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05

 中央捜査局本部は首都のほぼ中心にある立派なレンガ造りの建物だ。三十年前に作られ当時は大変モダンな建物だったらしい。月日がすぎて多少不便な部分はあるが今もその偉大さは変わらない。

 ガラスの回転扉を押して入ると、その一瞬で喧騒が飛び込んできた。人の話し声の大きなもの小さなもの、電話の音、下品な言葉を怒鳴っているのは捕縛された犯罪容疑者か。背広を肩にかけて駆け出していく捜査官とすれ違うがそれも馴染んだ光景だった。


「おいドネリー」

 三階まで上がり、自分の席に向かう途中で同僚数人に声をかけられた。

「どうだ、ロックハートのお嬢様は」


 どうもなにも、である。


 からかっている様子を隠す様子もなく同僚達はにやにや笑っていた。椅子に座っているというのにわざわざ背をそらして振り返り面白がって言うやつまで居る。

「もしかしたら来年にはドネリー捜査官はいないかもしれないな。玉の輿ってやつで」

「馬鹿。それは女だろ。女のほうが金持ちの場合はなんていうんだ?」

「まあどうでもいいさ。そうなったら一杯奢れよ?」

 連中に悪意がない事は充分知っているから腹は立たないが、なんだかどっと疲れが出てきた。

 俺の代わりに行くか?と言いたくもなってくる。


「しかし恐ろしいほどの美人だもんな。うかつに手を出すな?消されるぞ」

「そしたら俺達が犯人挙げてやるよ。真犯人は無理でも実行犯くらいならなんとかな」

 アレクサンドラ・ロックハートが美人なことは、皆写真を見ているので知っている。だからそんなふうにから買ってくるが余計なお世話である。そういう問題ではない。少なくとも一週間は同じ服を着ていそうな女に恋愛感情はもてない。


「ジャック・ドネリー!」

 直属の上司を差し置いて、遠くで部長が呼んでいる。同僚は気の毒そうに肩をすくめるとそっとジャックから離れる。

 どれほどアレクサンドラが美しく資産を持っていると知っていても、皆厄介ごとに関しては鼻が利くのだ。さすが捜査官。ロックハートには関わりたくないという野生のカンが鋭い奴等ばかりだ。逃げ損ねたジャックがのろまなのである。もしかしたら野心家の人間もいて、本心からジャックの仕事を代わりたいと思っているかもしれないが、まあそういうやつはなおさらアレクサンドラ・ロックハートを見たら逃げ出すだろう。


 あれは普通のお嬢様でもないし、普通の女でもない。

 当人が聞かれたら、ではわたしは何に分類されるのかと楽しそうに追及されそうなことをジャックは考えつつ部長のデスクに向かった。しかしそれも通過点でしかない。部長はなんと副総監のところに行けと示したのだ。その時点ですでにうんざりしながらジャックは今度は四階に向かった。ロックハート家でも小突き回され、ここでも小突き回されている。


 副総監室の立派な扉の前で一瞬立ち尽くす。入局の時に一度来たきりで近寄ったことも無い。扉を叩いて足を踏み入れるとまだ先に扉があって、秘書が受付でタイプを打っていた。ジャックの姿に気が付き顔を上げる。

「ドネリー捜査官?」


 彼が頷くと美しくマニキュアが塗られた手で彼女はインターホンを取り上げた。豊かな胸の谷間がシャツの隙間からちらりと見える。優秀そうだが顔立ちには温かみを感じる美人だ。副総監までいけばこんな美人の……そうどこから見てもきちんと正常そうな美人をつけてもらえるのだなと感心してしまう。わが身の現状は情けないので振り返らない。インターホンを切った彼女は先の扉を手の平で差し示した。


「中にどうぞ」

 軽く頭を下げてジャックは今度こそ副総監の部屋に入る。

副総監は立派な体躯をした初老の男性だ。頭髪は薄く腹も出始めているがジャックも無条件に緊張させられるような威厳があった。

「ジャック・ドネリー捜査官です」

 背筋を伸ばして立ち、なるべく疲れて見えないようにはっきりとした声で名乗った。

「ま、楽に」

 副総監に言われてソファに座らされる。あまり長居はしたくないなと思ったジャックは副総監と一緒にいる男性に気がついた。


 七十歳にはなろうかと思われる、細身の老人だった。真っ白な豊かな髪を丁寧に整えていた。彼も副総監と並んでジャックの前に座った。正面から見てみればそれは確かに見覚えのある顔で。

