(番外編)シリウスとバレンシア 中編
その日の夜の〈愚者の夢〉亭の帰り道。シリウスはティーナとエリスを魔法屋まで送り届けていた。
誰がなんと言おうと、女性はちゃんと家まで送り届ける。それがシリウスの信念なのだ。
「そういえば、シリウスさんとバレンシアって、どうやって出会ったんですか?」
道すがらエリスに問いかけられ、シリウスは自身が運命的だと信じているバレンシアとの出会いについて語り出した。
二人が知り合ったのは、いまから十年ほど前のこと。
当時のシリウスは母親を流行り病で失ったばかりで、冒険者崩れの父親も日雇いの過酷な労働で終日留守がちであり、日中のほとんどを一人で過ごしていた。そのとき彼が感じていたさみしさは、今でも思い出すだけで胸が苦しくなるほどであった。
そんな彼を救ったのがバレンシアだった。
バレンシアは一人でメソメソ泣いていたシリウスを見つけたとたん、強引に引っぱって父親のスラーフが趣味でやっていた剣術教室に無理やり参加させたのだ。
最初は意地を張って真剣にやっていなかったシリウスも、やがてバレンシアに感化され、徐々に真面目に剣術に取り組むようになった。
気がつくと、自ら率先してバレンシアたちと遊ぶようになっていた。いつしか彼の心の中にあった寂しさは、遠い空の彼方へ消えてしまっていた。
同時に、それまで表に出ることのなかった溢れんばかりの才能が開花し、メキメキと剣の腕を上達させていくことになる。
「俺は今でも、バレ姉にあのとき声をかけてもらえたことにすごく感謝してる。今の俺があるのも、全部バレ姉のおかげなんだ」
「とっても素敵なお話ですね」
感心するエリスの横で、ティーナがわざとらしく「はぁ」とため息をついた。
「なぁシリウス。そうやっていつまでも思い出を美化してるのは良いんだけど、キミはいつまで腰抜けでいるつもりなんだい?」
「……それはどういう意味だよ?」
「あんまり手をこまねいていると、バレンシアを他の誰かに取られちまうぞって意味だよ」
「な、ティーナお前なにを言って……」
動揺を示すシリウスに対して、ティーナは鋭い口調で決定的な言葉を投げかけた。
「ボクの口から言わせるつもりかい? キミがバレンシアにぞっこんなのは、周知の事実だぞ?」
「な、な、なんてことを!! お、俺にとってバレ姉は、姉のような存在であって……」
そこまで言われても、まだ必死に言い繕おうとするシリウス。だが哀れむような目でティーナに見つめられ、シリウスは思わず黙り込んてしまう。
「シリウス、ボクはバレンシアには幸せになってもらいたい。だけど、キミのような腑抜けにバレンシアはもったいないと思ってる」
「ぐっ……」
「ボクは別にキミがどうなろうと知ったことじゃない。だけど、バレンシアは別だ。キミがもしバレンシアのことをただの姉だと思ってるんなら、貴族の令嬢と仲良くしてなよ。もっとも、ボクが男だったらさっさとバレンシアを奪っていくけどね」
ティーナに一気にまくし立てられ、シリウスはなにも言い返すことができなかった。
うつむいたままのシリウスに対してティーナは大きなため息を吐くと、エリスに声をかけてそのまま立ち去っていった。
帰宅する道すがら、シリウスが心配になったエリスがティーナに声をかけた。
「ねぇティーナ、さっきはちょっと言い過ぎじゃないの?」
「ふん。あれで奮い立たなきゃ男じゃないね」
ピシャリと言い放つティーナに、エリスはふふっと笑みをこぼす。
「ティーナって、シリウスさんと仲悪そうなのにずいぶん買ってるんだね」
「……まぁ真面目なだけが取り柄なつまらないやつだけど、変なやつにバレンシアが引っかかるよりマシだと思ってるのは確かかな?」
「ちょ、ちょっと、もう少し言いようがないかな?」
ティーナをたしなめながらも、基本的にはエリスも彼女の意見に同感だった。なにより二人は美男美女でお似合いカップルではないか。
うまくいくといいけどな。エリスはそう思いながら星空の輝く夜空を見上げたのだった。
その日の真夜中。
ひゅん。ひゅひゅん。風を切るような音が暗闇の中で響き渡る。星空の下で剣を振るっていたのはシリウスだ。
