7話 冒険者侵入と、魔王軍の対応 その4
魔王軍を混乱に陥れていた冒険者は、ただの「重い在庫運び」へと成り下がった。しかし第三階層に足を踏み入れた途端、彼は運んでいた重装鎧を両腕いっぱいに抱え込んだまま、ピタリと動きを止めた。その姿は、まるで時間ごと凍り付いたかのようだ。しかし、その静止は、周囲の魔物たちを戦慄させた。魔物たちは泡を吹き、その場にひれ伏し、幹部たちは監視室のモニター越しに、自分たちの常識が音を立てて崩れ去るのを目の当たりにしていた。
「あれは鬼神か」
「英雄の気配を感じる」
そんな囁きが、監視室の重い空気に溶けていく。魔王軍の未来を左右するかもしれない、この不測の事態は、まさに嵐の前の静けさだった。
監視室に集まった幹部たちの視線は、大型モニターに釘付けになっていた。そこには、魔王軍が誇る第三階層の重い在庫――重装鎧を両腕いっぱいに重ねて抱え込んだまま、微動だにしない冒険者の姿が映し出されている。彼はただ静かに立っているだけなのに、周囲の魔物たちが恐怖で泡を吹いているのがわかる。部屋に満ちるのは、張り詰めた緊張と、未知の存在に対する畏怖の念だ。誰もが次の展開を予想できず、ただただ固唾をのんで見守っていた。
アックマは、データパッドを片手に、眉間に深い皺を刻んでいた。その瞳が、映し出された数値の異常さに揺れる。
「データ上、冒険者の生命活動は睡眠モードに移行しているようです。しかし、この威圧感は……」
彼は言葉を切り、画面に表示された異常な数値に目を凝らす。
「……計算外、いえ、私の理論には存在しない……。この事象は、私の知性が解析できる範疇を超えている……」
デーモンは、腕を組みながらモニターを睨みつけ、重々しく呟く。その言葉には、かつて幾多の戦場を駆け抜けてきた戦士の重みが宿っていた。
「……無意識の力……。眠りながらにして、これほどの闘気を放つとは……」
彼は深く息を吐き、自らの言葉を探すように口を真一文字に結ぶ。
「……その破壊衝動は、もはや本能の域を超え、概念となりつつあるのか……。この存在に、我々の戦略は……果たして通用するのだろうか……」
オークが、モニターに映る冒険者の姿を食い入るように見つめ、その目に尊敬の念が宿る。彼の拳は、自然と力強く握りしめられていた。
「バケモンか……! こんなのは初めてだぜ……」
彼は、初めて目の当たりにする圧倒的な存在に、興奮と畏怖の入り混じった声を上げた。
「……ただ立ってるだけで、周りを圧倒するなんてよ……。こいつは、鬼神か、いや、英雄なんじゃねえのか!? もしそうなら、正々堂々、拳で語り合いてえもんだぜ!」
その言葉に、ドラゴマックスが静かに、だが重々しく言葉を挟んだ。彼の視線は遠い過去を見つめているようだった。
「……たしかに、英雄の気配だ……。ワシがかつて戦った、伝説の勇者たちと同じ、清々しいまでの暴力の気配を感じる……」
彼は目を閉じ、遠い記憶を辿るようにゆっくりと続ける。
「……このような存在は、時代に一人現れるかどうかの、稀有な才覚を持つ者……」
ヌメヌメが、床に溶け込みながら、ぬるぬるとした声で発言する。彼の言葉は、場の重苦しい空気を一瞬だけ緩ませた。
「ぬるぬるすりゃ、誰もが英雄になれるっすよぉ〜。寝てるだけで最強って、最高っす〜。ヌメヌメパワー、無限大っす〜」
オークが、ヌメヌメに呆れたようにツッコミを入れる。彼の怒声は、湿った空気を切り裂くように響いた。
「てめぇは英雄じゃねえ、ただのナメクジだ! ぬるぬるしてろ!」
彼は、床に座り込んだヌメヌメを指差し、苛立ちを爆発させた。
「……この緊迫した状況で、その気の抜けたボケはなんだ! いい加減にしろ!」
その瞬間、モグゾーがモニターを凝視し、突然、全てを悟ったように声を上げた。彼の目は、長年の現場経験で培われた観察眼で、見慣れた顔を見抜いたのだ。
「いや、違う……! この冒険者、よく見りゃ……」
モグゾーは言葉を詰まらせ、信じられないものを見るかのように目をこすった。
「……ダンジョンの資材を運搬する下請けのおっさんじゃねぇか! いつも、ぼろいツナギを着てたやつだよ! こないだも、地下の通路掘っててよぉ、キュウリくれとか、訳わかんねえこと言ってたんだぞ!」
リッチたんは、骨の指先でティーカップを弄びながら、優雅に鼻で笑う。その態度は、この場に漂う混乱とは無縁のようだった。
「フン、愚かだな。冒険者と下請けの違いも分からないとは。この美しきダンジョンを建設したのは、我々魔王軍の誇りだ。その協力者であるはずの人間が、まさか蛮行を……」
彼女は、ティーカップをソーサーに置き、冷ややかに言い放つ。
「……実に、人間の愚かさが顕著に表れている……」
ゴブ吉が、目を丸くして身を乗り出し、モグゾーに問いかける。彼の言葉は、まるで子供の好奇心そのものだった。
「え? おっさんっすか? 僕もこの人、見たことあるっす! いっつも『金くれ』って言って、ダンジョンの壁を『おっさんパ~ンチ!』って言いながら、掘りまくってたっす!」
ゴブ吉は興奮のあまり、体を揺らしながら続けた。
「『これで給料上がりますよね?』って、満面の笑みで聞いてきたっす!」
モグゾーが、興奮を隠せない様子で、モニターを指さしながら声を荒げる。彼の言葉が、この騒動の全ての謎を解き明かした。
