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アリス探偵事務所へようこそ-1

部屋を出てまずはレストランのフロアへと向かう。

改めて思ったのだけど、この建物はでかい。と思う。

わたしが寝ていた部屋は二階だけど、階段のあるところまでいくとフロアに続く降りる階段と上へ続く階段がある。そしてその階段のすぐ横に昨日の宴会?場。更に廊下は続き、100メートルくらい先に突き当たりの壁が見える。その壁の両側に更に通路が続いているように見えた。

100メートルも廊下が続くのも驚きだが、更に言えばわたしの部屋から出ると廊下が左右に続いているわけなのだが、階段に続く方とは反対側に進むと、わたしが昨日布団一枚で歩き回って行き着いた階段の踊り場に出る。ピーターとトラ吉の二人に初めて会ったところだ。

あそこに行くまでの道程も相当長かった。途中に部屋も沢山あったし、そう考えると、この建物の大きさは尋常じゃない。廊下の幅分だけで考えても500メートル、いや、それ以上ありそうな雰囲気だった。確かここは歌舞伎町なはずたけど、歌舞伎町にそんな建物があるのだろうか?


考えているうちに階段に着く。

そのまま階段を降りていく。

フロアまで下りてくると、そこは営業中の時のような煌びやかな雰囲気とは違い、とても静かで、どこか寂しげな風だった。イスは全てテーブルの上にあげられ、カーテンは全て閉ざされているものの、朝の光が隙間から差し込んできて割と明るい。


わたしはフロアの丁度真ん中辺りに立ち、フロアの様子を眺めた。ゆっくりと視線を移していきながら、玄関や、窓や、壁際の棚、そこに並べられた飾りや置物、テーブル、イス、シャンデリア、その一つ一つの物のかたちや、色や、特徴なんかをしっかりと捉えて観察してみる。

不思議な感覚だったからだ。昨日ここで、自分が働いていたなんて、実感が湧いてこない。ここにあるものどれもこれも初めて見るようなものばかりで、この空間とわたしが、自分の中で結びつかなかった。

それでも、この場所は不思議と落ち着く。インテリアのセンスも嫌いではないし、むしろ好感が持てる。

なんとなく、気に入ってしまったようだ。

このお店が。

そしてもう少し働いてみたいと思う自分がいた。


もう少し視線を進めていく。カウンターテーブルがあり、その奥に壁一面の棚。沢山のコーヒー豆やお酒が並んでいる。エスプレッソマシン、電話機、ドライフラワーの飾り物、うさ子さん…ん?


「おはようアリス」


声をかけられてもわたしの思考はほんの数秒止まったままだった。カウンターの一番端っこに視線を移すまで、彼女の存在に全く気づかなかったのだ。いつから居たのかもわからない。物音もなかったはずだから、たぶんわたしが来る前から居たのだろうと思う。彼女はまるで、柳の木のように、この空間に自然に溶け込んでいた。


「お、おはようございます」


驚く反面、安堵もある。

昨日のことはすべて夢で、わたしはもしかしたらもっと酷い状況の最中にあるのかもしれない。最悪死んでしまうような。

しかしうさ子さんに会えたことでそんな不安は消えてしまった。


「昨日はよく眠れた?身体は大丈夫かしら?」


うさ子さんはカウンターテーブルに頬杖つき、ただ優しく微笑んでいる。


「はい。もうぐっすりです」


「昨日、ここで急に座り込んじゃって、そのまま眠ってしまったのよ」


「そうだったんですか!?そ、それはご迷惑をお掛けしました…」


なるほど、だから島田達の宴会が終わってからの記憶が曖昧だったのか。


「こちらこそごめんなさいね。急に色々お願いしてしまって。大変だったわよね…」


「あ、いえ。確かに大変でしたけど、でも楽しかったですよ」


わたしはそう言い笑って見せた。うさ子さんは少し心配そうにしていたが、わたしの言葉と表情を見て安堵したようだ。軽く溜息つき、優しく微笑んだ。

そう、それがわたしの正直な感想だった。大変だった。殺されるかもしれないとか思ったけれど、こんな経験はなかなか出来ないなぁと思えば、とても貴重な体験だったと思う。

何よりあの状況でも楽しんでいたわたしがいた。

こんなに楽しくて充実した時間は久しぶりだったから、むしろわたしの方がお礼を言いたいくらいだ。


「そうだ、コーヒー飲むかしら?」


「いただきます」



コーヒーの匂いがフロア中に広がっている。

丸いフラスコやビーカーのようなガラス容器と、アルコールランプによってコーヒーがゆっくりと抽出されていく。原理はよくわからないけど、お湯やらコーヒーやらがガラスの筒を上ったり下りたりしていた。たしかサイフォンコーヒーってやつだ。名前くらいならわかる。

コーヒーは嫌いではないが、特に好んで飲むことは今までなかった。喫茶店で勉強なんてこともしなかったし、家にインスタントコーヒーは置いていたけど、たまにテスト勉強で夜通しがんばるぜ!という時にカフェイン摂取を目的として飲んだくらいだろう。だからコーヒーという飲み物に対してわたしは圧倒的に経験が足りない。

お茶のように、何か作法はあるのだろうか?ミルク、砂糖はどれくらい?などと細かいことを考えてしまう。わたしが知らないだけで、コーヒーを飲む作法というものは存在するかもしれない。もしそうだったら恥を晒してしまうかもしれない。うさ子さんに、そんなことも知らないの?なんて呆れられてしまうかもしれない。やばい、何だか変な心配事が沢山湧いてきた。

どうしよう…聞くべきか………。

などと考えているうちに、抽出されたコーヒーをうさ子さんがコーヒーカップに注ぎ、わたしの前に出された。いつの間にかトーストまで用意されていた。


「さあ、召し上がれ」


「い、いただきます」


まずはカップの持ち方からだ。正しい持ち方は?右手?左手?持ち上げる時の肘の角度とか、どの指で持つのか、とか。小指は立てるのか?とか。

わたしはあらゆる可能性を考えた。考えながら身体も一緒に動いていたようで、わたしの様子にうさ子さんがクスクスと笑った。


「普通に飲んで良いのよ?」


「あ、はい」


普通、普通か。普通とは……なんだ?


「……そうね、じゃあまずはミルクも砂糖も入れず、そのまま飲んでみて?」


普通にと言われてからもなかなか手を出せずにいたわたしに、うさ子さんが言ってくれた。


「あの、手は!?右手?左手?」


「どちらでもよろしい」


若干困り顔のうさ子さん。なるほど、そこまで深く考えなくても良いみたい。

わたしは頷き、言われた通りにまずはそのまま口に含む。

口に含んだ瞬間、コーヒーのとてもフルーティな味が口の中に広がる。それに程よい苦味。なんだろう、わたしが知っているコーヒーと全然違う気がする。


「あ…美味しいです」


しばしコーヒーの味を楽しんだところでわたしに優しい眼差しを向けていたうさ子さんの視線に気付き、なにか気の利いた感想を、と思ったのだが、結局その一言しか出てこなかった。


「ふふ、ありがとう」


うさ子さんのうさ耳がぴょこぴょこ跳ねるように、踊るように動いている。

あれはやっぱり本物…なんだろう……。


しばらくわたし達は特に会話を交わすこともなく、わたしは黙々とトーストとコーヒーを頂き、うさ子さんはタイトルも何も書いていない古めかしい本を読み始めた。

コーヒーと、トーストとバターの匂い、朝の香りがただ二人を包んでいた。

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