12
皆と一緒に中央捜査局本部に帰ってきたジャックは、そのまま上司に呼ばれた。一応無事に潜行が始まったことと報告する。またこのまますぐに戻って潜行の終了を待つ予定だということにも許可をもらった。
滞在もほどほどにジャックは局を出ようとした。途中でちらりと見た自分のデスクに積みあがった書類に思わず震え上がる。ここ二週間アレックスに振り回され、自分の通常業務が滞りっぱなしだ。ミランダの事件が終わったら、しばらくは残業三昧だろう。
「おいドネリー!」
横の同僚がジャックを呼んだ。手招きまでしている。
「お前に電話だぞ」
今?と思いながらジャックが電話に出ると交換手が相手に繋げた。電話の向こうの相手はジャックが時々使っている町の情報屋だった。やっと電話が繋がったと、情報屋は非難混じりに言った。確かにここしばらく局にいたほうが少なかった。
『クーパーの部下がミランダを始末しようと動いてますよ』
彼の言葉にジャックはぎょっとした。
「なんだと?」
『証人がいなくなればいいですもんねえ。それでなんだか今日、ミランダが局内からどこかに護送されたという情報が流れましてね。いえどうもその情報をクーパーの部下も手に入れたようなんです』
ジャックは息を飲んだ。やはり彼女を局から出すことには危険を伴っていた。でもアレックスは頑なに中央捜査局に足を伸ばすことを嫌がったのだ。
「くそっ」
ジャックは電話を叩ききった。中折帽を深く被りなおす。
「クーパーめ」
彼がミランダの行方をつかんだというのは悪い知らせだ。今拘束中とはいえ、彼の手下として動く部下はいくらでもいる。
アレックスにはとても聞かせられないような低俗な言葉で悪態をつきながら、ジャックは局を飛び出した。交差点を車を何台か止めながら走りぬけ、渡りきったところでやってきたタクシーの前に立ちはだかるようにして止める。
「おい、お前!」
怒鳴り散らした運転手を無視して後部座席のドアを飽けた。乗っていた中年男がぎょっとしてこちらを見る。その胸倉をつかんで無理やり引きずりだした。
「すまん。譲ってもらうぞ」
「おいこらお前!」
ジャックはタクシーに乗り込んだ。乱暴にドアを閉めた。締め出された男が怒鳴っているが無視してスーツの胸ポケットから中央捜査局の身分証をだす。こめかみに青あざを立てている運転手の目の前に突きつけた。
「急いでいるんだ。身分証でたりなければ銃を出すことになる」
運転手の顔色が変わり、そしてジャックは行き先を告げた。
アレックスがミランダに呼ばれたのは、それからすぐのことだった。まだヘンリーは見つかっていない。女中頭の女性がミランダの言葉を伝える。
「……私が?」
「ええ、お嬢様がこの間お願いしておいた本を持ってきて欲しいと」
この間お願いした本。
それは午前中に渡したはずだ。では……。
アレックスは疑問を顔に出さず素直にかしこまりましたと告げた。多分、ミランダは用事のためではなく、ただ自分を呼んでいるのだろうと考えたからだ。
適当な本を一冊見繕って、アレックスは彼女の部屋に向かった。今までの三回の夢では見たこともないような屋敷の主たる部分に案内される。ミランダの寝室の扉を叩くと内側から扉は開いた。しかし顔を出したのはミランダの別の女中だ。中に入ってもミランダの姿は無い。と、ベッドの掛け布団がもぞりと動いた。
「ああ……なんてこと」
ミランダは枯れた声と泣きはらした顔で布団から顔を出した。
「ミランダ様……」
その有様にアレックスは言葉を失う。
大好きなヘンリーの失踪。それが彼女にここまでダメージを与えたとは。
「お前たち、下がって。大丈夫、この娘は怪しいものではありませんし、時間もほんのわずかです」
しばらく女中は逡巡していたが、もう一度強い口調でミランダが告げるとしぶしぶと言った調子で彼女は出て行った。ベッドで半身を起こしてミランダは言う。
