第8話 【潜入任務】夜の三崎は「大人の社交場(修羅場)」だったが、俺だけが真実(コーラ)の味を知っている件
昼間の三崎は、観光客とカモメで賑わう平和な港町だ。 だが、夜の帳が下りると、そこは「大人」という名の未確認生物たちが跋扈する、魔都へと変貌する。
これは、とある酒場に潜入した5歳児の、ハードな一夜の記録である。
1.魔窟への招待状
土曜の夜、午後7時。 俺は、三崎の路地裏にある居酒屋『大漁丸』の暖簾をくぐろうとしていた。 赤提灯が風に揺れ、中からは怒号のような笑い声と、ガラスがぶつかる音が漏れ聞こえてくる。
「ほらリタくん、入るよー! 今日は無礼講だからね!」
先導するのは、我が家の絶対権力者こと「親父の嫁」だ。
今日は町内会の寄り合い――という名目の、ただの飲み会である。本来なら児童福祉法の精神に則り、俺は自宅で待機しているべき時間帯だ。
しかし、「たまには社会勉強も必要よ」という母上の独断と、「俺が面倒見る」という「溶接ゴリラ」こと父・晃の無言の了承により、特別に同伴が許可されたのだ。
「……了解した。潜入を開始する」
俺は襟を正し、ダンディズムを胸に足を踏み入れた。
店内は、煙草の煙と焼き魚の煙、そしてアルコールの匂いが充満する、視界不良の魔窟だった。
「おう! 花代ちゃん! 遅ぇぞ!」 「晃! こっち空いてるぞ!」
座敷には、すでに出来上がった大人たちがひしめき合っていた。顔を赤くし、呂律の回らない言葉で愛を語り、あるいは政治を憂い、そして無意味に笑う。
普段は真面目な薬屋の店主も、強面の船長も、この液体を摂取すると、なぜ知能指数が著しく低下するのか。俺の長年の研究テーマである。
2.男のオーダー
俺たちは末席の座卓に陣取った。 即座に突き出し(お通し)の枝豆が運ばれてくる。
「とりあえず生中3つ! あとリタくんは?」
親父の嫁が、高らかに指を3本立ててオーダーした。
大人は二人だ。数がおかしい。だが、これは誤発注ではない。溶接ゴリラにとって最初の一杯は、熱した鉄板に垂らした水滴のごとく一瞬で蒸発する。味わう間もなく消え失せるため、最初から「晃用に二杯」確保しておくのが、この家の危機管理マニュアル(セオリー)なのだ。
さて、俺は……。
ここで「オレンジジュース」などと口走れば、この場の空気を壊し、俺がただの幼児であることを露呈してしまう。周りは歴戦の猛者たちだ。舐められてはいけない。俺はメニュー表を一瞥し、渋い声を作ってオーダーを通した。
「……黒い炭酸水を。氷少なめで」
「はいよー! コーラ一丁!」
店内に響くオーダー。
ふっ、決まったな。バーボンを頼む探偵のような手際だったはずだ。
数分後、ジョッキに入った黒い液体が届いた。俺はそれを両手で持ち、親父殿のジョッキに軽く当てた。
「……乾杯」
「ん」
親父殿は短く答え、黄金色の液体を一気に喉に流し込んだ。その飲みっぷりは、燃料を補給する重機のように力強い。
俺も負けじとコーラを煽る。炭酸が喉を焼く。……くぅ、効くぜ。この刺激こそが、夜の味だ。
3.深夜の哲学講義
宴もたけなわ。母上はすでに他のテーブルへ遠征し、ガハハと笑いながら誰かの背中をバンバン叩いている。あのコミュニケーション能力の高さは、もはや兵器だ。
溶接ゴリラは、定位置で静かに飲み続けている。
つまみはいらない。ただひたすらに飲み、時折、誰かの話に頷くだけ。それが彼の流儀らしい。
手持ち無沙汰になった俺は、トイレに立った。
その帰り道、カウンターの隅で一人、手酌で酒を飲んでいる老人と目が合った。
日焼けした肌に、深いしわ。使い込まれた野球帽。
……見たことがある。港で網を繕っていた、引退した漁師の源さんだ。
「……よう、ボウズ。一人酒か?」
源さんが、しわがれた声で声をかけてきた。
「……連れはいますが、今は放浪の身です」
俺が気取って答えると、源さんはクックッと喉の奥で笑った。
