06
その日以降、ジャックに見張られて無茶な作業が出来なかった。仕方なくお嬢様よろしく夜には早々とベッドに潜り込んでいる。
規則正しい生活をしていたらあっという間に数日が過ぎてしまった。
今日も書斎で積み上げられた書類に埋もれている。その脇にはさらに書類がぎっしり詰まった木箱がいくつも並べられている。中央捜査局が手に入れたミランダ・エイムズの資料である。中央捜査局にクーパーを告発する時に彼女が自ら提出したものも多い。そのあと中央捜査局がクーパーのアジトから徴収したものが増えた。最終的にジャックがアレックスの屋敷に持ち込んだものだ。
会計帳簿、収支決算書、資産台帳、それぞれの裏と表。パーティの招待客リストなどというものもあり、場合によってはクリーンなイメージの著名人が冷や汗を掻くことになりそうだった。アレックスはあまりそういったものには興味を持たなかった。ただ、吸い寄せられるように見いっているのはミランダの日記だ。
ミランダは随分几帳面な人間だったようで、極めて事務的な記載ではあったが詳細にその非あったことが記されている。それも何十年もわたってだ。もちろん仕事……特に麻薬にまつわるような記載は全くないが、その分彼女の私生活が垣間見えた。
『当たり年のワインの手配。ピーターとアンナの結婚記念日に花束を添え送る』
『ドーベルマンの子犬を見にいく。半年後番犬として購入予定。クーパーにプレゼント』
『冬物の毛皮のコートを外商に伝える。一週間後来訪のとのこと』
『庭師の葬儀の知らせ。行けないがメッセージを送る』
『ジムの母親の見舞い。見舞金を渡す』
こまごまとした日常の些細なこと。
しかしそこから見えるものは、ミランダの周囲に対する気遣いだった。彼女の両親はもう亡く、自分の血縁では身内らしい身内がいない。だからこそなのか、彼女はサイモンの身内だけでなく使用人や、組織の幹部から末端に至るまで彼らの家族も含めて、あらゆる人間に気を配っていた。サイモンも、彼女については守らねばならない妻というよりは頼りになるパートナーとして見ていたような節がある。その理由がこのあたりなのかとも思われた。
誰だって大事にしてくれる人間には弱いものだ。
アレックスは祖母の顔を思い出していた。ロックハートの中で唯一肩身が狭いアレックスも彼女は大事にしてくれた。祖母ケイトに恥をかかせてはいけないなとアレックスは考えていた。
彼女は「あの事件」に関して、アレックスを甘やかすということはあまり無かったが傷つける事はなかった。内にこもったアレックスにも普通のほかの人間と変わる事無く相対してくれた。愛してくれているけどアレックスをどう扱ったいいのかわからない家族達とも、気を使っているようで実はわずらわしいと感じて距離を置いている者ともあからさまに非難する者とも、やたらな猫なで声でべたべたしてくる者とも誰ともちがった。
祖母ケイトがいない今、アレックスは本当に一人だ。ロボは親しいけど違う。なぜなら。
「ああ、ぼんやりしすぎちゃった」
アレックスは開いた日記に再び視線を落とした。日記の量は膨大だ。一年でほぼ一冊、木箱に詰められているのも数えれば、全部で五十冊近くある。
「……ということは?」
アレックスはふいに開いた本をそのままテーブルに置いた。立ち上がって木箱に向かう。変な姿勢でソファに座っていたので、足が痺れてよろめいた。
「アレックス様」
気配も無く支えたのは、ロボだった。彼の白い手袋がアレックスの肩と腰を抑えて転倒を防いだ。そのままそっと床に下ろす。
「ロボ、いたんだ」
「レモネードをお持ちしました」
ロボはデスクとは別にあるテーブルの上を指し示した。涼しげなガラスのピッチャーの中に薄切りレモンと氷が浮かんでいた。ピッチャーは薄く曇って中身の冷たさを予感させていた。ロボの作るレモネードの甘さと冷たさと酸っぱさのバランスはケイト直伝だ。
「ありがとう」
「少し休憩なさったほうがよろしいかと」
「大丈夫」
アレックスはああそうだと思い出したように木箱の前にしゃがみこんだ。そしてミランダの日記を次々と最初の一ページ目だけ開けていく。