「先代総監!?」

 ジャックが入局する前に退いてしまったので彼の顔は写真でしか見たことが無い。しかしそれでも心当たりが会ったのはひとえに彼が有名人だからだ。たしかディクソン総監。


「今はもうただのディクソンという名の年寄りです」

 すでに好々爺の顔で彼は言う。政府の小さな部門に過ぎなかった中央捜査局を、粛清に近いほど厳しい規律で正し、国民の尊敬を集めるまでにした先代総監は今は穏やかに笑うだけだ。ただ、その顔色はあまりよくなかった。


「いえ、まさかそんな」

 うまいことも言えずジャックは黙った。

「先代総監が話を聞きたいそうだ」

「話、ですか?」

「ああ、ミランダ・エイムズのことなんだ。君が中心となって捜査に当たっていると聞いた」

 誰がそんなことを!とジャックが叫びそうになる。自分はただ使いとしてロックハート家に行っただけだ。ナイトウォッチ課ではない。


「彼女は夢魔に囚われたらしいが」

 しかし偉い人々はあまりこだわってくれず話を続けた。

「あ、はい。まったくもって我々の不手際で」

「責めてなどいませんよ。夢魔は手際がよければ防げるというものでもない。クーパー一味に殺されたわけでもありませんし」

「ああ、そうですね。そちらの心配もしていますが今のところとくに動きは無いようです」

「そういうときにこそ用心が必要ですよ」

 ディクソン先代総監は用意されていたコーヒーを飲んだ。


「それで、ロックハート家に依頼すると聞きましたが」

「ええまあ」

 そこまで話しているのかよ?!と思ったが、まさか副総監に文句を言うこともできずジャックは頷いた。

「ミランダは救えそうですか?」

「すでにこちらのナイトウォッチが二人、彼女の夢魔に囚われています。もしかしたら犠牲者は出るかもしれません。しかし彼女は証言のためになんとしても救います」

 先代総監は頷く。なぜかすこし寂しそうに見えた。


「人の夢に入るという事は我々が想像する以上に大変なことなのでしょうね。ケイト・ロックハートにはあったことがありますよ」

「どのような方でしたか?」

 アレクサンドラの祖母もまたアレクサンドラと似たような変人なのかと思って聞けば、意外な返事だった。

「素晴らしい女性でしたよ。美しくて優しくて優秀で」

「……そ、そうですか」

 だめだ、自分の想像力は限界だ。アレクサンドラの祖母が普通だなんて。ジャックが混乱している間にディクソンはしみじみと懐かしむようにさらに言葉を足した。


「ケイト・ロックハートが生きていればもっと気が楽でしたでしょうね」

 そして先代総監は立ち上がった。

「すこし話を聞きたかったので君の帰りを待っていたんだ。行き会えて良かった。そろそろ行かなければ」

「お待たせして申し訳ありませんでした」

 副総監がディクソンが立ち上がろうとするのを手助けした。もしかしたらどこか悪いのかなと気がついたジャックに彼は穏やかに微笑んだ。

「最近すこし調子が悪いんです。今日もこれから病院で検査でね」

「どうぞお大事にしてください」

 先代総監ではなく、一人の人間として彼をねぎらった。



□□□

『六月二十一日

 今日はヘンリーに旧本国に留学するということについていろいろ話を聞かせてもらった。彼は向こうでしっかり勉強してこちらに戻ってきたら何か人のために尽くしたいと考えてる。私は女だからまさかそんな人生は選べないけど、いろいろなことを学べるのもそれを誰かのために役立てたいと願うヘンリーも素晴らしいと思うわ。彼が帰ってきたときに力になれればいいのだけど。でもヘンリーは向こうで素敵な人を見つけてしまうかもしれないわね。仕方のないことだけど、とても胸が苦しい』

