鴨川てふてふ
1
「鴨川てふてふ……」
明文は呟く。
今日もまた、明文は鴨川を散歩する。
隣を白い蝶が飛んでくれる。
白い蝶を見るたびに明文は彼女を思い出す。
まだ梅雨にもならないというのに夏のように暑い日だった。明文は鴨川デルタ近くの散歩コースを歩いていた。ふと前を見ると白いワンピースの女性が歩いていた。女性の横を一緒に歩くように白い蝶がついて飛んでいる。女性はその蝶を見ながら歩いている。まるで蝶とおしゃべりしながら歩いている様に後ろからは見える。
蝶が人間になったのか、人間が蝶になったのか、と考えてしまうくらい仲が良さそうに見えた。
しばらくその様子を眺めながら歩いていると、ふいに蝶が女性から離れた。すると女性は立ち止まり、こちらを振り返った。明文と目が合うとニコッと笑った。
つられて明文も笑顔になった。
「こんにちは」
明文は言った。
「こんにちは」
女性も応えた。
「蝶々とお友達ですか?」
明文の問いに女性は笑いながら言った。
「フフ、はい」
「さっきはどんなお話をされてたんですか?」
「今日は特別暑いねって話してたんです」
女性は楽しそうに言った。
「いいな、僕も蝶とお喋りしてみたいですね」
女性は笑った。
二人はしばらく並んで歩いた。
灰色サギが二人の少し前の川辺に舞い降りた。
女性は少し表情を硬くして言った。
「サギって近くで見ると大きいですね」
「そうですね」
サギはじっとしながら、たまに体勢を直している。
明文は言った。
「お互い緊張しますよね。通り過ぎる時にこちらは何にもしないよって思いながら歩いてるのに、あちらは飛ぼうか飛ぶまいかとビクつきながらこちらの様子うかがってますよね」
二人はサギの様子をうかがいながら横を通り過ぎた。
彼女の表情は穏やかになっていた。
明文は言った。
「そろそろ帰りますね。また会えるといいですね」
「そうですね、またお会いできるといいですね」
「では、また」
明文は言った。
「はい、ではまた」
女性も微笑み、二人は別れた。
帰り道、明文の心は春の陽気の様にぽかぽかしていた。
初めて会った人と話したからだろうか、それとも彼女だからだろうか。
分からぬまま、足取り軽く家路についた。
2
明文はアパートの部屋の机に向かってあぐらをかいていた。ぼーっと目の前の窓から見える景色を眺めていた。水色と白の空であった。
明文はしばらくして立ち上がり、部屋を出た。
夏が終わりに近づき、秋の香りが微かに感じられる日だった。
明文が鴨川のいつもの散歩コースに下りようとした時、下のベンチに女性と男性が座っているのが見えた。女性は蝶とお友達のあの彼女であった。彼女は立ち上がると男性もすぐ立ち上がり、執拗に話しかけているようにみえた。明文はずんずん近づいていき、声をかけた。白い蝶がひらひらと彼女に近づいていった。
「ごめん、待たせた!」
彼女は振り向き、明文の顔を見るなり顔がパッと明るくなった。
「あきさん!」
男性は明文を見ると、舌打ちしてその場を去っていった。
明文は驚いた顔で言った。
「どうして僕の名前を?」
「あら、本当にあきさんなんですか?何も考えずに言った名前があきさんだったんです」
「僕はあきふみといいます。大丈夫でしたか?困っている様にみえて声を掛けてしまったのですが」
「はい、ありがとうございました。嬉しかったです、声を掛けていただいて。私は春子といいます」
2人はベンチに腰を下ろした。
「この季節は、春ほどは蝶がいないですね」
「そうですね、でもいろんなお友達がいるので楽しいです」
「お友達?」
「黄色い蝶々に茶色い蝶々、秋も賑やかで楽しいです」