アレックスは今までミランダがあまり若い頃の日記には今まで興味を抱いていなかった。先に目を通した中央捜査局も同様で、彼女が組織の中で台頭してきた以降については多くのページにしおりが挟み込んであり、クーパーと組織を告発する際の資料とする中央管理局の熱意が感じられる。しかし若い頃の日記は……特にサイモンと出会う前は読まれたかどうかも怪しいものだった。
「どうかなさいましたか?」
ロボの言葉にも答えず彼女は横に日記を積んでいく。やがて最後の一冊を開き、アレックスは納得したように呟く。
「これ以上前はないんだわ」
「日記ですか?」
そこでアレックスはロボを見上げた。日記帳はそれぞれ少しづつ装丁はちがっているが、大体同じ大きさと厚みで出来ていて、彼女の美意識の揺らぎの無さが感じとれた。
「これがここにある一番古い一冊」
「それはいつからでしょう」
「ミランダが一人になってから。彼女が両親と暮らしていた頃のものは一つもないの」
「ご両親が亡くなられて、その借金の整理で忙しかったからではありませんか?」
「これだけ詳細に語っている人が?」
「ではそれ以前は記入の習慣がなかったのでは」
「まあそう思うのが早いのだけど」
しかしアレックスは古い日記帳を再び開く。
「……書き方に迷いが無いのよね」
日記帳ではあるが、それは日記帳としてデザインされたわけではなくただ白紙のページだ。初めてそんな白紙と向き合えば最初は書き方に迷いや訂正が生まれるだろう。最初のページと最後のページでは書き方の様式や字の大きさがちがっているのが普通だが、その日記帳にはそういった揺らぎが無かった。
「もうずっと同じように書き続けていて、慣れ親しんだ体裁がある人の日記みたい……」
その中身の最初のページから目を通し始めてアレックスはようやく一点だけ奇妙なものを見つけた。最古の日記はミランダが二十歳のころのものだ。しかし最初の一日だけは雑事が書かれていない。いや、雑事なのかも知れないがいままでのものとはちがってまるで散文だった。
『人より偉大に時を数える二人、その夕刻を見つめるものに、少女の私を託す』
一度、目で追い、それからアレックスは口に出す。ささやかな呟きだった。
「……なんでしょう」
ロボも首を傾げた。
「わからないわ」
「では御休憩を」
あー、アレックスは大きく背を伸ばした。
「今日わたしがこの部屋で日記や資料を読み始めてからどのくらい立つのかしら」
「五時間十八分というところですね」
ロボは胸ポケットから銀無垢の時計を出して答えた。いつもと変わらない淡々とした彼に比べ、アレックスは自分のことであるがぎょっとした顔を浮かべた。
「……わたし寝ていた?」
「いいえ、熱中なさってました」
「そう。これくらいならもっとさっさと読めると思ったけど」
「人の心はそう簡単には読みきれません。ナイトウォッチでも同じことです。ケイト様からうかがった話でしたが、場合によってはナイトウォッチが十人二十人で対応し、準備に百人が取り組んだ巨大な仕事もあったらしいですよ」
「すごいわねえ。一体どれくらい強い夢魔だったのかしら」
「そちらではなく、準備の話のほうに興味を持っていただけると幸いです。あまり無理をしても限界があります。一端休憩されて、そのままちょっと何か召し上がって、ついでにシャワーを浴びて丸一日くらいお休みなってください」
アレックスは胡乱なものを見る目で彼を眺めた。
「なんでそうやって邪魔をしようとするの?」
「人間は食べて寝ないと体を壊すからです。いくらアレックス様がこれまでずっと暇さえあれば寝ていたとしても残念ながら寝貯めは出来ません。先日、ジャック・ドネリー捜査官は怒りまくっていましたが結果的には大変良いことをなさいました。アレックス様に食事と睡眠と清潔をあたえたわけですから」
ロボはそのはっとするような端正な顔に笑顔を浮かべた。アレックスはしまったと一歩引こうとする。ロボが笑っているときは、大体何かに不機嫌な時だ。
「御理解いただけましたらレモネードをどうぞ」
