第7章:鎮まるべきもの
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東練馬四丁目未成線の奥——
かつて駅として計画されたその場所は、今では誰にも知られることのない“忘却された神域”と化していた。
崩れた壁面、朽ち果てた配線、色の抜け落ちた看板。だがそれらの空虚の中に、微かに漂うものがある。
音なき“気配”。
そこに在るだけで、皮膚がざわつき、喉が乾くような、
人間の本能が「これは違う」と訴える何か。
その場所に、斎 真と夢宮 蒼子が立っていた。
蒼子は夢の巫女。現実にも現れるが、彼女の本質は"夢そのもの"に近い。
だからこそ、この場所では、より輪郭を持って存在できる。
「……ここが、“目”の核なのね」
蒼子が囁いた。
真は息を呑みながら、手のひらに浮かぶ痣を見つめる。
その印は今や、赤く脈打っていた。
「感じるか?」
「……ああ」
何かがこちらを"見て"いる。ずっと。最初から。
壁の隙間、天井の継ぎ目、構内の暗闇——あらゆる“隅”から、それは"存在"していた。
だが形はない。匂いも音もない。ただ、視線だけがある。
「この先に進んだら……もう、戻れない気がする」
「うん。でも、進まなきゃ。止まったら、追いつかれる」
「誰に?」
「“夢”に」
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ホームの端にある旧作業員通路。
扉は崩れ落ち、奥にはコンクリートが砕けてできた“穴”があった。
人工の形ではない。まるで、地下から何かが「這い出てきた」かのような破れ方だった。
真が一歩踏み出すたび、空気が重くなる。
蒼子の足音も、しだいに“遅れて”聞こえるようになっていった。
「……時間が、乱れてる」
蒼子が呟く。
足音が遅れて聞こえるのではない。
“彼女自身が、まだ歩いていない”のに、先に音が鳴るのだ。
因果が逆転している。過去が未来を追い越している。
この空間には、時間の矢印がない。
あるのはただ、“神のまなざし”だけだった。
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やがて、通路の先に“部屋”が現れる。
いや、それは部屋とは言えなかった。
そこは、白かった。
壁も、床も、天井もない。四方がただ、乳白色の空間で満たされている。
中に立つと、自分の影すらない。
「ここが……核?」
真が言うと、蒼子は静かに頷いた。
「ここで、神は“眠っている”。
でも、夢は見ている。ずっと、ずっと前から」
「俺たちは……その夢の中にいるのか」
「ううん、違う」
蒼子が、真の手をそっと取った。
「夢の中じゃない。
“夢の中にいる”という“夢を見てる”の」
そのとき。
空間に、"裂け目"が走った。
まるで天井のない空に雷が落ちるような、歪な音。
そこから、無数の“目”が現れる。
無数の、瞳。
だが、それは“見る”ための器官ではない。
見るという行為そのものを、ただ無限に繰り返す“現象”。
見ている。
見ている。
見ている。
見ている———
真の中に、"視られる痛み"が走る。
頭が割れそうだった。背骨が熱を持ち、内側から何かが“這い上がって”くるようだった。
蒼子が叫ぶ。
「真!! 意識を保って! 視られすぎると、壊れる!」
その声すらも遠のいていく。
視線が、神の意識が、彼の"思考"に直接干渉しはじめる。
思い出が歪む。名前が薄れる。自分の姿が、自分のものでなくなる。
———そのときだった。
誰かが囁いた。
『……それでも、君は目を開くのか?』
その声に、真は思わず問い返す。
「……誰だ……」
返答はなかった。
ただ、耳ではない場所で、何かが微笑んだ気がした。
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彼は目を閉じた。
見られたままでは、こちらが壊れる。
ならば、あえて“見る”側に立たなければならない。
真は、自分の“目”を内側へと向けた。
見られるのではなく、見るために。
奪われるのではなく、選ぶために。
その瞬間——
“目”が、真の中で開いた。
視界は白く染まり、何もかもが反転していく。
そして彼は、見た。
この世界の裏側にある、“鎮まるべきもの”を。
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(→第8章:夢と現)




