09
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『七月八日
船の都合で彼が出かける日が少し早まってしまった。明日には彼はうちから旅立ってしまう。悲しい。パイを焼いてあげるといったけど、時間がとれなくて結局それは果たせずじまいだわ。離れ離れになってしまうのは寂しいけど、それまでに沢山お話したいと思う。彼が帰ってくるまでなんてきっとほんの一瞬。私はきっと何も変わらないままで、この屋敷で待っていられるわ。大丈夫。いっぱい手紙も書く予定だし、ヘンリーが怪我や病気をすることなく、無事に留学を終えられますように。大好きよ、ヘンリー』
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おいアレックス、ちょっと外に出かけないか?
ジャックがそんなことを言い始めたのは数日後の午後だった。彼は昨夜随分夜更かししていたらしく昼過ぎになって起きてきたのだった。
「明日にはミランダと捜査官の体がここに搬入される。潜行の開始だろう。それは一日もあれば終わるわけだから、アレックスとの付き合いも今日が最後みたいなものだ」
ジャックの言葉にアレックスは一瞬ぽかんとした。
そうか、事件が終わればジャックはいなくなるのだ。彼はアレックスに付き合ってこの屋敷をしばらくの拠点にしていただけで、ミランダ・エイムズの夢魔が倒されればいなくなる。
「どこにいくの?」
「公園でも行くか」
ジャックの真意はわからないが、アレックスは頷いた。洗濯が乾いたところでさっそくあのジャック曰く「腐ったジーンズ」を履いているが特にとがめられなかった。
首都最大の公園に出かける。ちょうど土曜日ということもあって、昼下がりの公園には人が沢山集っていた。
「アイス食べるか?」
屋台のアイスクリームをジャックが買ってくれる。
「お金だすわよ?」
「いや、これくらいは俺が」
ジャックはアレックスに一つ渡す。二人で並んで芝生に座り、行過ぎる人々眺めた。
「アイスくらい、アレックスはいくらでも買ってもらえる立場なんだよ」
しばらくぼんやりしていたジャックがそんなことを言い出して、アレックスにはその真意がわからなかった。
「自分でもあの屋台ごと買えるくらいのお小遣いはあるわ」
「いや」
ジャックは照れくさそうに頭をかいた。
「さっきから行き過ぎる若い男が皆お前を見ている」
「やっぱりジーンズが腐っているから?」
ジャックはおかしそうに笑った。いままで基本的に険しい顔の彼しか見たことがなかったアレックスは驚く。そうしてみれば、随分年上に思えたジャックはまだ自分とさしてかわらない青年に見える。
「みんな美人が好きだからな」
「でもちゃんとした服装をしている美人に限ると思うわ」
「なんだ、わかっているのか」
「別に本当のわたしを見てもらいたいからあえて非常識な身なりをしているわけじゃないの。逆に見られたくないからでもない。ただこの姿が楽だから」
「すこし残念だな」
「どうして?」
「アレックスが可愛いワンピースを着て、差し出されたアイスをにっこり笑ってありがとうって受け取れば喜ぶ連中がいっぱいいるってことを俺は知っている」
「そしてわたしの中身を知ってがっかりー」
「自分で言うな。でもアレックスは中身だって悪くないよ」
いきなり言われてアレックスはジャックをその柔らかな紫色の眼で凝視した。
「わたし、生まれて初めて口説かれた」
「やめろ。お前の家族に暗殺される」
そして二人は短い沈黙のあと笑いあった。
「ロボからお前の叔父さんの話を聞いたんだ。秘密にしておきたかったならすまなかった」
「ロボが話したというのが驚きだわ。きっとあなたを気に入ったのね」
「そうか?」
「ロボはわたしに近づく者には基本的には厳しいから」
