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 ロボと一緒に二本のケヤキを調べてみたが、とくに引き金になりそうなものは見つからなかった。二手に分かれたアレックスは一人で屋敷に戻ってきた。予想通りヘンリーはまだ見つかっていないようだ。


「アレックス」

 花壇に囲まれた夕刻の中庭のブランコに、ミランダが一人座っているのを見つけた。

「ミランダ様」

 アレックスの呼びかけに、彼女は顔を上げた。頼り無い笑みを浮かべる。

 ふとアレックスは自分と彼女を重ねてしまった。


 信頼していた他者のふいの喪失。

 その種類は違うが、なんだか同情したくなる。アレックスにとって老女であるミランダは今まで話したことのない見知らぬ他人だ。ここにいる少女のミランダこそが彼女の本心であるように思える。

 幸せなミランダ。

 どうして人の運命はかわってしまうのかと思う。ミランダの中にあるこの淡い恋心にアレックスは不思議な気分だ。どれほど悪女と罵られていても、彼女にこんな大事にしたい思い出があったとは。サイモンを愛しているから組織を国に売り払ったのかと思っていたが、もしかしたら本当は違うのだろうか。

 彼女は自分の心にある何か美しいものためにそうしたのか?


「日に焼けますよ」

 内心を隠しアレックスは声をかける。

「そうね、屋敷にもどるわ」

 しかしミランダは浮かない顔だった。

「よろしければ図書室にいきませんか。なにか本をご紹介できるかもしれません」

 アレックスの誘いにミランダはほんの少し微笑んだ。

「そうね、落ち込んでいてもしかたないわね」

 ゆっくり歩いて連れてきた図書室の前で、アレックスはミランダを促す。しかしふいに彼女は足を止めてしまった。入り口から図書室を眺める。


「私はここでいいわ。待っているから何か持ってきて。部屋で読むわ」

 それはあまりにも不自然な言葉だった。アレックスはその言葉に一気にこの過去三回のミランダの繰り返す夢を思い出す。

 ……そういえば彼女は一度として図書室に入らなかった。

「どうしてあなたは、図書室にはいらないの」

 アレックスはミランダの目をまっすぐに見た。ミランダの目が泳ぐ。


 アレックスは、今この瞬間より、女中ではなくナイトウォッチとして語りかける。


「……どうしてって……」

 アレックスは右手を長く伸ばし、図書室の扉、そしてその中を指し示した。

「あなたが本を好きなことは知っている。リビングでも書斎でも、庭のブランコに乗ってもいつも本を開いている。それなのに、どうして肝心の図書室では読書をしない?いいえ、ここには入ろうとさえしない」

「だって、頼めば誰かが本を持ってきてくれるから……」

 ミランダの目には動揺が走っている。自分で自分の言っていることがおかしいと気がつき始めているのだ。


「どう考えても自分で探しにきたほうが早いじゃない。これほどの図書室だもの、あなたにも覚えきれない程の本があるはず。ここに来て自分で探して手にとって、それがどれほど楽しいことか、わたしにはよくわかる」

 アレックスも家にこもって本を読んでいるのが好きな人間の一人だ。他人にいちいちこういった本を、と指示することがいかに面倒なことかはわかっているし、自分が想像できないことを書いてあるから本が面白いのだと考えている。

 自分で読む本くらい自分で選びたいはずだ。


「あなたは図書室に入るのが怖いんだわ」

 ミランダは声にもならないような引きつった呼吸を始めていた。

「何があるの。この図書室には」

 アレックスはミランダの細い手首をつかんだ。

「図書室には」

 呻くようなかすれた声でミランダは呟いた。涙の膜がその美しい緑色の目を覆っている。アレックスは図書室に一歩踏み出した。ミランダを引き込もうとすると、彼女は足を踏みしめてその場に留まろうとする。


「いや、入りたくない!」

 ここなのだ、とアレックスは理解する。ミランダの心が秘められた場所はここだ。現実に戻る鍵があるのは間違いない。

「ミランダ!」

 アレックスは叫んだ。

「あなたはこの場所からでて現実世界に戻らなきゃならない!今まで何人もの人たちを麻薬で不幸にして、でも人生の終わりで少しでもその悪事という負債を返そうとしたんでしょう。その自分の善意を信じて!」


