第8章:夢と現(うつつ)
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目が覚めた。
最初に感じたのは、ひどい吐き気と頭痛だった。
自分の呼吸音が、まるで別人のもののように遠くに聞こえる。
視界はぼやけ、まぶたの裏には、まだ無数の“目”がこびりついていた。
「……真、起きて……」
微かな声。
意識の底から這い上がるように、斎 真はゆっくりと目を開いた。
そこは、病室のようだった。
だが、どこかおかしい。
壁は白すぎて、天井の蛍光灯は微かに"揺れて"いる。空間そのものが、わずかに歪んでいた。
傍らにいたのは、蒼子。
しかし、彼女の目も焦点が合っていなかった。
「ここ……どこだ……」
「わからない。でも、"目"の夢の中じゃない。もっと、外側」
真はようやく上体を起こした。
体は重く、手のひらの印はまだ赤黒く脈打っている。
「俺は……“見た”のか?」
「うん。あなたは神を"見た"。
だから、こうして戻ってこられた」
「戻ってきた? 戻れたのか、本当に?」
蒼子は、答えなかった。
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部屋の外は静かだった。
誰もいない廊下。無音の受付。非常灯だけが、かすかに空間を照らしている。
まるで世界全体が“深夜2時”のような静けさ。
いや、これは——丑三つ時そのものだ。
ふと、真は窓の外を見た。
——世界が、逆さまだった。
道路に建物が突き刺さっている。
人の影が、空を歩いている。
電柱が折れては戻り、折れては戻りを繰り返している。
「ここは……夢なのか? 現実なのか?」
「“現”だよ。でも、“目に視られたあとの現”」
蒼子の声が、どこか遠く感じた。
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廊下を歩く。
扉のひとつを開けると、そこには巨大な目の壁画があった。
何百もの眼球が重なりあい、笑っていた。
それは記録館にあった神影録の一節に酷似していた。
だが、あれは本の中の話だったはずだ。
そしてその中央に、“誰か”が立っていた。
白い衣。
人のようで、人でない何か。
その存在が、空間そのものを支えているように見えた。
「……兄さん……?」
真の声が漏れる。
だが、その“誰か”は、何も言わず、ただこちらを見ていた。
見ているのではない。
彼の“目”を通して、誰かがこちらを“観察している”のだ。
蒼子が、真の腕を引いた。
「まだだよ。そこに近づいたら、もう戻ってこれない」
「でも、あれは……兄の……」
「"だったもの"、だよ」
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彼らは再び病室へと戻った。
そこは確かに異常だったが、まだ“自己”が保てる範囲だった。
蒼子が壁にもたれかかりながら、ぽつりと呟く。
「神域から戻ると、必ず“重なり”が起きる。
夢と現が重なる。自分と他人が重なる。死者と生者が交わる」
「この場所も、その重なりの中ってことか」
「うん。でも、あなたはまだ人間でいられる」
「まだ、ってことは……」
「“目”が完全に開いたら、あなたも“誰か”になる」
蒼子はそう言って、真の胸元に手を当てた。
そこには、もう“目”の印はなかった。
だが、代わりに微かな熱だけが、脈打つように残っていた。
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そして、その夜。
真は、誰かの夢を見た。
それは、記憶でも予知でもない、"別人の人生"だった。
夢の中で、彼は知らない言葉を話し、知らない風景を歩いていた。
だが、その“知らない感覚”が、やけに懐かしかった。
(→第9章:神の視座)




