第一章 シュザン旅立つ①
世界は、一つの海と四つの陸地で構成されている。
空には果てがないが、海には果てがあった。端まで到達すれば、底の見えぬ暗闇が広がっていて、墜ちた水の行方を誰も知らない。
住人たちは閉じた世界『クローズ』の中、たった一つの大陸と三つの島を巡り、争い続けた。あまたの国が生まれては消え、命は血となって大地を濡らすのが、この世の常識だった。
――だが、常識に異を唱える者が現れた。
彼の者は、傭兵として名を馳せ、あらゆる魔法と力、十の絶技を振るうに至る。
圧倒的と呼ぶにふさわしい活躍をみせ、ついに世界に平和をもたらした。
名をゲイル・カーン。
彼は一つの国を作り、クローズ中の国々と平和条約を結んだ。
それから月日は流れ、フォークロア大陸の最東端に位置するレルトーレ村で、一人の若者が今まさに旅立とうとしていた。
「行ってくるぜ、母さん」
「気を付けてね。いい? 危ない目に遭いそうだったら逃げるのよ」
「大丈夫だって。パパッとやっつけてやるよ」
「逃げろって言ってるんですよ。もう」
シュザンは村の入り口でため息をつく母に、意気揚々と頷く。
淡い朝の陽ざしを受けながらも、遠巻きに見ていた村人たちが朗らかに笑った。
「おい、シュザンで大丈夫かよ」
「嘆願書を落とすなよ」
「なんだと! よし、勝負だ。ブノワのおっさんと、アドンじいさん」
「こーら、ケンカしちゃだめでしょう。早く行ってきなさい」
言葉とは裏腹に有無を言わさぬ母の迫力に、シュザンは渋々黙り込む。代わりに、中指を村人たちに向けると、質素な石造りの家が並ぶ村を背に駆け出した。
「アハハ、生意気な野郎だ。弱っちいくせに、ゲイル・カーン気取りだよ」
「へ、まあそこが可愛らしいがよ」
「うちの息子を可愛がるのは嬉しいですけど、あんまりいじめないでください」
ブノワとアドンは、肩をすくめると、クワを片手に畑の方向に歩き出した。
イルエは二人を見送ると、村の入り口に憂いを帯びた瞳を向ける。
「怪我しなきゃ良いけど。ううん、大丈夫。きっと」
イルエは自分を納得させるように頷くと、視線を引きはがし、家へと帰っていった。
※
シュザンは、飛ぶように街道を進む。
長い黒髪が風に揺れ動き、真紅の瞳が迷いなく前を見据える。だが、彼は急にピタリと足を止まると、背に背負った革袋から地図を取り出した。
「お、ヒューア王国の首都ってこの方向だっけか?」
どっかりと地面に腰をおろし、地図を眺めた。地図に記された内容はいたってシンプルで、東街道を進めば目的の場所につくことがわかる。だが、
「地図の読み方分かんねえな。いらね」
シュザンは、地図を投げ捨てると立ち上がり、大きく伸びをした。
(ぬー、街道を進めばいいって母さん言ってたけど、腹が減った時に、果物を拾えない。となれば、森からオルドを目指せばいいよな)
シュザンは、街道の脇にある森の中に入ると、迷いなく歩いていく。
せっかく母が用意してくれた旅衣が、枝や葉で傷つく。
なけなしの金で買った新品の旅衣だが、シュザンは気にする素振りを見せない。
うっそうと生い茂る草木をかき分けながら、シュザンは食べ物を拾い集める。
木漏れ日が地面に降り注ぎ、温かな風が頬をなでる。幸先の良い自然のもてなしに、うっとりと目を閉じた。
「キャアアアアアアア」
突如、鋭い悲鳴がシュザンの耳に届く。ただ事ではない、とシュザンは背中から弓と矢を取り出すと、悲鳴が聞こえた場所に駆けた。
「ひい、くるな」
「誰か、助けてくれ」
木の根で凸凹とした地面のせいで、思ったように速度が出ない。
シュザンは、無事でいてくれと祈るような気持ちで歯を食いしばった。
葉が頬を裂き、枝が体を叩くのも厭わず、シュザンはやっとの思いで辿り着く。
随分と開けた場所だ。馬車の近くに、三人の一家が地面にへたり込んでいる。
「どうしたんだ、あ!」
彼らの視線の先を辿っていくと、三メートルほどの巨大な魔獣が鼻息を荒げているではないか。今にも襲い掛かろうとする気配に、シュザンの背が粟立った。
「やめろ」
矢を引き絞り、素早く連射する。二本の矢は大気を切り裂きながら魔獣の体に当たったが、分厚い体毛が体内への侵入を拒む。
「くそ、だったらさ」
シュザンは走り出し、地面に落ちている剣を拾う。
シュザンに剣の心得はない。
技量を気迫でカバーするように雄叫びを上げ、でたらめに刃を振るった。
「兄ちゃん、逃げろ! サイプロスは、そんな程度の攻撃じゃ効かないよ」
「あんたたちこそ逃げろよ。俺が、なんとかすっからさ」
「だ、駄目です。腰がぬけて、ああ!」