「こちらに来て」
一礼してアレックスは彼女に近寄った。ベッドの下で頭を垂れるアレックスの肩にミランダは穏やかに触れた。
「顔を上げてちょうだい。あなたと私は友達だもの」
「そんな……もったいない」
「本の話ができる人なんていままでいなかった」
ミランダの言葉はこの時代、女には不要とされていた学問についてだけではないように思えて、アレックスは顔を上げてミランダを見つめた。自分よりよほど正統派の深窓のお嬢様であると思える。
ヘンリーと会って恋をした。
そしてこれは……これは史実では無いとしてもアレックスと会って、自分の気持ちを話せる友人を見つけた。
ミランダはアレックスを抱き寄せた。
「どうしてヘンリーはいなくなってしまったのかしら」
やはり、それで泣いて塞ぎこんでいたのか。
この閉ざされた一日の予定を狂わせてしまったのは自分かもしれないなどとはいえなかった。
今までの三回分では、今日はミランダは集まった親戚男性の狩りに付き合って、皆で狩猟場まで出かける予定のはずだ。
そこで茂みでミランダは転び、軽い怪我をする。手の甲を擦って出た血を、颯爽と駆けつけたヘンリーが拭ってくれるはずだ。それがどれほど頼りになる素敵な姿だったかをミランダは夜のパーティでうっとりとした顔で家族に語り、そして屋敷内のものが、そのエピソードをやがて噂として知るようになる。そんな幸せな日なのに。
自分のせいではない。そもそもここは年老いたミランダが作り出した世界だ。幻に過ぎない。でも友達を裏切ってしまったような気分になって、アレックスは言葉を失った。
「わかりません……」
「心配なの。何か理由があっていなくなるのであれば、間違いなく彼は何か告げてからいくわ。私に言わなくても、お父様には必ず告げるでしょう。誰にも知られず、しかも荷物もすべてここに置き去りなんて、どう考えても異常事態だわ。何か事件に巻き込まれてしまったのよ」
「ですから、今、総力を挙げて探しているところだと思います」
「心配でたまらない……」
その懸命さがアレックスにはまぶしいほどだ。
誰かに恋をするなど、アレックスはいまだ考えられない。自分には守りたいと願うほど大事なものはロボしかないがそれは恋とはちがう。責務のようなものだ。
こんな自分がミランダになんと言って励ますことができるのかわからなかった。
「ミランダ様のご心配はわかります。でも、ここはどうか捜索隊の皆に任せて、あまり苦しまないでいてください。ミランダ様が嘆かれますと、屋敷内のものはもっと悲しみます。ここはヘンリー様のご無事を信じてお待ちください」
「……そうね」
彼女は受け取った本を抱きしめた。
「でも、お願いがあるの」
ミランダがアレックスを呼びつけた理由は次の言葉で明らかになった。
「何か聞きつけたら大急ぎで私に知らせて欲しいの。悪い話でもいい話でも」
「それは……」
「いい話であれば、すぐに私の耳に届くでしょう。問題は悪いことが会った時だわ。お父様もお母様もみな最初は私に隠すはず。そして耳障りのいい言葉でうまく伝えるでしょう。でも他の皆は私が聞くことのできない噂話を知っている。私ばかりが知らないというのはとても悲しいからどうかすぐに教えて」
「……承知いたしました」
ふいに寝室の扉が叩かれた。心配した女中達が困っているのだろう。
「ではミランダ様、何かありましたら、すぐに」
目をつけられないうちにと、アレックスはおとなしくそのまま部屋を辞したのだった。
ミランダ、ミランダ、ミランダ。
ロボは不機嫌を隠すのに少々手こずっていた。
アレックスはミランダのことで頭がいっぱいだ。仕方ない。今はナイトウォッチとしての仕事中なのだから、それは仕方ないとわかっている。
しかし。私に興味なさすぎじゃないですか?
