04
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『六月八日』
今日ヘンリーが我が家にやってきた。ああ、半年も前から楽しみにしていたから今夜は嬉しくて眠れない。以前会った時も素敵だったけど、久しぶりに顔をあわせてすっかり素敵な紳士になっていた!これから一ヶ月もうちにいてくれるなんて嬉しくてたまらない。ヘンリーは私をどう思っているのかしら。好きでいてくれたら嬉しいのだけど。早速明日はヘンリーにこの町を案内することにしたわ』
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翌日、朝っぱらから幌付きトラックが一台玄関に横付けされた。
出迎えたアレックスとロボを、なくしたり汚したりすんなよという顔でジャックは睨んだ。
「木箱で二十箱あるんです。大事な証拠品ばかり。いやもう本当に大事」
「でしょうね」
「したがって誰かこの資料の管理をしなければならないことになりました」
朝っぱらで眠そうな目をしょぼしょぼさせながらアレックスは聞いている。昨日もテレビジョンのドラマを見て夜更かししてしまった。素敵なホームドラマだ。普通の家族は食事に給仕がつかないのだなあとか妙なところを気にしながら観ていて寝坊した。
「なぜか俺がやることに……」
眠そうな彼女の前で、ジャックは朝っぱらから疲れた様子でぼやく。アレックスは当然とばかりに頷く。
「それはご苦労様。しばらくの間よろしく」
アレックスはにっこり笑ってジャックに手を差し出した。無邪気ともいえるその行動にジャックはつられて手を出してしまった。お嬢様通り越して姫君のような悠然とした表情で、友情みたいな親しみ深い握手をしてアレックスは言う。
「あなたの部屋はロボに聞いて。じゃ、わたしも搬入を手伝うわ。書斎に入れて」
俺はここに詰めるのか?という顔で、唖然としたジャックにアレックスはかまわず車から木箱を出そうとしてさっそく重さでひっくり返った。
「俺がやりますから!アレクサンドラ・ロックハートはおとなしくしていろ下さい」
すでに丁寧語をぐだぐだにしながらジャックはアレックスの上から木箱をどける。
「ところで」
ジャックは聞くべきか聞かぬべきか、青年らしい逡巡ののちに口にした。
「それは昨日と同じ服では……?」
「そうだけど?」
「服が無いのですか?」
「好きな服だから」
アレックスの返答にジャックは、ただなにか世界や運命の理不尽さを感じたような顔で黙って木箱を運びはじめた。
ロボも木箱を運ぶ手伝いを始めた。使用人にもやらせようとしたが、ジャックが大事な資料だからと断ったのだった。もともと彼は自分ひとりで搬入する覚悟だったようだが、なぜかアレックスが手伝いはじめ(逆に邪魔になっていた)、仕方なくロボが手伝うことになったのだった。
長い廊下を何度も往復しながらここ数日のアレックスの姿を考える。
ロボとアレックスの付き合いは長いようで実はそれほど長くない。彼女にケイトから紹介されたのは七歳のときからなので十年程だ。
ジャックがロボに怪訝な目をむけているのは初対面の昨日からわかっていた。確かに自分は彼女に仕えるには若すぎる。本当ならば未熟なアレックスには老年の熟練の執事が相応しい。そして常識を教えてくれるばあやだって必要だ。
でも彼女が相対できる人間は少ない。せめてケイトがもっと長生きしてくれればと今でも悔しいがさすがに彼女も八十歳となれば寿命だろう。もしケイトが十年早く死んでいたら、ロボはアレックスと親しくなれたか疑問だ。だから八十まで生きてくれたことに感謝するしかない。
でも今だって。
ロボは考える。
自分はアレックスと本当の意味で信頼関係を築けているのだろうかと。
『かわいそうなアレクサンドラ』
ロックハートの人間はみんなそう考えている。あの事件の際アレックスを厳しく叱りつけたケイトだって本当はそう思っていたことをロボは知っている。ただ、アレックスは自分のことをそんなふうには考えていない。でも誰も教えてくれないから、可哀想じゃない自分の在り様を自分で必死に探している。その姿こそ哀れだ。
自分がもうちょっと人の心に詳しかったら、彼女になにかできるのだろうか?
