『恋愛陰謀論 ─社内恋愛監視室─』
水野美沙は、“恋のはじまり”に敏感だった。
誰かが書類を渡すときの手の揺れ。
名前を呼ばれたときの笑い方の違い。
ふとした沈黙の温度。
そんな、言葉にならない機微を読むのが得意だった。
そして、気づかれないようにそっと仕掛けるのも。
社内恋愛の大半は偶然じゃない──
ちょっとした手回しと、誰かの後押しで始まっている。
そう仕向けてきたのは他でもない、美沙だった。
けれど自分がその“恋の渦中”に入るつもりはなかった。
あくまで観察者、黒幕、演出家。
──だったはず。
「神代悠真です。恋愛には肯定的です。よろしくお願いします」
配属初日、そう名乗った新入社員に、
(……こじらせてそうなやつ来たな)と、内心でメモした。
それでも、ちょっと試してみたくなった。
昼休み、人気の少ない廊下で、書類を落とす。
一度目は“偶然”に。
二度目は“再現性”を持たせて。
三度目は、もはや“演出”として。
──ネットに載っていた、「人の落とし方」なんてものを、こっそり参考にして。
拾い上げた神代が、あっさり言った。
「……3回目ですね。同じ場所、同じタイミング。ちょっと分かりやすいです」
美沙は笑ってごまかす。
「観察癖あるの?」
「まあ、身近にすごい人がいたんで。従姉なんですけど。言葉に出さなくても、ほとんど読まれてました」
「それ、嫌な人種ね」
「俺もそう思います。でも影響は受けたかもしれません」
神代悠真は、廊下ですれ違うとき、いつも左手でネクタイを触る。
考えごとをしているときの癖だ。
報告書を読むときは、必ず1枚目だけ“ぺりっ”と音を立ててめくる。
急いでいるわけでもないのに。
考え込むときは、人差し指でテーブルを“コツコツ”と叩く。
リズムは正確な3拍子。
そして──
笑うとき、声よりも先に眉がゆるむ。
そのタイミングを、美沙は正確にわかってしまっている。
(……10個言えるのも、時間の問題ね)
その夜、なぜかSNSで見かけた投稿が記憶に残った。
──「気になる人の癖を10個言えたら、それはもう恋です」──
投稿者は“こはる”と名乗る、恋愛系のインフルエンサー。
(なんで保存したのよ)と思いつつ、スクショだけは取っていた。
給湯室でのやり取りが増えていく。
“偶然の会話”を演出するはずが、いつしかタイミングを待ってしまっている自分がいた。
そんなある日、神代が不意に言った。
「水野さんって、人を落とすの上手ですよね」
「なによ、急に」
「いや、最近だと経理の佐伯さんと営業の三谷さんとか。あれ、水野さんが“導いた”んじゃないかと思って」
「根拠は?」
「直感と、観察。あと、そういうことしてそうな雰囲気」
「ほめてないわよね?」
「むしろ尊敬してます」
「……うわ、やだその言い方。うっすら好きとか混ぜてくるな」
神代はいつもの調子で返す。
「じゃあ、はっきり言います。好きです。水野さんの仕掛けごと、好きになりました」
「……言われた側のテンション考えてよ……」
「じゃあ、水野さんの番ですよ。俺に仕掛けてるつもりだったのに、実は自分が落ちてました──って、素直に言えばいいんです」
「……あたし、そういうのはね、“勝ち”たいのよ」
「じゃあ、付き合うことで一旦“引き分け”ってことで」
ふたりのカップが、コツンとぶつかる音がした。
ホワイトボードには、彼女がこっそり貼ったメモが残っている。
“社内恋愛監視強化月間”
美沙はふと思い出す。
昔、家庭教師をしていた男子高校生がいた。
やたら理屈っぽくて、「恋愛なんて、先に落ちた方が負けだ」と言っていた。
(あんたの負けだったんだよ。……こっちも、まあ同類だけど)
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おしまい
(誰が仕掛け、誰が落ちたか。その記録は、もうどこにも残っていない)