ディクソンと共にアレックスの足取りを辿って夢に潜り、ミランダの屋敷に入り、あたりに気を使いながら必死にアレックスの姿を探した。アレックスが無事でいるかどうかばかり気になって、連れてきたディクソンのことを忘れそうになるほどだ。
夢魔が地上を満たし、人々の心を夢の形にして貪り食い、大勢を死なせていた時代は確かにあった。夢魔の全盛期、三千年ほど前だろうか。
けれど人は黙っていない。いつしかナイトウォッチという技術を発展させ、さらに血を濃くして魔眼という技術を最大にして使える血筋まで作り上げた。さらには、追い出すだけで倒せぬ夢魔を倒すために、武器まで作ったのだ。
けれどその頃にはだいぶ夢魔の数は少なくなっていて、そうなるとまるで運命共同体のようにナイトウォッチの勢力も衰えていった。ナイトウォッチの武器も、やがて歴史に埋もれて。
それから五百年、滅んだかのように夢魔はおとなしくしていたようだが、食料の供給が安定し戦争で文明が爆発的に発展し、そして世界の人口が増えると共にまた一気に増え始めた。
ロックハートに従っていたロボは途方にくれる。
この時代、己が仕えるに相応しいほど力を持ったナイトウォッチがいるとも思えなかった。夢魔とナイトウォッチのかつての全盛期にだって彼らの主に相応しい人間などそうそういなかったのだ。ナイトウォッチが以前培った技術の大方を忘れてしまったことを知って本当に残念に思うが仕方のないことなのかもしれない。必要のないものをいつまでも抱えているわけには行かないのだろう。
付き従う主人もいないままロボは人と国の興亡を見続けてきた。アレックスの祖母ケイトと出会ったのはかれこれ七十年以上前になる。
ロックハート家でもナイトウォッチの数を激減させていた。現代ではすでにアレックスだけだが、ケイトが少女の頃ですら三人しか残っていなかったのだ。ロボを譲り受けたケイトは孫のアレックスの素質を見抜いていた。
ダリルの件もアレックスに才能があったからおきてしまった事件だ。彼女はケイトから教えを受ける前に自分で潜行することを理解してしまったのだ。
何度もアレックスの心に潜ったケイトでも、彼女を元に戻すには長い時間を必要とした。
「救えますか?」
尋ねたロボに老いたケイトは短く答えたことがある。
「私には救いきれないかもしれない」
ケイトは淡々と語った。一見冷たく見える口調だったが、彼女は人前で感情的に嘆かない人だと知っている。
「いつか彼女はちゃんと言葉を話して普通に見えるようになるかもしれない。でも一度損なわれてしまった他人への信頼を取り戻すのは彼女自身にしか出来ない」
ケイトはすがるようにロボを見た。
「あなたに期待は出来ないのよね」
「武器である私は人を救えないんです」
ロボははるか昔の知識を思い出しながら告げた。
「人を救うのは、現実世界だけです」
孫のために老いた身を鞭打って潜行し続ける祖母のいたわりのようなものだけが、人を救う。
ともかくその時ロボがアレックスにできることはなかった。ロボがアレックスに寄り添うことに決めたのは、長い間の友人であったケイトのため。そしてケイトが死ぬ前に言った言葉で、ケイトが亡くなったあとはアレックスのそばにいることにした。
「アレックスのことをよろしくね」
ケイトが言ったから。
ケイトのためにと思っていたロボだが、それは次第に変化していった。特にケイトが亡くなってから。彼女はロボのことを調べ始めて。そして決めたのだ。
ロボは夢魔を食べて生きる。食べられなければ死ぬ。
ケイトもまあ、ろくでもないことを書き残してくれたものだ。アレックスはその日から変わろうとした。ケイトからアレックスに興味が移り始めた自分も変わっていったのだろう。
いつしかアレックスの武器になろうと決めていた。