 自分を愛してくれていたはずのダリル叔父を思い出す。

 その愛情が嘘だったとは、アレックスは考えていない。ただ、どんな人間にも負の感情はあるのだろうと思うだけだ。皆それを隠して生きている。自分の醜さを恐れ、円滑な人間関係を求め、争いを表面に出したくない、そんな単なる自己保身のためかもしれないが、でも隠して生きているのだ。

 だって、人に嫌われるのは怖いもの。

 その愛しいまでの弱さが自分の中にあることをアレックスは知っているし、ダリル叔父の事件については無作法に覗き込んでしまった自分を恥じるばかりだ。

 人はどれほど高潔であっても愚かさを抱いている。

 だから逆もあるのだろうと信じている。妖婦と罵られもしたミランダ・エイムズだって、これほどに優しく暖かい世界を内包していた。

 組織を告発した彼女の勇気をアレックスは懸命に呼ぶ。それが夢の出口だろう。


「いやよ!」

 ミランダは叫んでいた。駄々っ子のようにアレックスの手を振り払おうとする。

「ミランダ」

 そこに第三者の声が入った。振り返ってみれば、ミランダの肩の向こうにディクソンが立っているのが見えた。彼はゆっくりと歩いてくる。

 誰、と問うかのように開いたミランダの口がそのまま凍りついた。

「ミランダ・エイムズ」

 彼は中折帽を取った。そのまま深くミランダに頭を下げる。


「お久しぶりです」

 アレックスは見詰め合う二人を交互に眺める。彼を連れてきたことが正解なのかどうか、もうこれ以上はアレックスも息をつめて見守ることしか出来ない。

「いつかの約束を果たさなければと思って来ました」

 ディクソンはゆっくりと、落ち着かせるようにミランダの手を取った。

「あなたの焼いたパイを頂きに来たんです」 

 アレックスは息を飲んだ。アレックスがいつ切るか悩んでいた切り札が自ら動き始めた。

『ヘンリーにパイを焼いて差し上げるの』

 そう、彼が実世界のヘンリー。

 ヘンリー・ディクソン。


 彼が……ディクソンが来たから夢のヘンリーは消えるしかなかったのだ。夢魔はこの舞台に関しては極めて精緻に作り上げている。入り込んだディクソンのことも察したに違いない。

 なぜか二人存在するヘンリー・ディクソン。

 そして夢魔は最終的にこの老紳士のディクソンを本物だと認定した。だからダブった片割れを消したのだ。舞台が破綻してもそうせざるを得なかったのだろう。


「あなたと再会できなかったことが後悔です」

 いいえ、とディクソンは首を横に振った。

「何があってもあなたと再会する事はできたはず。何もしなかったのは、私の怠慢に過ぎない。あなたを裏切ったことだけが人生の最大の悔やまれる記憶でした」

 ヘンリー・ディクソンは旧本国での留学を優秀な成績で卒業し、やがてセレベラに戻ってきて政府の仕事に就いた。でもそのときにはミランダの実家は没落して彼女の行方もわからなくなっていたに違いない。そして彼はミランダを探すどころではなくなってしまった……もしかしたらわかっていても、ミランダに声をかけることができなかったのかもしれない。犯罪者の妻となってしまったミランダには。


 彼は当時弱体化していた中央捜査局のてこ入れを命じられた。片手間に出来る仕事ではない。最終的に彼は結婚することすらなく、仕事に生涯を捧げてきた。彼の仕事によって救われた人間は多い。

 でも彼は約束したミランダを救えず、だから彼も救われなかった。

「やっと自分の人生を振り返る時間が出来た時にはあなたはあまりにも遠かった」

 淡々と語るディクソンだが、その血を吐くような告白に潜む苦汁は彼の人生の後悔そのものであると感じられた。人生の大半を彼は自分の選択を正しいと知りつつ、悔やまずに入られなかったのだ。

