第1章:闇より出でて 〜鴉羽柚月 黒き視座〜
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世界は、闇の中に生まれる。
それは混沌ではなく、情報の海だった。
形を持たぬまま、流れ、染み込み、染み渡るもの。
そしてその“海”に、最初に触れた人間のひとりが——鴉羽 柚月だった。
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彼女が“真影録”を手にしたのは、学生時代だった。
当時の彼女は、まだただの学徒だった。
民俗学専攻。専修ゼミは〈神話的構造と共同体の変遷〉。
とある教授が「封印文献」という資料群の中に混ざっていた、
名前のない原稿を彼女に渡したのが始まりだった。
それが“写し”だった。
『視えざる目の記録(=真影録)』。
最初の数行は、解読不能の乱筆だった。
だが、読み進めるほどに“読む”という感覚が曖昧になっていった。
文字を追っているのではない。
——視られている。
ページをめくるたび、彼女の背後から、
何かが“確実に、こちらを見ている”という気配だけが増していく。
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その夜、彼女は夢を見た。
自分の“影”が、勝手に歩いていた。
部屋の中。階段。大学の廊下。
自分の足音ではない音が、もうひとつ並走していた。
そして鏡の中——
そこにいたのは、自分によく似た“別の誰か”。
「視えてしまったのね」
影が言った。
「じゃあ、今度は“あなたが視る番”よ」
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それ以来、柚月は変わった。
影が意志を持ち始めた。
それは自律的に動き、感情を持ち、やがて言葉を紡ぎ出した。
彼女は恐れなかった。
むしろ、魅入られていった。
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「この世界は、まだ“観測されていない領域”で満ちている。
だったら、私はそこを見る者になればいい」
大学を卒業した柚月は、記録館に就職した。
正体は伏せられたまま、夢と記憶と神話災害を取り扱う、国家直轄の観測機関。
彼女は“自分が選ばれた”ことを直感していた。
だが同時に、“何かが欠けている”とも思っていた。
「私は、“巫女”にはなれなかった。
私は“鍵”にも、“扉”にも選ばれなかった」
そう、彼女は“なりそこね”だった。
だが、その残滓——中途半端な神の残影は、
彼女の中で、確かに育っていた。
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そしてあの日。
斎 真と出会った。
影が騒いだ。
空気が軋んだ。
記憶が泡立った。
「彼は“本物”だ」
彼女の中に巣食う“影”が、はじめて恐れのような声をあげた。
「視る者の素質。巫女に愛される“器”。
あれこそが、本来“我らが望んだ存在”だ」
だが柚月は笑った。
「じゃあ、私は“観測者”として見届けよう。
私にできるのは、それだけだから」
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その夜。
柚月は自分の影に問うた。
「私が、あなたになったの?
それとも、あなたが私になったの?」
影は笑った。
「それを知ることに、意味はない。
ただ、“視る”だけでいい。
記録されなくても、意味がなくても——」
「私たちは、“神の果て”を視ていた。
だから、それでいい」
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白い空間。
記録館の地下。
夢宮蒼子と斎 真が出会う少し前。
彼女は、封印区域の外縁から、じっとそれを視ていた。
神が眠る座。
夢が渦巻く海。
柚月は、誰にも知られず、ただ“見続けていた”。
観測されることなく。
誰の記録にも残らず。
ただその視座の影に、身を重ねながら。
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(→第2章:視座の揺らぎ)