シリウスは実家の裏庭で一心不乱に剣を振り回していた。
自分の心の中のなにかと戦うかのように。己の魂に問いかけるかのように。
やがて空がうっすらと明るくなってきたころ、彼はふいに呟いた。
「……バレ姉が、他の誰かのものになるなんて考えられない」
シリウスは手に持っていた剣を落とした。カランと乾いた音を立てて、剣が地面に転がる。
彼は気づいたのだ。たった一つの真実に。
「俺は……バレ姉のことが好きだ。他の誰にも渡したくない」
◇◇◇
シリウスは夢を見ていた。
古びた街並みの中にある人通りの少ない路地で、幼い彼はひとり泣いていた。
あぁ、またあの頃の夢を見てるんだな。シリウスはすぐに気づく。
彼には原風景と呼べるものがある。遠い昔の記憶、彼がまだ幼かった頃のこと。
あの頃のシリウスは母親を失ったばかりで、父親も仕事で忙しく、ずっと放置されていた。さみしくて、悲しくて、一人で遊んでは泣いていた。
運命のあの日も、彼はいつもと同じように泣いていた。そして、彼女が現れる。
「どうしたの?」
下を向いたまま泣きじゃくるシリウスにやさしく声をかけてきたのは、一人の少女。
のちの彼の運命を変えることとなる少女の真っ赤な髪は、爆発してふわっふわの綿菓子みたいになっていた。
「なんで泣いてるの?悲しいことがあったの?」
「グスッ、グスッ。おかーさんが死んじゃって、おとーさんも、仕事が忙しいからって……グスッ、誰も遊んでくれなくて」
「うーん……そっか。じゃあさ、あたしと遊ぼうよ!」
強引にシリウスの腕を引っ張る少女は、幼き日のバレンシアだ。
思い返せば出会ったときから強引な女性だったな。心の中でシリウスは微笑む。
だが夢の中の幼い彼は、突然のことに慌てふためいている。
「えっ? あ、ちょっと!?」
「いーから、こっちおいでよ! これからみんなで剣術の特訓をやるんだ! 一緒にやろうよ!」
「え、えええっ?!」
戸惑いながらも彼女についていくシリウス。
いまの彼なら分かる。本当は嬉しかったのだ。寂しさに押しつぶされそうだった自分を救い出してくれたことが。
これが、のちに剣聖と呼ばれることとなるシリウス=シャンボリーと、姉と慕うバレンシア=ラバンテとの出会い。
気がつくとシリウスはベッドの上で目を覚ましていた。知らぬ間に、頬を涙が伝い落ちていく。
いつも夢はここで途切れてしまうが、その先の未来がどうなるのか、今の彼はよく知っていた。
あの出会いが無ければ自分はどうなっていたのか。シリウスはときどきそんな妄想をしては寒気に襲われる。いまとなっては、彼女と出会わない人生など考えられなかった。
自分は、いつから彼女を見ていたのだろうか。
自分は、いつから彼女に惹かれていたのだろうか。
自分は、いつから彼女を女性として見るようになったのだろうか。
夢の残滓を引きずりながら、シリウスはそんなことをぼんやりと考えていた。
◇◇◇
翌朝。
わずかの仮眠から目覚めたシリウスは、日課の素振りを終えると、一目散に魔法屋に向かった。
果たしてそこではバレンシア、ティーナ、エリスの三人が、並んでベリーのソードダンスを踊っていた。
あまりにも奇妙な様子に、さすがのシリウスも一瞬たじろいでしまう。
実際、彼女らを避けるように遠巻きにしながら、通行人たちが遠目にチラチラ眺めていた。こんな往来で踊ったりして、この人たちは恥ずかしくないのだろうか。
「おはよう。朝っぱらからなにをしてるんだ?」
様々な疑問を飲み込んで問いかけたシリウスに、やる気がなさそうに身体を動かしていたティーナが心底嫌そうに答えた。
「シリウス、キミも何か言ってくれよ。健康のためだとか言って毎日こんなことやらされてたら、こっちはたまったもんじゃないよ」
「こらこらティーナ、手を抜かずにしっかりやりなさい! シリウス、あんたもやる?」
他ならぬバレンシアからのお誘いだ。当然シリウスに断るという選択肢はなく、すぐに四人並んで踊ることになった。
「はい、いっちにー!」ぶぉん。ひゅん!
「腰を回してー、はいっ!」ぶぉん。ひゅん!