サイプロスは、羽虫を払うようにシュザンを吹き飛ばした。数メートルは飛び、何度も地面をバウンドした。
あまりの衝撃に目は眩み、数瞬、息が吸えなくなった。
「う、ゲボ」
シュザンは、手放しそうになる意識を必死につなぎとめ、サイプロスを見た。
魔獣は、前足で地面を三度叩くと、身を深く沈めた。
――ああ、あのままじゃ三人が死んじまう。どうしよう。なんとか……なんとかしねえと。
シュザンは、痛みを置き去りに、引きずるように起き上がる。勝算などない。だが、逃げる選択肢だけは、まるで思い浮かばなかった。
「不細工な毛むくじゃら! 俺が相手だ。こっちにこいよ」
足元に置いていた鞘付きの剣を拾い、柄を握る。
「グルルル。プオオオオオオ」
何度も邪魔をするシュザンに腹を立てたのか。魔獣は猛然と、シュザン目がけて突撃する。
前に突き出た双角が、陽光を反射し残忍にギラづく。
迫る死の圧に、シュザンは足を震わせ、涙を零した。
(死にたくねえ。でも、逃げるのはもっと嫌だ)
シュザンは、歯を噛みしめて叫ぶ。
「し、死ぬんだったら、テメエも一緒だ!」
目の前に迫ったサイプロス。シュザンは、精一杯力を込めて、居合斬りを放つ。
シュザンは死んだと、本人さえも思った。しかし、天のイタズラか、奇跡か。シュザンは死ななかった。それどころか、彼の斬撃は空間ごと抉るような威力で、サイプロスを真横に一刀両断する。
「……へ?」
シュザンは間抜けな声を上げた。
信じられない、生きている。え、でも、どうして?
疑惑と疑問が、シュザンの頭を占領した。
恐る恐る後ろを振り返ると、切り裂いた衝撃で背後に吹き飛んだ魔獣が、血だまりに沈んでいる。
信じられない。矢すら防ぐほど頑丈で大きな魔獣が、素人の剣の一撃で死ぬのだろうか? シュザンは、狐につままれたような気持ちで空を仰いだ。
「ねえ、お兄ちゃん」
ハッとして振り向くと、シュザンにぎこちないながらも笑顔を投げかける女の子がいた。
「あ、無事だったのか」
「うん、おかげさまで。すっごく強いんだね。びっくりしちゃった」
「強いってか。よくわかんねえってか。……あー、いいかもう、分かんねえ。とりあえずラッキー」
シュザンは、こんがらがった思考を、まるでゴミを捨てるような感覚で放り投げた。深く考えるのは得意ではない。考えても無駄だ、とこれまでの経験からそのように判断する。
シュザンは、剣を鞘にしまうと、他の人たちにも声をかけた。
「よ、悪いな。かってに剣を借りちまったよ」
「いやいや全然。そんな剣で良ければプレゼントするよ。いや、ホント助かった。俺たちは見てのとおり行商人でね。戦いはからっきし駄目なんだ」
「ギョウショウニン?」
「売り物を馬車とか徒歩で運びながら、物を売る商人のことですよ。……まあ、女性みたいな見た目なのに、随分と武芸に秀でているんですね」
カッとシュザンは頭に血が上ったが、嬉しそうに笑う人たちを見て、留飲を下げる。
「ハア、じゃあ俺はこれで。元気でな」
「あ、おい。お礼がそんな剣一本じゃ、商人の名折れだよ。良かったら、食事でも一緒に食べないか」
「う、食事だって!」
グーと、盛大にシュザンの腹が鳴る。正直、戦いの余韻は抜けきっておらず、ふらつく気がする。しかし、一刻も早くオルドに行かなければならない。
誘惑に惑うべからず、と母の教えが頭に浮かび、シュザンは首を振った。
「悪い、急いでいるんだ。オルドに嘆願書を届けないといけない」
「オルド? それってヒューア王国の首都だろう。兄ちゃんが行こうとしていた方角じゃ、ヒューア王国の国境に行っちまうよ」
「え?」
「ははぁ。さては、迷子だな。よしよし、分かった。オルドまで一緒に行こう。こっちは馬車だから歩くより速いぜ」
シュザンはありがたい申し出に、パッと喜んだが、すぐに暗い表情になる。
「あー、でも。あんたらはオルドに用はねえだろ。無理に付き合う必要はないんだぜ」
「大丈夫です。私たちはちょうどオルドに行こうとしていたんです。最近、このあたりも物騒になったとかで、オルドでは武器が飛ぶように売れるんですよ。ですから、問題ありません。娘もよろこびますし、むしろこちらからお願いします」
頭を下げる女に、シュザンは照れくさそうに笑った。
「そっか。じゃあ、よろしくな。俺は、シュザンってんだ」
「シュザンさんか。うん、マルク・オーエルだ。妻のメイカに、娘のサマサ。まあ、とにかく移動しようや」
シュザンは頷くと、一行は馬車に乗りこんだ。森の中といえど、この場所は街道から少し外れた場所だった。
ゆっくりと興奮した馬をなだめながら、マルクは上手に街道へ出ると進路をオルドに向けた。