効率的建設計画
20XX年、凶悪犯罪者ヤマシタは逮捕された。
泣く子も黙る恐怖の大量殺人犯ヤマシタ。近寄るものはめった刺し。死刑判決に異議を申し立てる者なんていやしなかった。世界一の弁護士もヤマシタにはお手上げ。ヤマシタの家族はといえば、とうの昔にヤマシタに殺されて、この世にはいなかった。
そんなこんなでヤマシタの牢屋に看守が現れて「釈放だ」と言ったとき、一番驚いたのは、ヤマシタ自身だったに違いない。
「信じられるかよ、そんな話」
「本当のことだ。上からの指示があって、とにかくヤマシタ、お前は晴れて自由の身だ」
「上って……だれだよ?」
「さあな」
「はあ?」
直情型のくせに疑り深いヤマシタは、手放しで喜べない。
「おまえ、何か隠しているな。本当は俺を死刑台へ連れて行くつもりなんだ。違うか?」
「違います」
第三者が答えた。あんまり突然だったから、ヤマシタと看守は飛び上がった。
「ななな何だ、てめえ。いつからここにいた」
「つい今しがたでございます。お迎えに上がりました、ヤマシタ様」
ヤマシタはしげしげと男を眺めた。囚人服とジャージに囲まれて十年の歳月を過ごしていたヤマシタには、黒のスーツがひどく懐かしく見えた。三十後半というところだろう。男の顔には、これといった特徴がなかった。髪は一本の乱れもなく整えられ、爪もきれいに切りそろえられている。ポケットのハンカチも皺一つないのだろう、とワルルは思った。いかにもエリートという感じだ。
男を下から睨みつつ、ヤマシタは口を開いた。
「てめえが上の人間とやらか」
「そういうことになります」
てめえ呼ばわりに気を悪くする風もなく、男は折り目正しい笑みを浮かべた。
「B2とお呼びください。立ち話もなんですから、そろそろ参りましょうか」
B2は、温和な笑みに似合わぬ強い力でヤマシタの手をとり歩き出した。
看守はだれもいなくなった牢屋で「なんでヤマシタが……」と首を捻った。
久しぶりに吸うシャバの空気は、アルプス高原のそれに似ていた。
「ああ、うまい」
ヤマシタが呟くと、B2は小さく笑った。
「なにがおかしいんだ」
「これは失礼。ヤマシタ様は、血生臭い空気がお好きなのかと思っていましたから」
ヤマシタはにやりと笑った。
「嫌いじゃないぜ、血の臭いは。ナイフさえありゃあてめえだって俺の餌食なのによ」
「ヤマシタ様。私は今すぐにでもあなたを刑務所へ送り返すことができるのですよ。そこのところ、お忘れなく」
B2に笑顔で脅され、ヤマシタは舌打ちした。
「それにしてもよ、なんで人っ子一人いねえんだ」
今二人が歩いているのは、刑務所に近い遊歩道である。さわやかな秋風が吹き抜け、イチョウの並木が美しい。ちらりと盗み見たB2のロレックスは、午前八時を指し示していた。天気も悪くないし、イヌの散歩やジョギングをする奴らがいたってよさそうなものだ、とヤマシタは思った。
「ヤマシタ様のご出所ということで、この地区一帯に避難勧告が出されたのですよ。いわば貸切です。気持ちの良いものでしょう? 誰もいない街というのは。あ、私としたことが、すっかり忘れていました。お楽しみのところ申し訳ないのですが、これを着けていただいてよろしいでしょうか?」
手錠かと思い身構えたヤマシタにB2が差し出したのは、何の変哲もないアイマスクだった。
「ここから先は、私が手を引いてまいりますのでご安心ください」
他人に主導権を渡すようで抵抗があったが、B2の有無を言わさぬ口調に、ヤマシタはおとなしく指示に従った。視界が、真っ黒に染まる。
「では、私の手をお取りください」
促されるままB2に並んで歩き続けた。時折、隣を歩くB2の笑むような気配が伝わってきたが、あえて口には出さなかった。
「さて、つきましたよヤマシタ様」
小一時間ほど歩いたところで、B2が足を止めた。
「なんだ、ずいぶん近かったな」
「正確にはこれから出発なんですけどね」
そう言って今度ははっきりB2が笑った。
「もう少しですよ……ここから登りです。あ、そこは段になっているので気をつけてください」
ウィーンとかすかな機械音がした。さらに進むよう促され、ヤマシタはもう一つ段を踏み越えた。と、それまでの硬質な大地とは違う、柔らかい物に足が触れた。室内に入ったことだけは分かる。
足踏みを繰り返すヤマシタの背後で、バタンとドアが閉まった。
「もうアイマスクを取って構いませんよ」
さっそくアイマスクを取ったヤマシタの目に飛び込んできたものは、一流ホテルのスイートルームのような一室だった。敷き詰められた赤い絨毯に、まばゆいシャンデリア。置いてある調度品は、素人目にもそれと知れるほど高価なものだった。ただし窓はついていない。
「おいおい、こんなところに連れてきていったいどうしようってんだ」