□□□



 ロックハート屋敷に再び戻れたのは予想よりかなり遅れていた。丸二日以上過ぎた夕刻、ジャックはようやく残した仕事を終えて屋敷に帰ってくることが出来た。

 しかし出迎えたのはロボだけだ。

「食事になさいますか」

 と礼儀正しく聞いてくる。その丁寧さがなんだか怖い。どう考えても値踏みされているのは間違いないだろう。ジャックは早口にそして端的に答えた。


「アレクサンドラ・ロックハートは?」

「二階の書斎です」

「あーそうか、資料読んでいるのか」

 一昨日の先代総監の話をなんとなく思い出した。アレクサンドラ・ロックハートの祖母ケイトの昔話。彼女が家族と暮らしていない理由はもしかしたらそのあたりにあるのだろうかと考える。そうなるとアレクサンドラにどういう顔をして接したら良いのか、そんなふうに善良に『若い女の子』を気遣っていたジャックはまだ彼女を甘く見ていたというべきだろう。


 ジャックは書斎の開け放たれた扉の中を覗き込んだ。

 部屋の中には大きな窓が幾つもあって快適な書斎のはずだが、なぜか薄暗い印象を持った。天井に届くほどの高さをもつ書棚と、そこにぎっしり詰め込まれた書籍のせいだろう。書籍はあふれ出して床にも積まれていた。そしてあちこちに得体の知れないものが見える。

 オブジェなのか実験器具なのかもわからない金属やガラスで出来た物体、見たことのない動物の剥製、乱雑に積み上げられたラベリングされていないファイル。無数に並ぶ薬壺。重厚なマホガニーの机の上にはみっしりと何故か新聞が重なっていた。


 その中でアレックスは棚の前に置かれた脚立に座っていた。相変わらずのジーンズ姿に裸足だ。今日は髪を結わえているのが救いだが。

 ……いや、でも。まさか、あの服は。

 ジャックが今更ながら扉を指の関節で叩くと、アレックスはようやく気がついてジャックを見つけた。


「やあアレクサンドラ」

「どうしたのジャック。何か忘れ物?」

 その言葉に、ジャックは疑問の目を向けた。確かにジャックは一昨日この家から出かけていった。ロボにしばらく戻れないと伝えて。

「……アレクサンドラ・ロックハート」

 ジャックは書斎に足を勧めた。アレックスの座る脚立の下で彼女を見上げる。


「ひとつ聞いても良いだろうか」

「なにかしら」

「もしかして、君はずっとここにいたのか?」

 アレックスの着ているものが一昨日と何一つ代わっていないことに気がついて、ジャックは強い口調で言った。その言葉の意味をしばらく考えてアレックスはぼんやりとした口調で答えた。

「今、何時?」

「まず今日が何日か聞いてくれ」


 アレックスが不思議そうに口にした彼女にとっての今日の日付は案の定、ジャックがここから出かけていった日だった。

「ずっと何をしていたんだ?」

「ミランダの資料読みと調べもの」

「食事は、入浴は、睡眠は!?」


 アレックスは目をしばたかせてジャックを見下ろした。それから興味なさそうにジャックから目をそらし、再び手元のページに視線を落とした。自分がアレックスの思考の断崖からぽいと放り出されたのを感じ取ってジャックは怒鳴りつける。

「こらー、降りて来い!」

その勢いにアレックスは目を見開いて再び彼を見る。ついにジャックの丁寧語が完全崩壊した。


「え、なに?」

「いいから!」

「今忙しい」

「脚立ぶち倒すぞ!」

 アレックスは眉をひそめて本を閉じると諦めたか呆れたのか、のそのそと脚立から降りてくる。その首根っこをつかんでジャックは彼女を引き連れて歩き始めた。ぺったりとしたアレックスの髪に顔をしかめる。


「飯を食え、風呂に入って寝ろ!」

「今忙しいって言ってるわよね!」

「そんなに目の下にクマを作って!おいロボ、いるんだろう、ロボ!」

 大声でロボを呼びながら屋敷の廊下をアレックスを引きずって歩く。

「今大事なところなのにー!」

「一体何をしているんだ?」

「ミランダ・エイムズの人生を考察しているんだってば。七十歳近い人だもの。時代が今と全然違うじゃない。彼女がどういう人生で、社会環境で、時代背景があったのかとか。もうすっごい長生きな人だから大変なの」