ひょいと首根っこをつかまれた。そのまま持上げられてしまうのではないかと思うくらいの馬鹿力だ。
「アレックス様の邪魔をするのもいかがなものかと、全身全霊で見守っていましたがちょっと限界です。ドネリー捜査官を私も見習うことにしました」
「わかった。とりあえずレモネードを飲みながら見るからミランダの日記を一冊」
「いけません。目が悪くなりますよ。外の美しい景色をご覧ください。たまには遠くを見るものです」
ロボはずるずるとアレックスを引っ張ってテーブルまで連れて行く。ゆったりとしたソファに座らされて、アレックスはしかたなく注いでくれたレモネードに集中した。
「いかがでしょう、今は庭の花も盛り。たまには庭師にも声をかけてあげてください」
「でも会わないから」
「声をかけてくれるのも待っておられるのなら、無駄ですよ。アレックス様はこの屋敷の主人。仕えるものが自ら話しかけることはありません」
「ロボはべらべら話しかけてくるじゃない」
「私はちょっと別ですので」
涼しい顔でロボはグラスをアレックスに差し出す。ストローに口をつけた瞬間、自分の渇きが急に思い出された。そういえば水だって殆ど飲んでいなかった。
「おいしい。……そういえばジャックは?」
「いるよ」
入り口にジャックが立っていた。なぜか手に皿を携えている。トマトとガーリックの香りがした。
「どうしたの?」
「俺もここでさっきまで自分のデスクワークをしていたんだが、まったく気がついていなかった」
「……そのようね。悪口を言わなくてよかった」
ジャックは書斎に入ってきた。そのままアレックスの前にその皿を載せる。それは幾種類の野菜をトマトソースで煮込んだものだった。
「食え。なんでこの屋敷は料理人がいないんだ?」
「アレックス様がろくなものを召し上がらないので、いても無駄かと。前任者が老齢で退職した後、雇いなおしていません」
「……いや、一番に雇ったほうがいいだろう」
アレックスは顔を上げた。皿を指差す。
「これは?」
「俺が作った」
その返事にはアレックスは驚愕という表情を隠さない。
「食事って普通の人が作れるものなの?」
「お粗末で恐縮ですが作れますよ、お嬢様」
皮肉満載のジャックの言葉にロボも頷く。
「私も驚きましたが、先ほど自分で材料を買って来て作っていました。ちゃんと監視しましたし毒見もしましたから大丈夫ですよ」
「お前、人聞きが悪すぎるぞ」
ロボの言い草にあきれた様子だったが、ジャックはほれ食えとアレックスを促す。
申し送れましたが、わたし、トマトが大嫌い。後ここに入っているキャベツ、ごめん火が通っているのは無理。にんじんとブロッコリーは食べられるものとして認識していないの。それとわたしが食べられるチキンは揚げてある奴だけ。
と、いつもどおりの言葉が何故か言えなかった。
なぜ言えないのかよくわからないが言えない。いやちょっとよく考えよう。自分の心理も把握できずどうして他人の夢を理解できよう。でも見ている、ジャックが食べるまで許さないとばかりに超見ている。のんびり考えている場合じゃない。
アレックスはそこまで考えておそるおそるスプーンを手にした。とりあえず食べてから考えよう。自分も大人になったから吐き出す事はあるまい。
そろっと一口すくって食べる。
「……あれ?」
アレックスは目を瞬かせた。
「なんか美味しい」
「当たり前だ」
ジャックは胸を張った。
「激務の中央捜査官はきちんとしたメシなんていつ食べられるかわからないからな。まとめて作って保存してあるんだ。就職して何回これをつくったかわからん。それなりに上手にもなる。これだけだがな」
アレックスは昔から嫌いだったものがさほど抵抗無く口に入っていくことに驚いていた。そうか自分も気がつかないうちに少しずつ変わっていたのかもしれない。
この屋敷だけでなく、もっと外に出ようといつしか願っていたように。
人は変わるのだということに今更ながら思い当たる。そしてそれはまた別の考えに行き当たった。自分が変わるのなら。
ミランダ・エイムズも麻薬王の妻になる以前には別の姿があったのでは?