 ミランダの恋心ばかりしか見えていなかったアレックスは少なからず驚く。彼も……ヘンリー・ディクソンもミランダを本気で好きだったことに。


「大変遅くなりました」

「いいのよ……多分大変だったと思うから」

 アレックスは気がつけば、ミランダをひっぱることをやめていた。だがミランダも逃げようとしていない。二人で図書室の入り口をはさんで向かい合う。

「……そうね」

 やがてミランダは微笑んだ。今まで瞳に留まっていた涙が一筋頬を伝った。


「戻らなきゃ」

「あまり余生がないことが残念ですが、起きたなら私が待っています」

 アレックスはミランダから手を放した。変わりにその手をそっと握り締めたのはディクソンだ。

「戻りましょう」

「……パイを焼いてあげるわ」

 ミランダは図書室に一歩踏み出す。


 ごとん、という音が背後で聞こえてアレックスは振り返った。

 入り口近くの品のいい長椅子に男性が一人横たわっていた。先ほどまでは誰もいなかったのに。これがミランダが図書室に入りたくなかった理由だと気がつく。

 テーブルには、麻薬と注射器が散らばっていた。初老のその男性は背広の上着を脱ぎ、シャツの袖を捲った状態で横たわっている。その目は見開かれているが、その体に魂がもうない事は一目瞭然だった。ぴくりとも動かない男性にアレックスは夢と知りつつ息を飲む。


「……パパ」

 ミランダはかすれる声で彼を呼んだ。

「パパ?」

 鸚鵡返しのようにアレックスも呟く。

 ミランダの父親は彼女が二十歳になる頃に亡くなった。それは知っている。でもどうしてなくなったのかは知らなかった。

 いや……調べられなかったのだ。おそらく注意深く隠されていたのだろう。

 ミランダの最古の日記帳は、父の死の前日で終わっていた。次の日記帳の記載は一か月後から始まる。

「……あなたのお父様は、麻薬で死んだの」

 アレックスは肩を震わせるミランダの横顔に語りかけた。ミランダの視線は死んだその男に釘付けだ。


「借金を返すめどが立たなくて、パパはあれほど蔑んでいた麻薬に手を出したの。でも扱いになれてなかったから量を間違えて……いいえ」

 ミランダは姿こそ今までの少女のものだったが、瞳は老成し長い人生の終末に差しかかったものに変わっている。ミランダ・デニスではなく、ミランダ・エイムズがそこにいた。

「わざとなのかもしれない。わざと大量に使って死を選んだのかもしれない。でも遺書も何もなかったから私には知る術がなかった。パパが一体どれほどの不安を抱えて、それを家族の誰にもうちあけられなかったのか。何一つわからないの」

「お父様が亡くなったのに、どうして麻薬を扱ったの」

 ミランダの横顔がわずかに歪む。一体どういう表情なのか、横顔では測りかねた。

「……それもわからないわ」

 ディクソンがミランダの肩を抱いた。


 今回の一件の発端であるミランダの告発。それは夫であるサイモンの死に対する復讐心ももちろんあっただろう。

 でもヘンリーに淡く恋心を抱いていた頃の悪に対する正常な潔癖さと、父の死に対する麻薬への憎悪が彼女を今回の行動に駆り立てたのだとしたら、人というのは本当に一面ではわからないものだとアレックスは考える。

 ミランダもディクソンも、立ち止まっていた人間だ。アレックスも同じ。


 歩き出してよかったと思う。まだうまく一人で立てないし、ナイトウォッチとしての力も不十分だ。ミランダの説得だってディクソンが完成させた。ミランダの日記からディクソンの存在に気がついたのは自分でも、アレックスを補佐して彼を連れてきてくれたのはロボだ。

 結局自分に出来ることなんてわずかだけど、それは歩き出すことを恐れるための理由になんてならない。助けてくれる人がいなければ誰も一人では明日なんて見つめられない。国を変えた男もこの世の悪に塗れた女だって、結局今、誰かの助けを必要としている。

 気がつけば、少女時代のあの美しく若々しいミランダはそこにいなかった。白い髪を一つにまとめ、質素な服に身を包んだ緑の瞳の老女が立っているだけだ。

 今だ、とアレックスは気がつく。


「ミランダ。鈴の音を聞いて。夢の外で鈴が鳴っているの。その音があなたを目覚めさせる」

 ふいに、世界が揺れた。ミランダが小さく悲鳴を上げ、ディクソンが支える。

「来た!」

 アレックスは叫ぶ。

 ミランダがついに夢魔をふりきって目覚めようとしている。そしてもちろん夢魔は、ミランダを再び夢に引きずりこもうとする。夢魔が動き出したことを察してアレックスは心を張り詰めさせる。