春子はにこやかに言った。
明文もにこやかに春子を見ながら聞いていた。
「春子さんといると、のんびりした気持ちになれます」
明文は穏やかな表情で川を見ながら話し始めた。
明文はしがない作家。彼女と別れ、仕事も行き詰まっていた。その時に春子に会って、ふと心が軽くなり、仕事も進むようになった。
「僕は春子さんに会ったことで人生の転機を迎えたような気がします」
話し終えると明文を急に照れが襲い、すっくと立ち上がった。
「では、また。僕ばかり話してしまってすみません」
明文は足早にその場を離れた。
3
冬が駆け足で通り過ぎ、春を待ち望む季節。
三寒四温の寒の日だった。
寒いのが苦手な明文は服を着込み、真冬の装いで外に出た。
鴨川に降り歩き、ふと下を見ると枯れた茶色の草の下の方に緑色の若い草が生えていた。
もう春が来ているのだ。
その日の夜、明文は夢を見た。
どこかの草原。一面、枯れた草が広がっていた。足元を見ると、若い緑色の草が芽吹いていた。
明文が一歩踏み出すと、青々とした若い草がみるみるうちに広がり、その先を春子が歩いていた。
「春子さん!」
叫ぶと春子は振り返り、微笑んだ。そして春子の姿は白い蝶になり、飛んでいってしまった。
それから一ヶ月程過ぎた頃だろうか、鴨川まで行く散歩途中に桜の花がちらほら咲きかけているのを見た明文は心躍った。
「あぁ、もうすぐ春子さんに会える」
4
春の暖かい日、明文は鴨川沿いにある公園まで歩いていった。
桜が満開になろうとしている。小さい子を連れたお母さんたち、とうに子育てを終えたおばさまたち、散歩が日課であろうおじいちゃんたち、皆桜を幸せそうに見ている。
すると、白い蝶がひらひら通り過ぎていった。その向こうに女性が川を眺めて佇んでいるのが見えた。
明文の心は、蝶のようにひらひら舞った。
「春子さん」
春子は振り向き、明文の顔を見ると嬉しそうに微笑んだ。
「あきさん」
「春子さんの季節ですね」と明文が言う。
春子はニコリと微笑んだ。
「春は大好きです」
さくらの花びらがひらひら舞い散る中を蝶が飛んでいった。まるでさくらの花びらが蝶になったかの様に。
そしてひらひら舞い降りた蝶の様な花びらは、綺麗な春の絨毯になった。
ふたりはその様子をただ眺めていた。
「鴨川……てふてふ」
蝶を見ながら明文が言った。
「ウフフ、てふてふ」
春子は笑った。
「朝は、草むらの葉っぱに蝶が羽根を広げて休んでいるんです。そのさまは花が咲いてる様なんです。咲いては舞い上がり、咲いては舞い上がり」
明文が言った。
「お花が舞い上がるんですね、素敵」
春子は桜と蝶を見ながら微笑んだ。
二人はまたしばらく春の様子を眺めていた。
「フフ」
春子は不意に笑った。そして続けて言った。
「てふてふ」
そう言う春子の顔はとても楽しそうだった。
ふいに春子が言った。
「もう行きますね。お会いできて嬉しかったです」
春子の表情は微笑みと少し悲しさが混じっているように見えた。
その微笑みのまま春子は歩き出した。白い蝶が春子の後ろをついて行き、しばらくして離れた。
その様子を明文はただぼーっとながめていた。
あれから明文はたまに鴨川を歩くが、彼女に会うことはない。
蝶が舞うのを横目に明文は思う。
(彼女は今、幸せだろうか)
想いながら明文の顔はほころんでいる。
もう会うことはないのかもしれない。だが、彼女と過ごした時間は春のように穏やかなひとときだった。
そして、もしかしたら彼女は本当に蝶だったのかもしれない、と明文は思う。
今日もまた、明文は鴨川を散歩する。
白いてふてふと共に。