「ストップ、ストッープ! ちょっとシリウス! あんたのそれ、ダンスじゃないよ! もはや剣舞じゃないの! 周りの人をみじん切りにでもする気!?」
「あ、ゴメン。剣を持つとどうも本気になってしまって」
まるで魔物でも斬りつけるかのようなシリウスの鋭い剣技を、慌ててバレンシアが止めた。横で踊っていたティーナやエリスもさすがに引いてしまう。
「まったく、キミはなにしに来たんだ」
「くっ…」
ティーナの冷たい目線を感じながらも、シリウスは当初の目的を忘れてソードダンスに熱中していた自分を反省するのだった。
結局その日の午前中を、シリウスは魔法屋で過ごした。
普段男手に不足していたこともあってか、シリウスは非常に重宝され、結果として様々な力仕事をティーナから押し付けられた。
「もしかして俺は、ていのいい便利屋なのか?」
「そうだけど。今更気づいたのかい?」
「ぐっ…」
剣聖も、こうなっては形無しである。二人のやりとりを笑いながら見ていたバレンシアが、助け舟とばかりに声をかけてきた。
「ハイハイそこ、ケンカしないの。シリウスもごめんね、せっかくのお休みなのにお手伝いさせてさ。ふたりとも、お昼ご飯の準備が出来たから休憩しない?」
「はーい」
「あ、はい」
昼食後のまったりとしたお茶タイム。
エリスの淹れる紅茶は、相変わらず素晴らしい味だった。
なにより、自分の横に座るのはバレンシア。これを至福と呼ばず何と言おうか。
シリウスは、つかの間の幸せを味わっていた。
「さて、午後なんだけどさ。ボクとエリスはちょっと薬草を取りに行ってくる。バイト代出すから悪いんだけど二人は店番しててくれないかな?」
ぶっ!! シリウスは思わず口にしていた紅茶を吹き出してしまった。
慌ててティーナのほうを見ると、彼女は一瞬意味ありげに視線を投げてくる。
「えーっ、 だったら店を閉めてみんなで行こうよ!」
「バレンシア、あいにくこのまえ時計の修理を依頼してきたラズモンドさんが、商品を受け取りに来る予定があるんだよ。だから悪いんだけど留守番しといてもらえないかな」
ティーナのもっともらしい言い分に、バレンシアも諦めたようだ。ひとつため息をつくと、「わかったよ、行ってらっしゃい」と二人を送り出したのだった。
こうしてティーナの図らいにより、ふたりっきりになることに成功したシリウス。いまはカウンターの横に彫像のように立っていた。カウンターの奥では、バレンシアがなにか編み物をしている。
二人で過ごす時間の、なんとすばらしいことか。シリウスは突如訪れた至福のときを満喫していた。
そして、この夢のような時間を作ってくれたのは、他ならぬティーナだった。
あの小悪魔のような美少女に、感謝する日が来るとは夢にも思わなかったな。シリウスは感慨にふけりながら、今の状況をかみしめていた。
だが同時に、ティーナの冷たい視線が脳裏に浮かんでくる。
そうだ、こんなことで幸せを感じている場合ではない。せっかくあいつが作ってくれた機会だ!これを逃したら、あいつになにを言われるかわからない。
シリウスはすぐに気持ちを切り替えると、無心に編み物をしているバレンシアに話しかけることにした。
「あの、バレ姉」
「ん? なぁに?」
作業をしながら返事するバレンシアのうなじを、斜め後ろから眺める。ごくり。あまりの色っぽさに思わず生唾を飲み込んでしまう。
……はっ、いかんいかん!!
シリウスはすぐに気を取り直すと、続きの言葉を口にしようとする。
だが、なぜか言葉が出てこない。なにを言っていいのかわからないのだ。
昨夜、心に決めたはずなのに。誰にも渡したくない。だから告白しようと決心したはずなのに、どうしても口が開かなかった。
どんな剣士が相手でも、決して怯えることがなかったシリウスがいま、目の前の女性に話しかけるということだけで怯えていたのだ。
だめだ、なにかを言わなければ。そう考えれば考えるほど、言葉が出てこなくなる。
そんなシリウスを見かねてか、バレンシアのほうが編み物の手を止めて話しかけてきた。
「ねぇシリウス?」
「へっ!?……あ、うん、なに?」
「ちょっと左手出して」
「え、あ、はい」
言われるがままにシリウスが左手を出すと、バレンシアが編んでいたものを彼の左手にあてがった。
それは、少し大きめの手編みのリストバンドだった。
「……これは?」
「あたしからのプレゼント。怪我しないようにっていうお守り代わりかな?」
バレンシアがペロッと舌を出して笑った。
その表情と、そして左手にはめられたリストバンドに、シリウスは熱い思いがこみ上げてくるのを感じる。
「バレ姉、ありがとう……」
「な、なによ!真剣な顔でお礼なんて言っちゃってさ。昨日もらった花束のお礼替わりなんだから、そんなにマジなお礼言わなくてもいいよ。大した手間もかかってないんだしさ」
少し照れた感じでそっぽを向くバレンシア。たまならく愛おしいと思う気持ちがシリウスの中に湧き上がってくる。
……言うなら、いまだ!シリウスは、不意に覚悟を決めた。そして、口を開こうとした、そのとき!
からんからーん。
魔法屋の扉が開く音。
「こんちわー。あれ、バレンシアのアネゴじゃないっすか。今日はエリスさんはいないんですか?」
間抜けな声が、魔法屋の店内に響き渡った。間の悪い来客は、かつては街のごろつきだった男であるダブリン=トーセンだった。
絶好のチャンスを邪魔され、思わずガックリとうなだれてしまうシリウスであった。