彼がアレックスに近づく者を排除していたことをアレックスは知っている。知らないふりをしていただけだ。大抵は、確かにこれはズバリ財産狙い……とアレックスですら気がつく者達ばかりだったが、もしかしたら中にはそうでもないものもいたのかもしれない。これからは自分で判断しないといけないなと思っている。でも人の心まで深く踏み込まずに、人を見る目を養うのは難しそうだ。
「……それで叔父さんの話だが」
ジャックは話を戻した。
「だから人付き合いを絶っていたのか?」
「よくわからない。でもわたしが心を閉ざしている間に、周りが心配して人を遠ざけた。気がついた時にはお祖母様しかいなかった。そのまま十年来てしまっただけよ。でもそういう扱いをされると、いつのまにか自分でも、外に出る自信がなくなってしまうのね」
「ロックハートは人一人ぐらい一生養える財力が余裕であるからなあ」
アレックスは頷く。アレックスを甘やかすことがあまりにも皆にとって容易かった。
「それならどうして今回ミランダの事件に関わろうと思ったんだ?」
「……助けたい人がいるから」
「ミランダを?」
アレックスは首を横に振った。
「彼女じゃない。でもまだそれが正しいのかわからないの」
「そうか」
ジャックは追求するべきか悩んでいるようだ。
「わからないことばかりだな。でも俺だってそうだ。わからないなりになんとかうまい道を選べないかと思っているよ」
「……すこし安心した。皆手探りなのね」
「あたりまえだ」
きゃあきゃあと甲高い声をあげて笑いながら子供が二人、転がる様に走り抜けていった。それを見送ってからゆっくりとアレックスが口を開く。
「ロックハート家の武器」
「なんだって?」
ジャックに聞き返されてもアレックスはすぐに言葉を追加しなかった。芝生の上で自分たちと同じように座ったり寝そべったりしてくつろいでいる人々を見ていた。
「夢魔は死なないって、知っている?」
「あ。うんまあ」
「人を夢に捕らえて夢魔はその心を食い漁る。その人が衰弱死してしまうまでね。死んだ後は居場所がなくなるから奴らもいなくなる。わたし達ナイトウォッチができるのは、死ぬ前に奴等を追い出すことだけ。とりあえず一端目が覚めれば夢魔の支配下からは逃れられるけど、別に奴等を倒せたわけじゃない」
「追い出すだけで倒す事はできないんだな」
ジャックはチョコミントアイスを舐めた。アレックスも話しながらせっせとストロベリー味を食べている。アイスクリームなんていくらでも食べたことがあるのに、なぜか昼間の公園の光の中で食べると信じられないくらい美味しい。
「でも武器は夢魔を倒せる」
「なんだその武器って」
「昔からのナイトウォッチ名門には大体あるみたいけど、各家が秘密主義だからお互いの状況はわかっていない」
「ロックハートにもあるのか」
「一応。でも武器には武器の言い分があると思う。力のないナイトウォッチには仕えたくないと思うのよ」
そこでジャックはふいに表情から笑みを薄くする。心配そうに眉を寄せた。
「アレックス。そんなに気を使わなくていいし、恐れることもないんだぜ。他人なんて」
「え?」
突然の言葉にアレックスは首を傾げた。
「武器…物の気持ちまで考えてしまうんじゃ厳しいだろう」
「厳しいって?」
「他人の気持ちを推し量ってばかりいるように見えるよ」
「こんななのに?」
「相手が何を考えているか気になるから、そうしているんだろう?奇行に走れば『あの子はああいう子だから』って思ってもらっているって自分でわかる、わかれば安心。そこで終わりだ、うっかり深いところまで見破らなくて済む。外に出ないのも出なければ他人と会わなくて良いから。会わなければ存在していないのと同じだって考えているんじゃないのか?アレックスは他人が怖いんだな」
ジャックの指摘にアレックスは思わずアイスクリームを取り落としそうになった。仕事として派遣されアレックスの言動に呆れているとばかり思っていたジャックがいつのまにこんなに観察していたのかと思う。