「空の旅を」
B2はしれっと答えた。
「まさか……これが飛行機だとでも言うのか?」
「そうですよ。ヤマシタ様が服役している間にも、世の中は日々進歩していたんです」
少々癇に障る言い方だったが、それすらも気にならないほどヤマシタは感心していた。
「ずいぶんとしゃれた造りになってるんだな」
物珍しげに機内を見回すヤマシタに、B2はにこりと笑いかけた。
「申し遅れましたが、私が機長を務めさせていただきます。着いたらまたこちらへ参りますので、それまではどうぞ快適な空の旅をお楽しみください」
そう言って、B2は部屋を後にした。
残されたヤマシタは、豪華すぎる部屋を所在なさげにうろうろ歩き回った。こんな待遇には慣れていない。長年コンクリートの鉄壁に囲まれて暮らしたヤマシタには、居心地が悪いだけだった。
――しかし悪い気はしねえな。
そうも思った。誰かに様付けで呼ばれるのも、豪華な部屋で過ごせるのも、ヤマシタにとっては生まれて初めてのことだった。
「まあ、仕方ないか」
誰にともなくそう呟いて、ヤマシタはベッドに腰掛けた。それから急に眠くなって、空調の効いた室内で、うとうととまどろみ始めた。
「着きましたよ。起きてくださいヤマシタ様」
「お、おお」
B2に肩を叩かれて目を開けたヤマシタは、犬のように頭を振った。
「申し訳ないのですが、またアイマスクをつけてもらってよろしいですか」
またしても有無を言わさぬ口調だ。許可を与える間でもなく、アイマスクに視界を塞がれる。
「それからこれも」
今度は耳にイヤホンのようなものをセットされた。機内のノイズが遮断されて、もはや光も音もない。
「あー、あー、聞こえますか?」
イヤホンからB2の声がする。
「聞こえる……聞こえるけど、なあ、俺に一体なにを――」
B2に取り縋るヤマシタの手は、あっけなく払われた。
「安心してください。あなたはただ、歩いてくださればいいんです」
「歩く?」
「はい。私は一緒にいけないのですが、イヤホン越しに指示を出しますので、安心してください」
それ以上ヤマシタに発言する隙を与えず、B2はドアを開けヤマシタを放り出した。背中から地面に叩きつけられたヤマシタは、呼吸もままならず背を丸めた。
「起きてください、ヤマシタさん」
耳元からB2の声がする。
「呻いている場合じゃないんですよ。ほら、さっさとアイマスクをとってください」
先ほどまでとは打って変わった物言いに、ヤマシタは動揺した。それでも言われるがままアイマスクを外すと、信じられないような光景が広がっていた。
「分かりましたか、ヤマシタさん? あなたの置かれた状況が」
「分かるわけないだろう! なんだこれは? 俺をどこに連れてきた!」
見渡す限りの白い地平線。そしてその向こうに続く、果てのない暗闇。ヤマシタは、この光景に怖いほど見覚えがあった。
「まさか……月なんて言うなよ……?」
「正解です。月も知らない馬鹿だったら、どうしようかと思いました」
耳元で、B2の笑う声がする。自分が今まで飛行機だと信じて疑わなかったロケットの操縦席から、B2がにこやかに手を振っている。
「じゃあこいつらはなんなんだ」
――俺の周りに円を描くようにして銃を構えるこいつらは。
緑のヘルメットに覆われて、一人ひとりの顔は見えなかった。ざっと二百人はいるだろう。半径百メートルほどの輪に膝をついて銃を構え、銃口という銃口がすべてヤマシタに向けられていた。
「私の指示に従ってさえいただければ、彼らは絶対に発砲しません。ではヤマシタさん、あなたを囲む円の中を、満遍なく歩き回ってください。私の指示はそれだけです。ただしむらがあってはいけません。絶対に、満遍なくです」
「おい、ちょっと待てよ! 明らかにおかしいだろ。何を企んでいるんだ。だいたい生身の人間が月を平気で歩けるわけがないのに……」
「あのねえ、ヤマシタさん」イヤホンからぞっとするほどの猫なで声でB2が呼びかけてくる。「地球は少々厄介なことになったんですよ」
「厄介なことって?」
「太陽が近くなりすぎました。温度が上昇して南極の氷を溶かし、陸地が浸水されつつあります。で、人々を他の惑星に移住させる計画が始まったのですが、浸水速度が速くてなかなか追いつかないんですよ。酸素などは工面しているのですが、この辺はまだ未開発で危険なので、ぜひヤマシタさんに探査に協力して欲しいのです」
「嫌だ……嫌だ……どうして俺がしなくちゃならない! もっと他の奴がいるだろう!」
「あはははははは!」
耳元に乾いた笑い声が響いた。
「人を何十人も殺しておいて何を言ってるんですかヤマシタさん。どうせ死刑になる命だったんでしょう? だったら人類の発展のために使ったほうが有意義じゃありませんか」