「……ナイトウォッチはそんなことをするのか?」

「こういうメソッドもある。感覚的なものを大事にする人もいるし、わたしもそれは否定しないけど、わりとわたしは理屈っぽいから」


 夢魔と戦うのは夢に入ってからの話だが、確かに下準備が出来るのは夢にはいる前までだ。夢魔に取り付かれた人間を起こすわけだから、その人間の人となりを知るということは必要なのだろう。

「へえ……」

 高名なナイトウォッチである祖母に育てられて、アレックスはナイトウォッチとしての知識は他のものとは一段違うのかもしれない。思ったより彼女が真剣で誠実な人間だと知ってジャックは見直した。


「だからほっといて」

 だが、それとこれとは話が別だ。

「飯も食わずに寝不足でいい仕事ができるわけないだろう!大体育ち盛りなのに」

「お呼びですか?」

 そこにロボはやってきた。けして小走りではなく慌てた様子ではないが、素早い。


「こいつのメシの仕度をしろ。なあロボ、主人の体調管理はしたほうがいいぞ」

「無茶なことを仰る。私が言って聞くのならとっくにやっていますよ」

「お前は甘い!こいつを放し飼いにするな!」

「わたしに命令しないで!」

「うるせえ、いくらロックハート財閥のお姫様でも聞いてやれないわがままがあるわ!とにかく風呂に入れ。その腐ったジーンズを着替えろ!」

「そんな時間もったいないよう」

「表のプールに頭からつっこむぞ」


 ぎゃー、とか叫ぶアレックスを引きずってジャックは歩き始めた。彼の弟だって癇癪持ちだったがもっと言うことを聞いた。

「ドネリー捜査官がアレックス様をお風呂に入れるのですか?」

「入れるかよ、バカ!浴室に放り込むだけだ」

「安心しました。国の誇る中央捜査官であろうが、変態ならば私は善良な市民としてあなたを告発する準備をせねばなりません」

「何気に失礼千万だなお前」

「ロボ、助けてー」

「私もアレックス様は体を洗ったほうが良いと思います。私は食事の仕度がありますのでお助けする時間はありません」

「この裏切りものー」

「心外ですねえ」

 などといいながらロボはキッチンへと立ち去り、アレックスはジャックに浴室へと引きずられていった。



「多分わたしは前世は雨に打たれて死んだ猫で、だから今もシャワーが嫌いなんだと思う」

「猫に謝れ」

 可哀想なアレクサンドラにどんな顔をして話したら良いのか、ケイトが死んでしまって残念だなとか、やっぱりタメ口をきいてはいけないだろうなとか。ジャックの常識的な悩みなどアレックスの前では見事爆散である。

 気遣いながら帰ってきて、まさか彼女の文字通りの薄汚さなに自分が激怒するとは思っていなかった。


 バスルームに放り込んで、その間に掃除をしていた女中をつかまえた。この家にはあいつの服はあれ以外にないのかと問う。彼女は私はその担当ではないのでと困惑するだけだ。仕方ないので料理をしていたロボに声をかける。彼の指示で女中はどこかに消え、戻ってきた時にはワンピースを一枚持っていた。ようやくあの腐ったようなジーンズとシャツを洗濯室に取り上げることが出来て女中もほっとしているようだった。

 一応髪を洗って着替えて出てきたアレックスに屋敷の関係者全員がなぜか安堵のため息を漏らしたのだった。


 アレックスの着ている物は普通のワンピースだが、どことなく古臭い。虫除けの樟脳の独特の香りが強く漂っている。ジャックは、ああそうか、となんとなく察した。

 あのワンピースはケイトのものだったのだろう。だとすればロボはアレックスよりもケイトと親しかったのだろうかとふと思いつく。年齢的には奇妙だが。

 ダイニングのテーブルについたアレックスにロボが食事を出してきた。ジャックもいるかと問われたがとりあえずコーヒーだけもらうことにする。


「……アレクサンドラ・ロックハート」

 彼女が食べているものを見て、ジャックは再び尋ねる。

「お前のそれは」

「ケーキ」

 アレックスが食事と称してフォークを差しているのは毒々しい青の着色料が使われたクリームたっぷりのケーキだった。

「飯は」

「これ」

「それがまる一日食べなかったあとの食事か!」

 ジャックはまた爆発することになった。

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