ああ、確かにそうだ。怖いものは怖いのだ。
アレックスはうまくその不安を振り払うこともできない。
あの事件のあと、家族の誰もがアレックスを心配して励ましてくれた。『君は嫌われるような人間じゃない』『誰もあなたを憎んでいない』『我々は皆、君を愛しているよ』。
でも、そんなの違う。だって実際に憎まれていた。
どうしてもその考えが抜けない。
だから回復しても人と会うことが嫌だった。誰かと知り合うことを恐れた。うちのなかでロボだけを相手にして。
だからジャックの言葉も。
「そんなに心配しなくても大丈夫だ。人は基本的に他人に無関心だよ」
ジャックのどんな優しい言葉も自分には届かないだろう、そう思ったけど、彼のその言葉は予想外だった。言葉は優しくない、でも声は優しい。
「無関心?」
「そう」
ジャックは大真面目だった。最後に残ったアイスのコーンをがりがりと食べてからアレックスをそのカラメルシロップのような茶色の目で見た。
「皆それほど人のことなんて見ていないさ」
「でも」
「そうだな、アレックスは見られているかもしれないな。ロックハート財閥のお嬢様だから。一度も話したことのない人からだって妬まれるだろう。一見親しげな人だって君を利用することしか考えていないかもしれない。かわいそうに」
「だったら……」
「でもな、その人を本当に憎むためにはその人を知らなければならない。言い換えれば自分をろくに知らない人間からの憎しみなんて大したことないのさ。そういう意味では大方の人間は他人に無関心だ。誰かのことを強く思うのは愛であれ憎しみであれとてもパワーがいることだからな。だからそう簡単に本当に憎まれたりしない。アレックスじゃなくてロックハート財閥という漠然としたものが妬まれて憎まれているだけだ。それは知っていたほうがいい」
ジャックは注意深く言葉を選んでいるようだが、言い方はあっけらかんとしていた。彼の言葉を聞いていると今まで漠然と感じていたことを理解できるようになる。
そしてジャック・ドネリーはすごくいい人だ。
「……もしかしたら叔父さんは今はアレックスを憎んでいるかもしれないけど、そこに至るまでにあった愛情はきっと本物だ。そっちを信じてみるのも悪くないと思う」
ジャックの言葉に次に何を言ったらいいのかわからず、アレックスはうつむいて、冷たいアイスを一口食べる。別にジャックもアレックスの返事を求めているわけでもないようだ。今度は彼がぼんやりと公園の人々を見ていた。
「……よくわからない」
「わからなくていいよ。すぐに理解されても年上の立場がない」
「でも一つわかるのは、人は基本的に、他者を嫌うより好きになりたいんだってことだわ」
ジャックは少しだけ怪訝そうな顔をした。
「一体お前の頭の中では今どんな結びつきがあったんだ?」
ジャックの誠実さを好ましく思ったなどと恥ずかしくて言えないので黙っているしかない。しかしジャックは彼なりに答えを導いたようだった。
「……まあそうだな。信頼のない生活はきつい」
武器の話の続きをジャックにならしても良いような気がした。でもよく考えてみればジャックにそれを説明するためにはとても長い時間が要る。今はミランダの事件のことで手一杯だ。
また今度にしようと思い直した。
と、ふいに太陽の光が遮られた。ジャックとそろって顔をあげる。そこには杖を突いた老人が一人立っていた。
ぎょっと目を見開いたのはジャックのほうだ。アレックスには彼が誰なのかわからない。
「誰?」
アレックスは聞きかえす。ジャックは先日彼と顔を合わせてその身分を知っているがアレックスは初対面だ。
「ディクソン前総監?」
ジャックの言葉でようやく見当がついた。中央捜査局の人間だ。しかしなぜここにいるのかの理由にはならない。
「中央捜査局の先代総監?五十年くらいその地位にいて、中央捜査局を立て直したっていう」