「危ない!」

 アレックスは飛び出してディクソンの腕をつかんでひっぱった。ディクソンはミランダごと床に倒れ伏す。

「アレックス?」

 ディクソンは驚きの声をあげた。


「夢だからあなたは死なない。でも邪魔だから早く逃げて」

「どうやって?ここは私の夢なのに?」

「さっきも言ったように、鈴の音に耳をすませて。ディクソンは鈴の音を捉えているわよね。ミランダにもそれを教えてあげて。外の物音が聞こえれば目が覚める」

「君は?」

 ディクソンらと会話をしながらも、アレックスは図書室の一点を見つめていた。見ているだけで不快な……それでいて目が離せないような落ち着かない気持ちになる。


「でていらっしゃい、夢魔!」

 アレックスは叫んだ。そのとたん、図書室に飾られていた一枚の絵がずるりと滑るようにぶれた。ミランダが背後で短い悲鳴をあげる。

 絵の中で微笑むのは、今から二百年は以前の古めかしい衣装を来た少女。腕には二体の人形を手にしている。そのままそれは絵画から這い出してきた。床に落ちることもなく飾られていた壁を蜘蛛のように伝って降りてくる。いや……その少女のドレスはいつまでたっても終わらず本来ならあるはずの可愛らしい足は無かった。ただ、ドレスがずるずると果てしなく延び、少女の体も途切れる事無い。人形を放り出し、夢魔は両手で這いながらこちらに向かってくる。


「それが本体ね。そしてその人形は……囚われているナイトウォッチ二人か!」

 ミランダとディクソンが図書室を出て行った事はわかった。

 夢のルール。ミランダが鈴の音に気がついて目覚めればこの戦いは夢魔の負けだ。彼はミランダの支配力を失って彼女の覚醒と共にただ追い出される。ミランダが目覚めさえすればいい。

 しかしその前にアレックスが、ディクソンが、そしてミランダが再び夢魔に捕まってしまえば、もはや彼女は目覚めることが無いまま肉体は朽ちていくしかない。そしてアレックス達もミランダの肉体の死と共に帰る術を完全に失い、消えうせる。魂を失ったアレックス達の肉体もミランダと同じようにそして衰弱死するだけだ。


 ナイトウォッチは夢魔に囚われた対象が覚醒するまではただひたすら守りつつ逃げることしかできなかった。夢魔に対して戦う手段がなかったから。だから武器を欲して願って作り上げた。

 アレックスは這ってこちらにやってくる絵画からでてきた夢魔の前に立ちはだかった。ミランダが鈴の音を見つけるまで、彼女を守り抜かなければ。

 アレックスは手近な椅子を手にした。その姿などどうせまがい物だ。


 おもいきり振り回した椅子を、その夢魔に向かって叩きつけた。愛らしいドレスを着ている少女の姿相手でも一片の躊躇もない。下方から顔面に一撃食らって夢魔は一瞬ぐらりとかしぐ。だがゆらゆらと揺れた後それはなにごともなかったようにアレックスにまた向かってくる。アレックスは眉をひそめた。速度がそれほどでもないのは救いだが、確かにこれでは手のうちようがない。

 速度がそれほどでもない。

 そう思った瞬間、ふいにその腕が伸びた。一瞬でアレックスの首をつかむ。


「……かはっ」

 アレックスの喉が鳴った。そのまま放り出され、豪華な書棚に背中から叩きつけられた。ばらばらと衝撃で本をとびちらせながらアレックスは床に落ちる。夢の中でも五感はしっかりしている。ぐらぐらする頭を叱咤しながら両手をついて身を起こすと、ゆらゆらとした不気味な動きで夢魔は図書室の出口に向かっていた。

 ミランダ、早く目覚めて!と祈る。


「……まったくひどいご主人様です」

 夢魔に立ちふさがるように図書室の入り口にロボが姿を見せたのはその時だ。


「ロボ!」

「大事な事をことごとく忘れているなんて」

 彼はあきれたようにアレックスに目を向ける。

「どうして私を呼ばないんですか?これほどの時に」

「だってわたしはあなたの主人じゃない」

 言った時に、アレックスは自分の言葉に違和感を覚える。

 主人?

