プロローグ:零時の囁き
兄のスマホが、深夜零時を示していた。
画面に映るのは、誰もいない高層ビルの屋上だった。風が吹きすさび、薄い雲が流れていく。その中に立つ兄は、カメラをこちらに向けながら、微かに笑っていた。
『……聞こえるか? 真。もしこれを見ているなら、たぶん俺は、もう——』
動画はそこで途切れていた。通信不良なのか、それとも最初からそう録画されていたのかはわからない。だが、どうしても消せない違和感が、俺の中に巣食っている。
斎 真、大学二年。民俗学を専攻しているが、学問として選んだ理由に深い意味はない。ただ昔から「見えないもの」に妙な親しみを感じていた——その理由が、今になってわかる気がしている。
兄の失踪は一ヶ月前。
警察は事故として処理したが、遺体も目撃者もなかった。
唯一の手がかりが、この屋上で撮られた動画だ。
そこは、既に立ち入り禁止区域となっていた。老朽化と地盤沈下によって、数年前から封鎖されたはずのビル。
だが、兄はあの日、確かにそこにいた。
──「あの屋上に立つと、神様に出会えるらしい」
それは、かつて兄が口にした都市伝説だった。
今思えば、ただの冗談ではなかったのかもしれない。
俺は今、そのビルの前に立っている。
錆びた柵を乗り越え、暗い非常階段を一段ずつ踏みしめていく。
風が唸り、壁に染みついたカビの匂いが、むかし祖母の神棚を思い出させる。
そして、扉を押し開けた。
屋上には誰もいない。
だが、そこに「視線」がある気がした。
俺の背中に、ぴたりと張り付くような感覚。
見られている。だが、どこからともなく。
——そのとき、風が止まった。
音が、消えた。世界が、止まった。
目の前の空が、ひび割れた。
空が——ひび割れたのだ。
その裂け目から、目がのぞいていた。
それは、何千もの眼球が、蠢きながらこちらを覗くような異様な感覚だった。
俺は、思わず声を上げた。だが喉からは音が出なかった。
何かが俺に囁いた。
「目醒めよ、ヨリシロ——」
その声と同時に、意識が深い水の底へと引きずり込まれる。
俺の夢は、その夜から変わった。
神の夢を見るようになった。
──そして、彼女に出会った。
あの少女は言った。
「ようこそ、目の夢へ。あなた、ヨリシロでしょ?」