「よく知っているね。君が幼い頃には私は引退したんだよ」
「母国の歴史だもの」
アレックスはこともなげに答える。おそらく今まで漠然としか感じ取っていなかったのであろうジャックが感心したような顔で見ている。
人が何を考えて何を願っていたか、それに時代の空気は大きく作用する。だからアレックスもセレベラの歴史、特にまだ存命の者が多い近代史は良く学んでいた。
アレックスは、わたしは結構努力家なんだけどなあ、と近いうちにジャックに言うことにした。とりあえずはこのディクソンが声をかけてきた理由だ。
「どうぞよろしければお座りになって。芝生で申し訳ないけど」
「では失礼するよ」
ディクソンはにこやかにアレックスの横に座った。不自由そうに足を抱える。
「気がつかなくてごめんなさい。足が悪いのなら椅子を探してくればよかったわ」
「いや、悪いのどちらかといえば、足より心臓のほうでね。大丈夫、短時間で済む用事だからおかまいなく」
アレックスの向こうからジャックは不安そうにディクソンを覗く。ディクソンが声をかけてきた理由などアレックスの知るところではないが、どうやらジャックにとっても青天の霹靂らしい。
「ケイトから君の話を聞いていたよ」
アレックスとジャックの困惑などまるで無視して懐かしそうにディクソンは言った。
「祖母とお知り合いでしたか」
「中央捜査局に協力いただいたことが何度かあってね。ロックハート家のナイトウォッチは優秀だ。でも彼女の子供にも孫にもナイトウォッチは生まれなかったね。君が生まれるまでは」
「でもわたしは祖母から教えを受けられた時間は少ないのです」
「ケイトは君を自慢していたよ」
アレックスは目を伏せた。照れくさいというよりディクソンを警戒する。こうやって急に褒めてくる人間をアレックスはまずは用心している。たぶんアレックスだけでなくロックハート一族は皆そうだろう。でもケイトとダリルだけは、そうじゃなかった。与えられる好意を好意と素直に受け止められる人だった。
「ケイトが自慢するくらいだから君を信頼する。だからお願いがある。私をミランダの夢に連れて行って欲しいんだ」
アレックスの用心など吹き飛ぶほどそれは予想もしない言葉だった。だが、間抜けな声をあげる前にアレックスは考えようとする。彼がそういうには必ず理由があるはずだ。え、といっているジャックをほったらかしてアレックスがディクソンを見つめた。
「……あまりおすすめしません。夢に潜行するのもそれに使う睡眠薬も、弱った心臓にどう悪影響があるのかわかりませんから」
とりあえず脅してみる。ただのからかいならここで引くだろう。引かないのなら、狙いはアレックスかミランダ。悪意か善意かはこの次の段階。
「もう老い先も短いから、寿命のことを言われてもあまりぴんとこないな」
ディクソンは笑った。
「それより心残りのほうが気になる」
「心残り?」
しかしディクソンはにこにこしたままそれを語ろうとしない。アレックスの言葉を待っているのだ。
「ミランダの過去の手がかりを手に入れたと伺いましたよ」
「ジャック!」
アレックスは振り返って怒鳴った。
「中央捜査局にばらしたわね!」
「あれだけ捜査局の車にダメージ与えておいて、事情を話さないわけにいかないだろう」
「わたしに言えば黙って車くらい直して……買いなおしてあげたのに!高いやつ!」
「ははは、それは損したなあ」
ジャックはあまり悪びれた様子もなく肩をすくめる。アレックスに振り回され放題のジャックだが、一応社会人で公僕で捜査官なのだ。上司に報告くらいする。
「ミランダの日記をご覧になりましたでしょう。でもわかりませんか?」
謎掛けのようにディクソンは問いかけてくる。アレックスはすでに読み終えたミランダの日記の本当の最古の一冊のことを思い返す。
確かに今までの一冊とは確実に趣の違う日記。
……ああ。
アレックスは目を見開く。
だとしたら、この人はもしかして。