「嫌だ! 嫌だ! ここで何が起こるんだ! 俺を地球に返せ! さもないとおまえをぶっ殺してやる!」
ロケットの足を叩きながら、声を限りにヤマシタは叫んだ。拳に血が滲むまで殴っても、機体にはかすり傷一つつかない。
「ああ、もう。うるさいなあヤマシタさん」
操縦席を見上げると、さもわずらわしそうにイヤホンを耳から離してつまんでいるB2と目が合った。
「私はあまり気の長い方じゃないんです。私の気が変わらないうちに、ほら、歩いてくださいよ」
鉄の要塞と狙撃手。そして丸腰の自分。ヤマシタはここへきてようやく自分の意思など蟻ほどの意味も持たないことを実感させられた。
どんなに喚いても怒鳴っても、B2からの返事はない。狙撃手の銃口がきらりと光るのを見て、ヤマシタは一歩を踏み出した。
「そう、それでいいんですよ。まっすぐ歩いてくださいね。……そう、端まで来たら、回れ右してもう一度、まっすぐに歩いていってください」
ヤマシタは、生きた心地がしなかった。何が起こるのか分からないまま歩いていかなければならないのだ。自分に向けられる銃口に向かって。
「はい、もう半分くらい終わりましたよ。疲れたでしょうが、頑張ってくださいね」
言葉とは裏腹に、B2の言葉には労うような響きはなかった。むしろ楽しんでいるというべき、明るい声。
ヤマシタはまたぞっとして、ひたすら足を動かすことに集中した。しまいには時間の感覚さえなくなって、ヤマシタは自分が足を動かす機械になったかのような錯覚に陥った。
「残り一往復。もうちょっとですよ、ヤマシタさん」
「終わったら放してくれるのか?」
くすっ。
もう遠く離れた操縦席のB2を見ることはかなわなかったが、笑ったのが分かった。
「いいですよ。残りは他の人にしてもらいますから」
「本当かっ?」
それまでの恐怖に支配された気持ちが嘘のように、ヤマシタの足取りは軽くなった。
――わけの分からない所に連れてこられて最初こそ気が動転したが、それほど悪いことにはならないかもしれない――なあに、人間気持ちが動転すると最悪の事態を考えてしまうものなのさ――。
足を踏み出した瞬間、ヤマシタの体はふわりと宙に浮いた。
「お? おいおい――なんだよこれは!」
ヤマシタの体はとどまるところを知らず、あっという間に地上十メートルまで浮き上がった。
「そこにあったんですね。無引力スポット」
「無引――なんだって?」
「無引力スポットですよ。月は元々引力が弱いので地球から強力な磁石版を輸入して地中に埋めているんです。しかしコンピュータにバグが生じてしまい、埋まっていない場所があることが分かったんですよ。でも、こんなにすぐ発見できるとは思いませんでした。本当に運がいいですよ」
B2が話している間にも、ヤマシタから見える狙撃手たちは、米粒のような小ささになった。ロケットの操縦席にまで上がったとき、ヤマシタの背中を冷たい汗が伝った。
「俺はどうなるんだ……?」
「引力圏内に入れば地上に帰れますが、この高さから落ちたら助からないでしょうね」操縦席から、B2がにこやかに手を振る。「そのあと大気圏に突入して、燃えます。でもその時には窒息死しているので、苦しくありませんよ」
先ほどから感じていた呼吸の苦しさが、明確な恐怖となってヤマシタに襲い掛かった。B2に怒鳴りつけようとするも、十分な酸素はもう得られない。ヤマシタは白目を剥きながら、酸素を求めて背をのけぞらせた。
「でもねえ、元はといえばあなたが悪いんですよ?無駄に消えるはずだった命をこうして未来の世界のために有効活用したわけですから、感謝してくださいね」
B2が言い終える前に、ヤマシタはこときれていた。
「おはようございます、先輩」
背後から呼びかけられ、B2は椅子ごと振り返った。スーツ姿の青年が、湯気の立つカップを二つ手に持っていた。
「今回の仕事、ずいぶん早く片付いたそうじゃないですか」
「ヤマシタは強運の持ち主だね。普通は三日ぐらいかかるのに、半日もなかったよ」
ありがたいね、と言ってB2は青年の差し出すカップを受け取った。
「R地区も無引力スポットが多いそうじゃないか」
「そうなんすよ、9番にスポットが見つかったとかで、僕も今日迎えに行くんですよね。アメリカの強盗殺人犯なんですよ。怖いなあ」
青年は深い溜息をついた。
「囚人番号523番、出所だ」
警棒に急き立てられ、アンソニーはのそりと起き上がった。
「なにかの冗談だろ?」
いぶかしむ男の牢が開き、上から下まで黒のスーツで固めた青年が現れた。
「お迎えに上がりました、アンソニー様」
「誰だあんた」
「申し遅れました。わたくし、C9と申します」
C9は、折り目正しい笑みを浮かべた。
fin
どうもはじめまして。初投稿です。
この作品で倫理観がいかに曖昧なものであるか伝えられていたら、成功かと思います。