? 専用のネットワーク自体が無いし」
「いえ、簡易的なものならこの時代のインターネット? でしたっけ。それを利用して情報のやり取りをする事は可能です。だけど、ノイズが混じる可能性があるし、文字化けしたものを電子脳に保存したくないので、使用は極力避けたいです」
「な、なるほど」
これで、彼女がここへ来た経緯は大体わかった。信じがたい話だが、彼女の乗ったカプセルが突然目の前に現れたのをしっかりと目撃してしまった以上、この話を信頼するしかない。
僕はこれから未来人である彼女の教えを受けてタイムマシンの雛形となるものを制作する事になるのだろう。なんだか『ニワトリと卵』みたいな話だが、その論争すら古代から受け継がれてきたものならば、この世界の真理など所詮はそんなものなのではないだろうか。
「あれ? じゃあ、君は自分の時代に帰れないんじゃないか?」
「はい、そう、ですね。ヒロシくんが時間転移装置を完成させるまで帰還は不可能です」
「ちなみに、タイムマシンの完成までにはどのくらいの時間がかかるんだろうか?」
「史実では、二十年後です。一・二年なら誤差として認められると思いますが……」
目蓋を伏せて、それでも笑って見せる彼女に胸が熱くなる。だけど僕はこんな時でさえ、来てくれたのが彼女で良かったなどと、自分勝手なことを考えていたのだ。
「しかしそうなると、あのミドルネームは意味がないね」
しんみりとする空気を何とか改善しようと放った言葉は、話をふりだしに戻すようにも思えたけれど、この状態を打破する適切な台詞など浮かんでくるはずもなかった。
しかし、それは思いのほか効果を発揮したようで、彼女は憂鬱に染まる表情を全て洗い流したような、そんな様子で固まるのだった。
「ど、どうしましょうヒロシくん! とりあえずミドルネームをここの住所に変えるべきでしょうか!? ああ、ダメですそれは許可されないんでしたっ!」
「いや、落ち着いてよ。変えるにしたって、君の戸籍はこの時代には無いし。ミドルネームを付ける文化もまだ無いんだ」
「戸籍ならありますよ! 会社で偽造しましたから。ああ、でも名前が『直美=コバヤシテクノコーポレーションセタガヤシブインフォメーションマエエントランス=小林』になってますっ! この時代にはコバヤシテクノコーポレーションもセタガヤも無いのにっ!」
「だから落ち着けってば。あと、世田谷はあるから! ていうか偽造したのかよ、犯罪だろ!?」
「何言ってるんですか! 未来で作ったものなんですからもう時効です!」
「そ、そういうものなのか? でも戸籍まで用意していたなんて……」
「あ、当たり前じゃないですか。これが無きゃ結婚も出来ませんよ?」
「えっ!? あ、ああそ、そうだよね。うん。えっと、誰と? ってそういう意味じゃないよな、うんゴメン。ちょっとなんか混乱してきたんだけど。一般論としてだよね? うんうん。あ、小林直美で良いんじゃないかな、名前」
「……それじゃあダメなんですよ」
どうやら落ち着かなければならなかったのは自分の方だったようで、小林さんは俺の様子をジッと見つめた後、なぜかむくれたようにそっぽを向いてだんまりを決めてしまった。今日のところは時空間理論の勉強も時空転移装置の仕組みについての説明もおしまいのようだ。
そういえば、彼女の名前も伝える側として教科書に載るのかも知れない。それ故に長いミドルネームにあれほどこだわったのだと仮定するなら、彼女の反応もフルネームを連呼していた事にも納得ができるな。うん。
彼女が一緒に暮らす事は、両親もなぜだかすんなりと受け入れてしまい、彼女が未来から持ち込んだ、簡単な記憶を操作する装置も出番を与えられる事は無かった。僕はそんな物騒な物がある事を後から知らされた訳なのだが。
とにかく、楽しくも奇妙な僕と彼女との共同生活は、こうして幕を開けたのです。
<終幕>