 そう。彼はケイトのもの……だと思っていた、この瞬間までは。

 が。

「思い出した……!」

 アレックスは目を見開いた。


 ミランダの図書室で、ロボと再開した時にあったことを。

 あの時、脚立から落ちて頭を打った。その時ちょうど、夢魔の支配が外れるという状況でもあったがために、混乱し、記憶が欠落してしまったのだ。ようやく今思い出した。

……欠落するにはそれなりの理由があったのだ。その時のことを反芻する。

 あの時、アレックスはロボのことも忘れて、ミランダの家の女中になりきっていた。多分ロボをみても本棚の前の脚立の上でぽかんとしているだけだっただろう。


「アレックス様!」

 怒鳴りつけるロボを、なんだこの人という目で見ていた事は間違いない。普段、あまり表情を変えないロボに怒りに似たものが走った。そのあとの彼の行動は今思い出しても素早かった。

 別の書棚の前にあったもう一台の脚立を抱えると、そのまま力強く近寄ってきた。驚くような素早さで。そしてアレックスの前に置くと、一気に上ってきた。入り口のところでディクソンが唖然としていたのを視界の隅に映した。

 アレックスと同じ目線についたロボは、唐突にその左手を伸ばしてアレックスの右手をとった。


「私の右目に!」

「は?」

「右目の上に置いてください!早く」

 ロボの剣幕にアレックスはぎょっとしながらも従った。確かにその瞬間のロボは驚くほど威厳があったのだ。

 そして彼は自分の左手をアレックスの右目に伸ばす。まぶたと指先を触れ合わせてロボは契約の口上を口にする。アレックスの分を。

「『契約せよ。汝の主人の名を刻め』。はい言ってください」

「え、えええー?」

「文句言わないで言われたことをする!」

 間違いなく、どさくさに漬け込まれた……と今なら思うが後の祭りだ。女中アレックスにはよくわからなかったのだ。

 ロボのあまりの剣幕にさすがにおどおどしながら言われたとおりに繰り返すと、ロボは自分の口上を告げる。


「『契約せよ。貴殿の武器の名を得よ』」

 ずきん、とかすかに触れられた右目が痛んだ。そして、彼の名がふいに頭に浮かぶ。こうして短くも正式な交換がなければ、主従とは認識できない。

 眼痛に顔をしかめながら、それでもアレックスは操られたように言う。

「『汝の真なる名は、ロボ』」

 主人は部下に名を与えることができる。今別の名を与えても良い。おそらくこのロボという名は、祖母ケイトがつけた名だろうということは予想できたが、それでも今更他の名前は思いつかなかった。


「『了承した。貴殿の名は、アレクサンドラ・ロックハート。貴殿の良き猟犬であると誓う』」


 アレクサンドラ、にアレックスは我にかえったように目を見開く。

 目の前のロボの目に星がきらめいた。

 彼の黒い瞳を見て、自分はいつも、彼は夜の闇すら見通すのだろうと思っていた。いや、願っていたのかもしれない。その力が自分の助力してくれたらと。

 契約完了の目を見開いて、アレックスは記憶を取り戻しつつあった。


 そうだ、もう彼はケイト・ロックハートの武器ではない。アレックスのものだ。ロックハートの最大の武器。先祖代々の宝。

 夢魔の唯一の敵。

 武器……を持てばもはや夢魔の影響など受けない。

 で?

