【超短編小説】落日の団地妻
35-B棟の前にある駐車場に車を停めた。
階段を四階まで上がる。長い廊下に整然と並んだ部屋は、さながら細胞の様だ。
細胞。
ひとつひとつの部屋で人生が分裂していく。人生?精神の間違いでは?
そこに闖入するおれは癌細胞か?
415号室の前で立ち止まり、呼び鈴を押そうとしたその瞬間に、ところどころペンキの剥がれた鉄扉が押し開けられた。
顔を出した女は美しいと言うより欠点の少ない顔だった。
欠点の少ない顔。
例えば目と眉が離れすぎていないとか、目と目が近すぎないとか、団子鼻じゃないとか。
他にも受け口じゃない、目が濁っていない、髪が細すぎず傷んでもいない、肌にシミがない……そう言うパッと見た感じの欠点はひとつも無かった。
それは美しさなのだろうか。
まるで焦点の合わないカメラを覗いているような、それでいて視野狭窄に陥っているような、何とも言えない感覚で頭がくらりと揺れた気がした。
少し古びたブランド物のサンダルが恨めしそうに倒れる玄関に革靴が増える。
欠点の無い顔をした女に続いて部屋に上がる。
西陽が差し込む部屋に影が伸びる。
スリッパを履かずにリビングに出る。
まるでスタジオの様に生活感の無い部屋だった。
テーブルに置かれたマグカップが嘘臭い。
欠点の無い顔をした女が笑って左手の薬指から輪を引き抜こうとする。
「それともこのままがいい?」
「そうだな」
インスタントコーヒーが喉を流れ落ちていく。
茶色い滴が白いマグカップの内側を滑り落ちる。机についた水の跡がこの部屋についた唯一の生活痕に見える。
「どうやってそこに着いたのかもどうやってそこを出たのかも覚えていない」
欠点の少ない女の顔も思い出せない。
もっと言えば、おれはいま起きているのか寝ているのかも分からない。自分の名前も正しいのか分からない。
「わたしの名前は?」
女が訊く。
女の目は奥行きの無い黒だ。眉頭だけ残された肌は艶やかだ。ブリーチを繰り返した毛先は少し傷んでいる。
女は黒い目でおれを見ている。
「そう、ミロのヴィーナスは腕があったら誰も覚えていなかったってことね」
女はおれに向けていた眼を鏡にやり、小鼻や頬骨を指で撫でた。
「削りたいのか?」
別にそれは欠点じゃない。
「まぁね。でもキリが無いの知ってるから」
でも女にとっては違う。
ここはどこだ?
並んだ細胞のひとつか?おれたちは分裂するのか?すでに分裂しているのか?
「週末は玄関を片付けるか」
「え?」
「いや、部屋を片付けよう」
「どうしたの、急に」
「どこから来たのかを思い出したんだ」
女は爆発した。
四散した肉体に何か声をかけようとして、それは優しさじゃない事に気づいた。
おれはベッドに潜り込み、眠ることにした。