そのことに思い至った時、ミランダの古い日記に記されていた走り書きの意図が読めたような気がした。
「ああ、俺はまた中央捜査局に行って来る。報告書を出すだけだからそれほど時間はかからないが」
思い付きを言おうとした時、ちょうどジャックがそんなことを言い始めた。一拍考えることになってアレックスは思いつきを語ることをやめた。もしかしたら外れているかもしれない。それなら自分で確認してからのほうが良いだろうと考えたのは、気遣いではなくて、結局小さいプライド保持のためだったのだが。
ジャックが出かけてからアレックスはしばらく調べ物の続きをしていた。古い地図と新しい地図を長く見比べていた。
一時間ほどして答えを見つけると今度は自室に向かった。最近は書斎にこもっているので寝に戻っているだけだ。
さてこれまた久しぶりの外出だ。今着ているワンピースでは少しばかり動きにくい。
前に出かけたのは去年。十六歳の誕生日パーティのためで押しかけた姉たちによって飾り立てられた。アレックスは呆然としていただけだ。今日は自分で出かける仕度をしなければならない。
アレックスは自分のクロゼットを開けた。
「……服が入っている」
当然のことを呟くが実はアレックスにとっては当然ではない。彼女は服を買った事はないからだ。ここにあるものは母や姉達が購入して置いていっているものである。彼女達もアレックスが変わり者という事は重々承知しているが、アレックスはやはり家族の一人であり、かまいたい存在であるようだ。だからこうやって気を使う。当のアレックスは、輸入の繊細なレースを使ったブラウスもシルクサテンの華やかなドレスも流行のAラインワンピースも、ぽかんとした目で見ているだけなのだが。
才能ある子女に恵まれたロックハート家の一員に相応しく、アレックスもある種の才能には恵まれているし愚か者ではない。しかし才能の偏りが甚だしい。ナイトウォッチとしての技能に特化しすぎてしまったようなアレックスはあまりにも他に対して無関心だ。
「……えーと」
アレックスはきらきらまぶしいクロゼットを難問の載った教科書を閉じる学生のような顔で閉めた。それから部屋をでて使用人の休憩室に向かう。
アレックスと話すのはロボだけとはいえ、この広い屋敷を維持するには人手がいる。ケイトが亡くなってからその数はだいぶ減ったが彼らのお仕着せは残っているはずだ。
十分後、アレックスはかなり太めだった庭師のコットンパンツをベルトで締めて、更にカーキ色をした厚いキャンバス地のジャケットを羽織ってきた。肩には麻の袋をかけ、頭にはご丁寧に麦わらまで被っている。そうしているとアレックスの女性らしい体はすっかり隠されて、小柄な少年のように見えた。
そのまま、庭に出てまっすぐ庭を横切っていく。パンツの右ポケットには数枚のお札、左ポケットにはちゃらちゃら鳴る小銭を放り込んで彼女はあまりにも気楽な調子で、人生初めて単独で外に出かけたのだった。
気負いや緊張が無いのかといえば嘘になるがナイトウォッチとしてのこと以外はわりとどうでも良くなってしまうアレックスにとって、出かけようと決めたのならそれに対する特別な思いはないのだ。見知らぬ人と話すのが苦手なだけで、誰とも話さなければ外に出来る事は怖くない。
きっと特別な思いがあるだろう。
そう思っていたのは家族のほうだ。アレックスが外に出かける時にはロボに相談するに違いない。ロボはことアレックスに関しては心配性だから着る服を選んで車を用意して、人が怖いだろうから警護の人間もつけなければならないと考える。そうなればロックハート家にこの屋敷の動きは伝わる。
アレックスが外に出る時はわかるだろう。
なんて思っていた彼らの予想は大きく外れたのだった。外に出たいから出るのよ、とあまり葛藤も無くアレックスは屋敷の門に向かい、門が閉ざされているのを見て首をかしげた。しかし横の通用門が小さく開いていた。そっと押すと細い金属棒で出来た扉はすこし軋んでゆるやかに開いた。
お金も持った。道順も覚えた。本も読んでバスというものがあることも知っている。バスの路線も頭にはいっている。
じゃ、でかけよう。
アレックスの不在にロボが気がつくのは一時間後になる。
□□□
『七月三日