 そこまで思い出して、アレックスはあれっと思う。


 その時点で、あ、ロボだ。この野郎、勝手に契約しやがった!とちょっと思って……でもなんでわたしは脚立から落ちたのか。

 その後にもう一つ何かあったような気がするのだが。

「思い出しましたか。それは結構」

 忘れているもう一つの何かを思い出そうとしたアレックスは、ロボの言葉でその思案を遮られた。平然としているロボに、ずいぶんタイミング遅れたが憤りが湧く。


「なんで!?」

「もういまさらではありませんか。半日も前の話ですよ、しつこいですね」

「いや、わたしは今思い出したのよ!それに今は夢の中なんだから現実時間ではほんのちょっとしかたってない」

「何が不満ですか。夢魔を倒すことが出来る伝説のロックハート家の武器ですよ。全盛期は私を巡って争いが起きたくらいの愛されモテモテアイテムです。自分で言うのもなんですがハンサムですし、気遣いもできます。しかも御髪のお手入れから夢魔殲滅戦まで、主人の一日を全て補助可能。快適な毎日をお約束します。少々口は悪いですがその欠点も魅力じゃないですか」

「ほんとに自分で言うことじゃない!この火事場泥棒!」

「私はアレックス様が主人で、不満なんて一つもないですよ。愛していますから」


 突然言われた言葉に、アレックスは悪態を飲み込んで息を詰まらせそうになった。しかし更に追求することもなくロボは話を続ける。

「はい、じゃあお命じください。今はあまり猶予はありませんから。この状態でも私はそれなりに強いですが、私の力を本当に解放できるのは、あなたの命令だけです。アレックス様」

 そして彼にしては珍しく品の無い、欲望をにじませた表情を見せた。

「五年ぶりですよ、いい加減空腹です」

 その言葉にアレックスも踏み出す。


『きちんと幸せになってね』

 祖母ケイトの言葉にためらっていた。彼女の望んだ幸せは、ナイトウォッチではなく普通の娘としての幸せかもしれないと。夢も、叔父との事件も、すべて忘れてただ財閥の娘としての人生で良いのだと。

 否。祖母はアレックスを愛してくれていた。だから彼女の言葉の真意など一つしかない。

 自分自身の望むようにあれ。『幸せ』とはそういうことだった。たとえ苦難の道でも。

「ロボ、わたしは技術を磨き、心を強くして、知識を得る。誰より立派なナイトウォッチである人生がわたしが望む幸せよ。だからロボ……」


 アレックスは夢魔を指差す。

「……今は夢魔を食え」

 ロボは晴れやかに笑った。

「承知」


 アレックスに背を向けた瞬間、彼の身は一瞬で変容していた。熊ほどの大きさの一匹の犬に。漆黒のそれは、狼にも似ている。その毛並みは光を吸い込んでしまう闇そのもののようだ。筋肉の動きなどは鮮明に見えないのに、強靭さは妙にはっきりと気がつくことが出来る。それはこちらに背を向けて図書室を出て行こうとする夢魔に飛びつく。一片の容赦も無かった。

 そのまま頭から、巨大な顎を大きく広げ、ロボは夢魔に食らいついた。ただ、その一瞬で夢魔の上半身はロボの口の中だった。


 ロックハート家のナイトウォッチを代々支えてきた稀代の武器は夢魔を食べて生きる。

 押し倒し強靭な前足で押さえつけたロボは、夢魔をかけらも残すまいとばかりに貪る。いつもの冷静で皮肉屋のロボからは想像も出来ない貪欲なその姿。しかし別にロボは恥じないし、アレックスも厭わない。

 愛しく思うだけだ。


 ちりん。

 鈴の音が強くなったような気がした。図書室の風景が急に霞がかってくる。ミランダが脱出したのだと気がついた。

「ロボ!」

 黒い獣が饗宴を終えてこちらに戻ってくる。アレックスは手を伸ばした。一歩進むごとに獣の姿を捨てて普段の姿に戻るロボにアレックスが触れたのは、彼の人としての指先だった。アレックスは告げる。

「一人では怖い。お願いロボ、これからもわたしと一緒に闇の夜を、人の心の夜を見て」

「お願いなどなさらないでください。どうぞ、いつでも御命令を」

 ロボは片膝をついて跪いた。その肩に触れてアレックスは小さく言葉を吐き出した。


「ありがとう」

 彼は人間では無いけれど、自分が大事にしてあげたい相手だ…そして相手もわたしを大切にしてくれるだろう。そんな事実をようやく実感を伴ってアレックスは理解して、受け入れた。

「では、まずは、帰りましょう。わたし達の現実へ」

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