「おい」
書斎に木箱を置いてトラックに戻ろうとすると、最後の一つを持ってきたらしいジャックに行きあった。彼はロボに話しかけてきた。
「なんでしょう」
「お前も一応立場があるだろうから、話せなければ仕方ないが……」
彼が言いたい事は想像つく。
ジャック・ドネリーはなかなか好感の持てる人間だった。ロックハート一族に対しては確かに一介の市民らしく気後れと好奇心はあるようだが、アレックスへの態度にはぎこちなさが無い。バカな男であればアレックスをたらしこもうとしてもおかしくないが、あくまでも公僕と協力者という立場を崩すつもりはないようだ。
ロボはケイトに連れられてロックハートに関わる人間というものを一部ではあるが見せてもらっている。会社や旧本国の貴族社会のつながり、ナイトウォッチギルド、社交界、政治家、配下の経営陣。
垣間見ただけでも自分には手に負えないと思う。守る事はできるかもしれないが、アレックスがもしそれらと関わるのであれば、もっと詳しい人間が必要だ。ケイトもそれくらいわかっていた。でもロボにアレックスを守れということだったのだろう。自分の寿命が残り少なくなったのを一番知っていたのはケイト自身だ。
ケイトが死んで二年間は、アレックスはこの屋敷で沈黙していた。
アレックスが五歳のときに起きたあの事件。ロボもあの時自分がもうちょっとなんとかしていればと思うが過ぎた話だ。あれ以降アレックスの人生は歪んでしまった。もしかしたらケイトが死んでアレックスはこのままこの屋敷で朽ちていくのかもしれないとロボが諦めかけた時、アレックスは自分で立ち上がった。
彼女がロボをまっすぐに見つめていったのは一ヶ月前だった。
『わたしね、このままでは良くないような気がするの』
ロボはうまく返事ができなかった。それはアレックスの勇気に驚いただけではなかったのかもしれない。彼女がもしかしたら自分を置いていってしまうのではという独占欲にも似た寂しさだ。
『ナイトウォッチとしての才があるのだからせめてそれで頑張りたい』
アレックスが続けた言葉になんとかその醜さを出さずに済んだ。自分が必要とされている証拠の言葉だからだ。
ジャックはどんな人物なのだろう。
涼しい表情を崩したりしないが、ロボはずっとジャックを判断している。彼女にとって有意義な人物か、悪意ある敵か、事件さえ片付けばなんの影響も無く立ち去る通行人なのか。
あるいはアレックスを大きく変える人間になりうるのか。
「アレクサンドラ・ロックハートは一体何を考えているんだ?」
ジャックはロボには気さくな言葉だ。しかし使用人という見下しも無い。彼から感じるのはジャック自身が意識してさえいない他者に対する平等感だろう。同性の友人が多いだろうなと思える感じのよさがあった。
ロボがすぐに答えないでいると、ジャックは困ったように手で頭をかいた。
「まあ言えないか。でもこんな屋敷に家族と一緒でもなく一人でいて、お前はなんか妙な使用人だし、危険な潜行を自ら望んでしようとしているし、いろいろ非常識だし、まったく何を考えているのかわからない」
「私にもわかりません」
ロボはそっけなく答える。
「アレックス様が何を考えているかなんて、私の理解の及ぶことではありません」
「う、うーん。まあそうなのか……」
ジャックははっきりしない返事をして扉の横に立っている。それを見ていたらロボにしては珍しいことに少しいらいらしてきたので、それ以上何も言わず立ち去ることにした。背を向けても彼は呼び止めなかったがそれが余計にジャックの真剣さをうかがわせた。
そのままジャックはトラックを返しに報告がてら捜査局に戻るとのことだった。午後には戻ると言っていたが、忙しそうな彼のことだからもっと掛かりそうだ。書斎に木箱を積み上げ終わって、アレックスに昼食をとらせることにした。
「あ」
ダイニングにロボが運んできたものをみてアレックスは明るい声をあげる。
「パンケーキだ!」
「昨晩、ホームドラマで出てきた際、熱心に御覧になっておられましたので」
とロボが説明しているそばから、アレックスは添えられたメイプルシロップをだらだらと遠慮なくかけはじめた。