それなのに。
アレックスはロボの詳細を知っても、けして契約を結ぼうとはしなかった。無理やり契約を結ぼうとした人間も居たほどに、この自分は価値がある武器だと知っている。それなのにこのガキ。
理由を問うても肝心な事ははっきり言わない。
ただ、彼女が自分を人間として扱い道具としてはみていないということが伝わってくるだけだ。その良し悪しは自分には判断できない。道具としての自分は中途半端な扱いにもやもやするが、それでも彼女の態度は……。
嬉しかった。
彼女の武器でありたいが、道具扱いしない彼女を愛している。その矛盾ごと彼女が好きだった。
だから、彼女の武器であることには依存は無いのに、それをアレックスが良しとせず、あまつさえ、何を思ったか、自力でナイトウォッチとして成長すると言って、単身初めての夢に入ってしまった。おいお前、ここに私というものすごい武器があるんですけど、どこに目がついているんだと怒鳴りつけたい気持ちだ。
ディクソンを連れて行くことに異議はなかった。実際ディクソンは足手まといなくらいだが、彼がいれば理由が立つ。ようやく図書室で彼女を見つけた時には安堵のあまりへたり込みそうになった。情けない。
そうだ、自分は彼女が好きだ。大事で、自分のものにしておきたい。この自分が彼女の一番の武器だ。アレックスの気持ちなど知るか。
俗な言い方をすれば、キレたのだ。
で。
……そこまで考えた時、こちらのアレックスが二本のケヤキのほうに向かってくるのが見えた。
「いらっしゃいましたね」
ディクソンが帽子を被りなおす。ロボとディクソンを見てアレックスは苦笑いだ。
「ヘンリーは見つかるはず無いわよね」
ディクソンも肩をすくめた。
「まあそうですね。それでどうやって、ミランダに介入されるつもりですか?」
ディクソンは屋敷のほうを眺めながら聞いた。
「ちょうどヘンリーの失踪でミランダがぐらぐらしているここでもう少し揺さぶれば夢だと気がつきやすくなるかなと思うのよ」
「鍵となる場所をお探しください」
ロボはアレックスに忠告する。
「この屋敷のこの繰り返される一日がミランダの愛すべき日なのでしょうが、彼女自身の象徴でもあります。彼女が見たくないものの……みれば必ず夢だと気がついてしまうようなものも潜んでいるのです」
「わかった」
アレックスは頷く。最初はそれがヘンリーかと思ったが、どうやら違うようだ。アレックスはミランダの日記の最古の一冊を思い出す。
それが終った日のことを。
アレックスの屋敷の手前の曲がり角でジャックはタクシーを降りた。そのまま屋敷の裏手の目立たない場所まで小走りに駆けるとたどり着いた場所で屋敷を囲む塀を眺める。一瞬ためらったあと金属の柵に手足をかけて乗り越えた。乗り越えた先は綺麗に剪定された潅木だった。低い植え込みにかがめた身を隠しながら、屋敷の表に回りこんだ。
一番目立たない隅の部屋の窓が割れていることに気がつく。思わず呻く。ガラスは内側に飛び散っているようで、庭には輝くものは無い。間違いなく侵入者だ。割れた窓の下に駆け寄るとそっと頭を出して中を覗く。その部屋にはもう人はいなかった。急がなければ。後追うようにジャックはその部屋に窓から入り込んだ。
何人送り込まれたのかわからないが全員武器を装備していると考えて間違いない。クーパーが狙っているのはミランダだけだろう。とはいえきちんと区別してくれるなどと思えなかった。まだ全員ミランダの夢に潜っているに違いない。間違いなく巻き添えで皆死ぬ。
ジャックは背広の上着に隠してあるホルスターから銃を引き抜いた。そのままゆっくりと部屋の中を進み、廊下を覗き込んだ。人の姿は見えない。
だが間違いなく向こうに気配を感じる。
できればマシンガンなどは勘弁してもらいたいと願いながら。




