02
「アレックスと呼んでいいわ」
セレベラ連邦共和国中央捜査官ジャック・ドネリーは、ロックハート屋敷で一体何から口にすべきか決めあぐねて、目の前の娘を眺めていた。
ジャックも若干二十四歳、たしかに大学出たての青二才ではあるが普段は言葉に迷うほどぼんくらではない。問題は娘のほうだ。おそらく彼女の前では誰もが言葉を失うだろう。ジャックは今テーブルに出された資料の中に混ざっている彼女の写真を思い出す。
目の前の娘はアレクサンドラ・ロックハート。アレックスと呼んで欲しいらしい。
十年前に終結した世界大戦の混乱から立ち直り、新しい秩序が構築されつつある現代で各国の関わりは加速度的に増している。このセレベラのみならず世界経済全体すら影で牛耳ると言われるロックハート財閥、その現在の総帥である男の六番目の子供。本来ならばジャックが会えるような存在ではない。
ここに来る前に見せられたアレックスの写真は、一年前、十六歳当時に社交界にデビューした日のものであるようだった。艶のあるプラチナブロンドを美しく結い上げ、上品に肩を見せた白いドレス姿だった。すっと通った鼻筋と細い顎、きらきら光る大きな眼、そして挑むような視線が印象的な顔立ちをしていた。整いすぎて冷たく見えるほどだが、こんな美しい娘がいるのかと、ジャックも捜査対象ということも忘れて思わず写真を凝視してしまったくらいだ。写真は白黒だったから、彼女の色彩を完全に補完できたのは今、ここで初めて向き合ってからだ。中央捜査局も早くカラー写真を導入すべきだろう。
今ここで心構えもないままに、あまりにも印象的な色を見つけてしまった。
日が落ちる瞬間の空の光と闇が交じり合ったような淡い紫の瞳。そして瞳孔を細く囲むのは星の瞬きのごとくきらきら輝く銀と金の混ざり合った特徴的な輪。
ああ、これが噂に聞く魔眼というものか。
ロックハート財閥、魔眼、末娘アレクサンドラ、夢魔、麻薬王と妻、暗殺、そしてナイトウォッチ。
様々なものが頭に浮かぶ。
ジャックの戸惑いは自分に任された仕事の大きさもあるが、アレックス本人に対しても強く感じているものだ。
……いや、というか、正直ほぼ全部アレックスのせいだろう。
美しく洗練極まりない社交会デビューの写真しかで知らなかったアレックスは、今、目がチカチカするような極彩色のガウンを羽織っている。それも今横に控えている仏頂面をした執事らしき青年が持ってきたからだ。
客間に通されたジャックの前に現れた時、アレックスは派手な黄色のサイズすらあっていないだぶだぶのネルシャツを着て、なんとデニム地のゆるいパンツをはいて出てきたのだ。どうして極めつけの上流階級の令嬢が労働者の作業着を着ているのだと仰天した。しかも裸足。激しい寝癖の頭は梳ってもいない。絶対寝起き、賭けてもいい。今、午後一時だが。
「アレックス様、その格好はおすすめできません」
といって家令と思われる青年がその極彩色のガウンをかけたというわけだ。どうやら東洋の名のある織物らしいが、派手すぎて問題は全く解決していないどころかむしろ酷くなっているぞ!とジャックは思う。
おい、あの写真の清楚な美少女はどこに消えた、と、別に仕事の相手に期待などしていないが、騙されたような気分ではある。
さらに不思議なのはこの屋敷にはアレックスとこの執事以外の気配が薄いということだ。もちろん使用人の姿は多く見かけている。門を抜け、庭を横切って車を玄関に横付けした際に出迎えたのはこの青年だったが、春の終わりを誇るように様々な花が咲き乱れている中、庭師が木を剪定しているのも見かけたし、歴史を感じさせる古めかしさがある中にモダンな洗練が同居する豪華な屋敷内を掃除している女中の姿もあった。
だが家族の姿は見かけない。いかにロックハート家が多忙だといってもこれはちょっと不自然だ。なによりアレックスは未成年だ。