「そうだ! いつも金を無心してくる、あの貧乏なおっさんだよ! 冒険者の格好してたからわからなかったけど、こいつは資材搬入のパートだ!」
モグゾーは、現場の怒りを込めて叫んだ。
「ダンジョンの壁を掘ってたのも、仕事の癖なんだよ! 俺らから金を貰うために、必死に仕事をしてたんだ! あんたたちが、英雄だなんだと騒いでいた相手は、ただのパートのおっさんなんだよ!」
監視室に、再び静寂が訪れる。全員が言葉を失い、モニターに映る「元冒険者」改め「下請けのおっさん」を凝視していた。その沈黙を破るように、下請けのおっさんがスッと目を開け、重ねて抱えていた重装鎧をそのままに、突然とんでもない速度で体を回転させ、足をドリルの様にして地面を掘り始めた。そして、誰も知らない隠された通路を見つけ、そのまま中へ転げ落ちて行った。まるで、初めからその場所を知っていたかのように。
一同は呆然と立ち尽くし、その信じられない光景をただ見つめている。アックマが、そのあまりにも非現実的な事態に、平静を保とうとしながらも震える声で呟く。
「な……何が起きている……? 下請けが……下請けが……最強のトラブルメーカーだと……?」
彼は顔を歪ませ、自らの思考が崩壊していくのを自覚した。
「……私の……私の人生最大の不測の事態……。未来予測は……未来予測は……どこに……。私の理論は……、なぜこの事態を予見できなかったんだ……?」
フェリーナが、心配そうに穴を覗き込み、優しい声で話しかける。彼女の心には、ただただ「困っている人」への優しさだけが満ちていた。
「おっさんさん、大丈夫でしょうか。あんな深い穴に入ってしまって……」
彼女はそっと手を差し出し、穴の奥に向かって語りかける。
「……もしかして、お茶が飲みたかったんでしょうか。私も、一緒に温かい紅茶を……」
オークが、脱力したように床にへたり込む。彼の燃えるような闘気は、完全に萎縮し、ただの虚無となっていた。
「もう……知るかよ……。正々堂々じゃねぇ……もう、なんでもいいよ……。俺の拳は……、一体何を信じればいいんだ……」
ユーレが、壁の影から静かにその光景を見守り、短い言葉を紡ぐ。彼女の瞳は、この混乱の中にも、新たな可能性を見出していた。
「……新たな……道……。無秩序という名の……秩序……。これは、記録に残すべき……」
監視室は、完全に混乱に陥っていた。その時、モグゾーが、意を決したように口を開く。彼の顔には、自らが突き止めた真実への確信と、それによってもたらされた絶望が入り混じっていた。
「そういえば、あのおっさん、面接の時になんか言ってたんだよ……。人手が足りないから、強い奴を雇いたいって募集したら……」
彼は頭を抱え、過去の記憶を必死に手繰り寄せる。
「……そう、言ってました。『元勇者だけど、貧乏だから働かせてくれ、【災害】って呼ばれてたんでパワーには自信がある』って……。俺は、冗談かと思って笑ってたんだよ……! ああ……、なんてこった……!」
監視室は、完全に静まり返った。アックマは、手に持っていたデータパッドを落とし、その顔は絶望に染まっていた。彼の理論は、完全に崩壊した。
「元……勇者……? 最強の冒険者が、ただのトラブルメーカーから、ただの下請けに、そして……まさかの、元勇者……?」
彼の声は震え、もはや絶叫に近かった。
「……しかも勇者の中でも最強と呼ばれたあの【災害】……? 私の……私の人生最大の不測の事態……。勝率99.99%……未来予測的中率0%……私の、私の理論が……! こんな非論理的な存在が、この世にいるなんて……!」
監視室の片隅で、ゴブ吉が冒険者が去った穴を覗き込み、目を輝かせながら言った。彼の心には、ただただ「楽しさ」だけが満ちていた。
「すごいっす! 穴の中もピカピカっす! 僕、この穴に入って、新しい在庫、探しに行ってきますっす! なんか、ワクワクするっす!」
オークが、弱々しく力なくツッコミを入れる。彼の魂は、もはや抜け殻のようだった。
「もうどこにでも行って好きにしろよ……。俺は……俺はもう、知らねぇ……。俺の拳では……勝てそうにもねえ……」
監視室には、ただ茫然自失とした幹部たちと、無邪気にはしゃぐゴブ吉、そして、深々と開いた穴だけが残された。
この騒動は、魔界の常識が人間界の非常識と、いかにかけ離れているかを示していた。英雄や災害という概念は、所詮は見る者の視点によって変わる相対的なものなのかもしれない。元勇者のおっさんは、魔王軍の理論を完全に破壊し、新たな道を切り開いた。彼は、最強の破壊衝動を持つ元勇者でありながら、ただただ貧乏を脱するために働く下請けのおっさんだった。そして、そのあまりにも噛み合わない存在は、魔王軍の理論を完全に打ち砕き、監視室にいた幹部たちの心を深く抉る。
完璧な計画が塵と化す様を目の当たりにしたアックマは「私の……私の人生最大の不測の事態……」と、絶望の表情を浮かべていた。一方、ゴブ吉は、その混乱とは無関係に「僕、この穴に入って、新しい在庫、探しに行ってきますっす!」と、穴に飛び込んでいった。
この出来事が、今後の魔界にどんな影響をもたらすのか、それはまだ誰にもわからない。




