プロローグ
満月が美しい夜に、およそ似つかわしくない鋼鉄の音が鳴り響く。
草木も生えぬ荒野に、複数の戦士たちが剣を構え、一人の男を取り囲んでいる。
「神に辿り着きし、十の絶技を操る男ゲイル・カーン。あなたがいては、我らは大陸の覇を称えることができません。ここらで、退場していただきたい」
戦士たちの後ろには、眼鏡を神経質に指で押し上げる男がいた。年の頃は三十そこらだろうが、邪悪ながらも無邪気な笑みが、実年齢よりも若く男を見せている。
「退場? よもやこれしきの兵で吾輩を止められるとでも?」
低く静かな声は、腰に刀と剣をぶら下げているゲイルという男から発せられた。
白髪の髪に、深く顔中に刻まれた皺は、男のこれまでの苦労が形となったかのよう。加えて、ほっそりとした体型が、どこか弱々しい印象を抱かせた。だが、
「笑わせるな。我が武力は国家規模のものとしれ」
山が全身にのしかかるようなプレッシャー。その発信源たる目。……その目を見れば、弱者と罵る愚か者はいないだろう。
「は、はは。これは恐ろしい。だが、承知しています。シー、……ほら、耳を澄ませば聞こえるでしょう? もうじき大量の兵が来ます。オークや黒のエルフ、ドラゴン。皆、あなたを殺すために集っているのですよ」
ゲイルは、彼方の空を眺めた。
満月が彩る闇に、大小様々な影が踊る。まるで嵐が、これから都市を飲み込むような光景だ。
されど、ゲイルは落ち着きを崩さない。
「……侮られたものだ。 あの程度、たかが数千如きの兵で何ができよう。己が愚を恥じるが良い」
ゲイルは、刀の柄に手をかけ、スッと腰を落とした。
兵士たちは、緊張に喉を鳴らす。距離は五十メートルあるとはいえ、相手は最強の男。油断などできるはずもなし。
だが、ゲイルの目は空へ向けられたままだった。
「一の剣よ、切り裂け」
腰間から抜刀する。直後、夜空を覆う影が消失した。
……後に残るは、遠くの山を濡らす紅い血の雨だけだ。
ただの一刀。しかし、その一刀は、神をも屠る一刀だ。
屈強なオークも、強力な魔法を操る黒のエルフも、究極の生物と名高いドラゴンも、等しく命を散らす。
(なんだ……今のは? 空間を抉ったのか。あ、あれがこの大陸を統べる覇王の絶技)
メガネの男は、立ってはいられず、地面へとへたり込んだ。
「あ、ああ、お、のれ。おのれ、おのれ! 何をぼさっとしているのですか? ゲイルを討ちなさい。ゲイルを討てば、金も女もほしいままです」
戦士たちは、その言葉に耳を貸さなかった。手に入らない報酬など意味がないと、戦士たちは次々と剣を投げ捨て、その場から逃げていく。
ゲイルは、彼らを逃さなかった。刀と剣を抜き放つと、素早く二度振るう。
「ギャア」
「あ」
「うわあ」
呆気なく、地面に転がっていく彼らには目もくれず、ゲイルはメガネの男に刃を向けた。
「あとは貴様だけだ。邪なる者よ。この大陸は危うい均衡を保って平和を保っている。貴様のような輩がいれば、また争いが起きてしまう」
「ふ、ふふ。だから殺すと。で、でしたら、せめて。私に祈る時間をください」
ゲイルの冷徹な目に、わずかな同情の念が宿る。
「……早くしろ」
「ありがとうございます。では、お言葉に甘えまして」
男はひざまずき、両手を真横に伸ばす。
ゲイルは目を見開いた。
「その祈り、邪神ヘイルを崇めるアウトサイダー独立国家の者か」
「しかり。我らが神は、純真なる悪を司るもの。悪そのものであるからこそ美しく、正義の行いなどの愚行は起こさない。特に、あなたのような甘さは持ち合わせておりませぬ」
男の袖から小さな石のようなものが転がり落ちる。
ゲイルは咄嗟に、石を切り飛ばそうとするが、
「遅い。概念化」
光が爆ぜる。圧倒的な光だ。ゲイルは、とっさに手で目を覆った。
「……む?」
光が静まり、ゲイルはすぐに己の身体をチェックした。
胸、首、腹と手で触るが、痛みもなければまっ赤な血が手に付くこともない。
「アハ、驚いているようですね」
男は口の端を限界まで釣り上げ、道化師にも似た笑みを浮かべる。
ゲイルは舌打ちをし、剣を男の喉元へ突き付けた。
「なにをした?」
「なにを……ですって? 気付きませんか」
愉快気な瞳が、ゲイルの姿を映す。その目を見た瞬間に、ハッとした。
ゲイルは一歩後退すると、突き、袈裟斬り、水平斬りと、型を繰り出すように次々と刃を振るう。
月光を怪しく反射する刃が、宙に光の軌跡を残す。無駄のない洗礼された斬撃は、敵を確実に死に追いやる必殺の刃に相違ない。……だが、振るえば振るうほどゲイルの顔から、血の気が失われていく。
「アーハハハ、成功したようですね。あなたの絶技はすべて概念体へと成り果て、大陸中に散らばっていきました。大陸最強の覇者たるあなたのシンボルであり、最高峰の武力『絶技』は、全て残らずあなたの手から離れた」
「なんだと!」
ゲイルは怒りに身を任せ、男の顔を殴る。
「酷いなー。鼻が折れちゃいましたよ」
鈍い音が鳴り、鼻から血が流れ落ちようとも、男の顔から薄ら笑いが消えることはない。むしろ強まったといえるだろう。
「元に戻せ。今すぐに」
「それは無理な相談。ああ、その悔しそうな顔、たまりませんね」
「貴様……」
「おや、殺しますか。構いませんよ。我が役目は終えました。これからは新しい世界が幕を開くでしょう。あ!」
ゲイルは刃を振り下ろすと、死体には一瞥もくれずその場を立ち去った。
――争いの音は消え去り、美しき満月に相応しい静かな夜に戻った。されど、月は厚い雲のベールに身を隠す。