アレックスは好き嫌いが多い。基本的にあまり体に良くないものを好む。たっぷり砂糖がかかったクッキーや、クリームどっさりのケーキなどである。しかも家からでないでどうして太らないのかということになれば、基本的に食べないからである。
本を読んだりなにか調べ物をしていて気がついたら二日寝てなくて三日食べてないとかざらである。特に祖母がいなくなってからは誰も彼女を止められない。もうジャンクフードでもなんでもいいや、とりあえず食べていればとロボは思う。ケイトも同じような人間だったから幼少時の生活習慣の教育がいかに大切かわかるというものである。
本当に大事ならもっと違うやり方があるのではないだろうか。
アレックスのことは大事だ。
でもそれをうまく表せているのかと考えるととたんに不安だった。
昼食後、そのまま書斎で資料読みに入ろうかと思ったアレックスは、それよりも先にやっておくべきことに気がついた。
資料を見始めればあっという間に期限になってしまうだろう。書斎の引き出しから真鍮の鍵を一つ取り出した。
『あなたがナイトウォッチとなりたいと願うなら、これを使いなさい』
祖母ケイトが亡くなる直前にアレックスに手渡したものだ。
彼女はアレックスにナイトウォッチとしての教育はしたが、彼女にそうなって欲しいとは望まなかった。ケイトがアレックスに望んでいたものは……。
真鍮の鍵を手にアレックスは屋敷の一番奥の部屋に向かった。廊下を進むにつれ掃除こそ行き届いているものの、人の気配が全くしない空間となってくる。やがて突き当たった最奥の扉の鍵穴に、アレックスは重い真鍮の鍵を差し込んだ。
二年以上締め切られていた部屋の空気は予想通り澱んでいた。その部屋の入り口にたって、アレックスは祖母のことを思い出す。そのころすでにロックハート一族は比べるものない程の権力を得ていたが、彼女は生涯現役のナイトウォッチであり続けた。
アレックスが五歳の時、事件があった。
事件があってからはアレックスの治療と教育にかかりきりになったため、潜行は行わなかったが、それまでの生涯でセレベラのナイトウォッチ史に大きな歴史を作った女だった。聞いたところによると、政府のナイトウォッチの教育にも当たっていたらしい。
歴史のない若い国にじわじわと迫ってくる古い大陸からの夢魔の脅威を予感していたのかもしれない。
祖母が亡くなったのは、アレックスが十五歳の時だった。最後の数年をアレックスのために費やして死んだ。最後、入院している祖母を見舞った時には彼女はもう意識がおぼつかなかった。だがアレックスを見て微笑んだ。
「きちんと幸せになってね」
……その幸せの意味がアレックスにはわからない。
アレックスはケイトのナイトウォッチとしての仕事部屋に足を踏み入れた。
カーテンを乱暴に引き窓を開け放つ。風が一気に部屋を通っていった。この瞬間からここは祖母の仕事部屋ではなくアレックスの仕事部屋だ。
三十人ほどでパーティを開けそうな大きさをもつ部屋だった。祖母の仕事道具のいくつかが布を掛けられて残っていた。そのうち五つがベッドであることは布を取らなくてもわかった。
「五つ……ミランダ、わたし、中央捜査局のナイトウォッチ二人……」
アレックスは呟き、次々と布を外していく。病院のもののようなそっけないベッドだが用は足りるからこれはこのまま使おうと思う。両親や兄弟に言えば、勇んで新しい豪華なベッドを仕入れてきそうなので黙っておく。シーツがないからそれは買い足さねばならないだろう。
もう一つの大きな仕事道具はグランドピアノだった。
アレックスは艶を失っていないそれを眺めた。自分はピアノは使わない。仮に使うとしても調律をしなければ話にならないだろう。だがこれほど大きなものを片付けるのは大変だ。しばらく思案してアレックスはそれはここにほったらかしておくことにした。
「掃除……してもらおうかな」
あちこちに分厚く積もるホコリに一度くしゃみをしてから、アレックスは呟いた。
アレックスが書斎に戻り、運び込んだ資料読みをはじめようとした時、ロボが顔を出した。
ジャックは捜査局での仕事があって明後日まで戻ってこられないということだった。しかしアレックスもこれからなすべきこととしては資料読みだけである。ジャックがいてもいなくても関係ない。生返事で聞き流すと、アレックスはミランダの資料の最初の一冊目を開いた。