「いっちょまえな口を利くじゃねぇか。……座りな。一杯奢ってやる」
俺は隣の丸椅子によじ登った。源さんは店員を呼び、「冷やしトマト」を注文した。渋い。フライドポテトではないところが、玄人好みだ。
「ボウズ、海は好きか?」
唐突な質問だった。
「……嫌いではありません。ただ、非論理的で、気まぐれなところが苦手です」
「違げぇな」
源さんは、コップ酒をちびりと舐めた。
「海は気まぐれじゃねぇ。正直なだけだ。風が吹けば荒れる。日が差せば凪ぐ。人間の方がよっぽど複雑で、嘘つきだ」
俺はハッとした。
嘘つき。大人たちは、笑いながら嘘をつく。「美味しい」と言いながら不味いものを食べ、「楽しい」と言いながら疲れた顔をする。だが、この老人の目は濁っていなかった。酒に酔っているはずなのに、その瞳は夜の海のように深く、静かだった。
「……親父を見な」
源さんが顎で座敷の方をしゃくった。
そこには、相変わらず無表情で、しかしどこか楽しげに周囲の話を聞いている溶接ゴリラの姿があった。
「あの男は、不器用だが嘘はつかねぇ。鉄と同じだ。熱すれば赤くなるし、叩けば硬くなる。……いい男だ」
俺はトマトを齧った。青臭くて、少し塩っぱい。
源さんの言葉が、トマトの味と共に染み込んでくる。
酔っ払いたちは、ただ騒いでいるだけじゃない。厳しい海や、理不尽な社会で戦い、傷ついた心を、こうして酒と仲間で癒やしているのかもしれない。
そう考えると、この騒音も、少しだけ心地よいBGMに聞こえてきた。
「……勉強になります」
「へっ、生意気なガキだ」
源さんは笑って、俺の頭を無造作に撫でた。その手はゴツゴツして痛かったが、不思議と嫌ではなかった。
4.帰還
宴が終わったのは、午後10時を回った頃だった。
俺の記憶は、トマトを食べ終え、席に戻って溶接ゴリラの隣に座ったあたりから曖昧だ。どうやら、孤高の男も睡魔という生理現象には勝てなかったらしい。
揺れている。 温かい。そして、汗と鉄の匂い。
目を開けると、俺は溶接ゴリラの広い背中に背負われていた。夜風が心地よい。隣には、上機嫌で千鳥足の親父の嫁が歩いている。
「あー、楽しかった! やっぱ三崎の飲み会は最高ね!」
「……飲みすぎだ」
「いいじゃない! 潰れたって晃くんが背負ってくれるんだから!」
母上が親父殿の腕に絡みつく。親父殿は「やれやれ」といった感じで、それでも振りほどこうとはしない。
俺は親父殿の首に顔を埋めた。大人の世界は、複雑で、非論理的で、そして少しだけ優しい。コーラの炭酸が抜けたような、甘くて気だるい夜。
「……親父殿」
「ん?」
「……トマトは、意外と美味かった」
「……そうか」
会話はそれだけ。
だが、それで十分だった。俺は再び目を閉じた。夢の中でなら、俺もバーボンを飲めるかもしれない。 三崎の夜は、優しく更けていく。
(第8話 完)
【作者より】
三崎の夜の空気感、いかがでしたでしょうか。 酔っ払いたちの喧騒も、子供の目線で見るとまた違った景色に見えるものです。
次回第9話(前編)、三崎の港に「黒塗りの高級車」が襲来!? 家出してきた生意気な御曹司(5歳)に、母の庶民的おもてなしが炸裂する!!
そして、第10話(後編)はいよいよ最終回となります!お楽しみに!
「5歳児なのにハードボイルド」
「最強の母と無口な父」
「三崎の港町でのスローライフ(?)」
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本編「俺の親父の嫁」では、
・砂場での宿敵との戦い
・同級生との恋の予感ならぬ悪寒
・理太郎が父の職場(造船所)に潜入して見た「男の背中」
・台風の夜、家を守るために戦う「溶接ゴリラ」の勇姿、
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