第11章:蒼き目の中の記憶
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風が吹いていた。
音のない、重さだけを運ぶような風だった。
そこは真がまだ選びきれていない“あわい”——夢と神と現の狭間。
時間も場所も意味も希薄な白の領域の中で、ひとりの少女が座っていた。
夢宮蒼子。
その姿は、すでに人の輪郭ではなかった。
だが、彼女の瞳は、まだ人の光を湛えていた。
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蒼子は、かつて神域の巫女だった。
いや、正確には“巫女にされかけた者”であり、
本来ならば封印とともにこの世界から消えるはずの存在だった。
彼女が視てきたのは、人の夢、神の記憶、そして“視られる側の痛み”だった。
記録館で見せた静けさは、
彼女がすでに“その視線”に耐えてきた証であり、
人の心でありながら、神の情報を保持する“媒体”としての苦しみだった。
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幼いころ。
蒼子は眠るたびに、誰かの記憶を夢に見る少女だった。
ある時は、明治期の兵士の最期。
ある時は、戦後の女学生の初恋。
またある時は、名前のない誰かの死の瞬間。
——そのすべてが、彼女の“夢”として再生された。
だが、それは夢ではなく、“神の視座”の断片だった。
彼女は無意識に、神域へと“つながっていた”。
その能力が記録館の目に止まり、彼女は保護された。
そして、選ばれた。
“封印の巫女”として。
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「なぜ私が、選ばれたのか——」
彼女はかつて問うた。
「それは、視えすぎたからです」
記録館の職員は静かに言った。
「神の記憶に適応できる人間は稀です。
あなたは、それを“夢”として処理できる数少ない存在だった」
「だから、巫女に?」
「正確には、“夢の結界”です」
「神域の記憶が現実に流れ出さないように、
あなたに受け止めてもらう。
あなたは、現代における“ヨリシロ”の最終形態なのです」
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それは、使命ではなかった。
ただの器だった。
彼女は、数多の夢を受け入れながら、
少しずつ自我を擦り減らしていった。
ある夜、彼女は“自分の夢”を見た。
だが、それは——存在しない夢だった。
誰の記憶でもなく、どの記録にも残されていない風景。
彼女はその中で、ある少年と出会った。
——斎 真。
まだ彼が神域に触れる前、蒼子はすでに“彼の夢”を見ていた。
そして確信した。
「この人が、“鍵”になる」
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彼女は、自ら“眠る”ことを選んだ。
記録館の地下。封印区域の中心。
夢と神と現の交差点に横たわり、
ただ“夢を見続ける巫女”として、待ち続けた。
“鍵”が来る、その日を。
そしてその夢の中で、
彼女は彼と出会い、彼に名前を問われた。
夢宮 蒼子。
それが、神域の最奥で唯一、
彼女自身が“選んだ”名前だった。
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今、彼女はかつての夢の残骸の中にいる。
だが、彼の存在が、彼の選択が、
その夢に“意味”を与えた。
巫女はもう、ただの媒体ではない。
今や彼女自身が、“夢を紡ぐ記録者”となった。
「真、ありがとう。
あなたが開いたから、私はやっと“自分の夢”を見られる」
白の世界に、色が差し始める。
風が戻り、音が芽吹く。
彼女の中にある無数の記憶が、
蒼き瞳の中でひとつの“物語”へと変わっていく。
そして彼女は静かに目を閉じた。
それは、終わりの合図ではなく——
“自分の意志で眠る”という、初めての自由だった。
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(→第12章:観測の終わり)