ああ、言葉にならない。手が震えて文字がとても歪んでしまう。でもそれくらい今日は嬉しいことがあった。今も胸がどきどきしていて耳が熱い。ヘンリーも私を好きだと言ってくれた。夢みたい。本当に夢だったらどうしよう。今日雨上がりに虹がでて、二人で二本のケヤキの木のそばまで歩いていった。虹は本当に綺麗な半円を描いていたわ。二人で手を繋いでいたら、ヘンリーが顔を真っ赤にして言うの。あの弁舌の立つヘンリーが、うまく口も回らなくてなんども言い間違えながら、顔を真っ赤にして、聞き取れないほど小さな声で私を好きだと言ったのよ!遠くに行くから約束はまだできないけど、いっぱい手紙を書くと言ってくれた。留学から戻ってくるまで五年以上有るけど、戻ってきたらこの屋敷にやってくるって。もしその時も気持ちが変わっていなかったらきちんと交際を申し込むからって。ああ、今言ってくれればいいのに。でも嬉しい』
□□□
アレックスがたどり着いたのは、比較的新しく出来た高級住宅街だ。丘になったその地域は、もとはミランダの生家の持ち物だったがとうに売却され便乗されている。裕福になったミランダが買い戻そうという事は考えたようだが、そのときにはもうとてもそんなことが可能な地所ではなくなっていた。
今もひろびろとした敷地に、豪華な屋敷が立ち並び、町を見下ろしている。
『人より偉大に時を数える二人、その夕刻を見つめるものに、少女の私を託す』
もしかしたら彼女はかつて自分の家があった場所に古い日記を隠したのでは無いかと思い当たった。
ケイトがナイトウォッチだったこととロックハート家が名家であったことが幸いした。首都の地図が、建国直後くらいから概ねそろっていたのだ。そうでもなければ五十年前の地図を手に入れる事は骨が折れただろう。
それにしても。
アレックスは最寄りのバス停からたどり着いたものに、その住宅地に正攻法ではいるのはなかなか大変そうだった。一本しかない道路には警備が立ち車の出入りを見張っている。
「ワンピースなんて着てこなくて良かった」
アレックスは独り言をもらした。そのまま迷うことなく門の前を通り過ぎる。警備の男が一瞬だけアレックスに視線をむけたが、歩み去ってしまうアレックスに興味を失ったようだった。アレックスは延々と歩き、人の目が届かないところまで来ると、雑草だらけの傾斜をそのまま昇り始めた。景観を維持するために木が多く植えてあるということも彼女の姿を隠すことに役にたった。
アレックスは頭の中に入っている地図を眺めて考える。ミランダの生家の土地だったがすでに彼女の家はおろか、当時のまま残っているものはなにもない。道路一つとってもすべて作り直されているのだ。
ただ、頭の中で五十年前の地図と今の地図を重ね合わせる。ぼんやりしているようでアレックスの記憶力も馬鹿にしたものではない。ただ興味を持ったものでないと発揮されないので、自宅のクロゼットは混乱の原因でしかないのだが。
ただ問題は。
その屋敷の敷地が今は武器商人の住まいになっているということだ。
「やっぱり番犬とかいるのかしら」
そんなふうに呟きつつ茂みを抜けて丘を登りきり、道路を横切ってまた潅木の中を走るアレックスには迷いが無い。
日記を手に入れなくちゃ。
それしか頭にないからだ。
おそらく人を使うロックハート家にとってはあまり望ましくない性格だろう。誰かに命じて何かさせ、首尾よく行けば褒めて、だめなら叱咤する。それがロックハート家のありようであり、人を使えて当たり前なのだ。
絶対少女時代の日記があるはず!そうか、生家に隠したのかも。じゃあ取りに行こう!という野生の行動原理で動くアレックスは特殊である。せめてロボに言ってから行けばいいのに、脊髄反射で動いているので言い忘れている。
年の離れた末っ子というのも良くないのだろう。別に卑下するわけでもなく自然に「わたしがいなくなっても代わりがいるし」と自己への執着が薄い。ケイトが今まで守っていたがその庇護はもう無く、ロボが一人で対応しなければならない。
「あれは」
塀の向こうに突き出るようにして高く伸びているケヤキが見えた。当時から立派であったであろう、二本のケヤキ。現在の住人ももったいなくて切り倒さないでいたようだ。
本当に、木の寿命というものは人間の人生からは考えられないほどに長い。
あの間に日記が埋まっている可能性が高い。しかし塀に隠れて見えない部分には現在の持ち主の屋敷があり、いろいろ不審者に対して備えているはずだ。
アレックスは残してきたロボのこともすっかり頭から抜けている。
「大きなシャベル持ってくればよかった」
なんてことをのんきに考えていた。