アレックスの背後に悠然と立つ執事は、すっきり切ってある黒髪を撫でつけているだけで、あとはお仕着せの黒いスーツに白いシャツ、そしてタイというなんの飾りもない姿だが、写真のアレックスに並んでも見劣りしないほどの長身の美青年だった。髪も目も黒く、彼はアレックスと違って実物を見ても白黒写真のようだった。
変な身なりの美少女といささか若すぎる執事、この二人の迫力にちょっと気おされそうになりながら、ジャックは自分が来た理由をざっと説明しようとした。
「わざわざ来てくれてありがとう」
名乗って以来ずっと沈黙を保っていたアレックスが、ふいに口を開いた。その声に少しだけジャックは安堵する。声だけは、ここに来る前の美しいアレックスのイメージと同じだ。だがその内容はまた度肝を抜く。
「中央捜査局の偉い人に、わたしのところに行くように言われたってことでしょう。気乗りしないお仕事でしょうに」
「え、あ?」
「お勤めするというのは大変なことなのね。それをする必要がないわたしには理解できないことが申し訳ないわ」
身も蓋もないというか、言葉を選ぶという概念がなさそうな子だ。彼女のところを訪れるように命じた上司に「ある一点においてのみずば抜けている、らしい」と言われたことを今更ながら思い出す。
「わたしが中央捜査局の偉い人に手を回したの。ほら、ロックハート財閥ときたら馬鹿みたいに権力があるから大体のことはなんとかなるのよね」
「……え、なんですって?」
ジャックはぎょっとして彼女を見つめる。なんだろう、自慢されたような気がする。
「父にいろいろお願いすることになったから多少時間と手間がかかったけど」
「えーと、それは威張って言って良いことでは無いように思います」
そうなの?という顔でアレックスはジャックを見返した。ジャックのなかで警鐘がガランガランと鳴り響く。なんでもっと早く鳴らなかった。
この子はちょっと変わっている。いや、かなりと言ってもいい。
お偉い連中が、うまくやればロックハート財閥と縁ができるのに、ジャックみたいな新人にここに向かわせた理由がうっすら見えてきた。
アレクサンドラ・ロックハートは変だ。
「とりあえず、事件の概要を知っていることを前提に軽くお話させていただきますが、アレクサンドラ様はまだ未成年。御両親は納得いただいて」
「していないに決まっているじゃない。なんかまだごちゃごちゃ言っている」
彼女は肩をすくめた。
「でも両親は関係ない。だってナイトウォッチなのはわたしだもの。誰にも何か文句なんて言わせない」
いや、あんたがよくても俺が困る。万が一ご両親のどちらかからでも中央捜査局に文句が来たら、俺の首くらい軽く吹っ飛ぶ。失職というだけじゃなく文字通り首と胴が離れかねない。
ジャックは動揺を隠しつつも内心で怒鳴り散らした。少しだけ凄みを含んだ声で重ねて言う。
「御両親とよくお話ください」
アレックスはにっこり微笑んで答えた。寝癖頭に変なカッコであっても、確かに笑顔は愛くるしい。
「いや」
はきはきと答えられてジャックは一瞬言葉を失う。いや、もちろんアレックスの様子からして、素直に聞くはずがないというのは前提だったのだが、これほど爽やかにそして鮮やかに断られるとは思っていなかった。
「いけません。危険が伴う話です」
「その危険くらいロックハート一族なら理解していないといけないと思うわ。わたし達は人が羨む権力を持っているのから、それに伴う責務は果たさなきゃ」
アレックスはジャックの言葉を遮って言った。しかしその割には次の言葉を考えている。なにか言いたいことと合致する言葉が見つからないようだ。
「ええっと、こういうの、なんて言うのかしらロボ。昨日テレビジョンで見たわ」
「アレックス様」
年若い執事……ロボがわずかに腰を曲げ身をかがめてアレックスの耳に囁く。
「働かざるもの食うべからずです」
「それね!」
いや違うだろ、とジャックは内心で呟いた。