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 アレックスにはまだ明確な野心は無いが、願っていることはある。

ロボが夢魔を食べなければ生きていかれない……だからこそナイトウォッチに従う武器であり得るのだと知ったのは、ケイトが亡くなってから随分たってからだった。

 どうしてケイトは……祖母はアレックスにそれを伝えなかったのかと思う。ロボは人ではないとしてもアレックスのそばにいつでもいた。生命とは違う範疇の彼の人生は驚くほど長い。代々ロックハート家に仕えて来たのだ。昨日一昨日と食べなかったから死ぬというものではないようだが、それでも彼に夢魔は必須なのだ。


 そしてロボもなぜアレックスに言わなかったのか。

 彼はその長い生に飽いているのだろうか。だからアレックスがナイトウォッチとして動かないことを良い理由として終わらせようとしているのか。それならば、アレックスが行動することは彼の希望に反するのかもしれない。

 それでも。

 アレックスは決めたのだ。


 彼がどう望もうと、自分の手で死なせてしまうわけには行かない。だからアレックスはナイトウォッチとして動くことにした。彼に夢魔を食べさせなければならないから。

 でもロボと主従の契約はしない。彼がどこかに行きたいのであれば、自分はそれを受け入れる。ナイトウォッチの武器以外の人生を彼が望むなら、それを支援してもいい。ケイトがアレックスの幸せを、その詳細は漠然としていても願ったように、アレックスもロボの幸せを願っている。

 だって一緒にいてくれた人だもの。人間ではなくても一番大事な存在だ。

 


 額に衝撃を受けた後、目の前に火花が散った。

 そして降りかかってくる固い物達。ああ、本だ、と漠然と思う。

「アレックス様!」

 と、頭上から声が聞こえて。

 お前のせいだ、お前の!と思ったが、目の前のチカチカが消える頃には、ぶつけたショックで朦朧として、何に怒っていたのか忘れてしまった。

 ちりん、とどこかで鳴っている鈴の音が聞こえる。


「うわあ……いった……い」

 彼女は額を押さえながら体を起こしてその場に座り込む。見上げてみれば脇にあるのは脚立だった。そうだ、この上から落ちたのだと思い出した。周りには本が散らばっていた。

 ああ、そうだ。ここはミランダの屋敷。その図書室だ。

はるか遠くまでぎっしりと書物が詰まった棚が続いている。本好きの彼女にとってはまるで夢のような愛すべき風景だった。

「大丈夫ですか?」

 それを遮って近い距離から覗き込んできたのは、見知った顔だ。


「これ何本に見えます」

 目の前で彼が立てた一本の指がひらひらと揺れた。

「一本」

「結構です。私のことはわかりますか?」


 二十代半ば、短く切りそろえた黒髪の青年は、どれほど見慣れても驚くほど端正な顔をしている。通った鼻梁やすっきりとした輪郭は高貴さを感じさせるが貴族的というには彼の肉食獣を思わせる目は鋭く野性味を帯びていた。ほっそりとして頼り無げに見えるが、それは彼が長身だからであって、黒尽くめの衣装の下では実際は滑らかに筋肉がついて均整の取れた体躯を持っているのであった。

 星の美しい夜空を埋め込んだような黒い瞳で彼は自分の名前を問う。

「ロボ」

 そうだ。彼はロボ。今まで何度そう呼んだかわからない馴染んだ名前。

 ずっとそばにてくれた、でも人にあらざる存在。


「ではあなたは」

「……アレックス。アレクサンドラ・ロックハート」

 ロボは鮮やかに微笑んだ。多分、安堵なのだろう。そしてアレックスの手をそっととって立たせる。

「ああ、鈴の音が、聞こえるわ」

 夢に潜る時仕掛けていった鈴の音が耳に届く。現実で聞くよりもゆっくりと間をおいて聞こえるのは時間の流れ方が違うためだ。

「よかった。頭から落ちたので心配したんです」

 一体何人の御婦人方を夢中にさせるだろうと思うほどの微笑みとその低く耳に心地いい声でロボは言う。


「私の大事な主人がアホの子になってしまっては困りますからね。ああ、もちろんもともと生まれついて間が抜けているという事は重々承知しておりますよ。今もすごい勢いでミランダの夢に囚われていましたね。私がこなかったらどうするつもりだったのですか。ケイト様はこんな失態ありませんでした」

「お祖母様と比べるのはやめて。あの人は才能だってずば抜けていたんでしょう」

「潜在能力を比べたらアレックス様のほうが上ですよ。それを使いこなせない不器用さに腹が立ちます」


 そう、ジャックや家族など他人の前では礼を失わない態度を心がけているロボだが、実のところはこんなものなのだ。立て板に水とはこのことかとばかりに、始まって三秒で絶好調の説教だが、それも馴染み深いものだ。だが懐かしんでいる場合ではなかった。


「……ロボの口やかましさにはすでに胸焼けしているけど、とりあえず感謝はする。たった今いろいろと思い出せた」

 どうして忘れていたんだろうと思うような、大事なことを。アレックスすら惑わすとはさすが政府の一流ナイトウォッチを叩きのめした夢魔だけある。

 ロボの手を放し、アレックスはすっくと立ち上がった。スカートの埃を払う。髪を一つにまとめ、女中用の紺色の地味なドレスを彼女は身に着けていた。


「たった今まで私は自分のことをこのお屋敷勤めの娘だと思い込んでいた。ロボはわたしにどれくらい遅れてきたの?」

「一時間七分八秒。申し訳ありません、少々トラブルがありました」

「夢の中の体感時間はおよそ現実よりだいぶ長いから……うん、大体あっているわね」

 アレックスは頷く。


「ミランダの夢はループ型だわ。同じ夢を細部を変えて、繰り返している。同じ一日の今はもう三回目。しかもわたしまでその出演者として巻き込んだ。多分中央捜査官のナイトウォッチもどこかで出演者としているわね」

「起こしますか?」

「いいわ。協力体制が得だとわかってからで」

 アレックスはそして彼の背後にいる人間に気がついた。

「ディクソン中央捜査局前総監をお連れしました」


 ロボは主人であるアレックスに対するよりよほど恭しく手の平をその人物に差し向けた。

ディクソンは夢に潜る直前発作を起こしたが、予定に遅れつつもなんとかアレックスを追ってロボと共にミランダの夢に潜った。年齢はすでに七十歳を超えているだろう。しかし矍鑠としており、目にも威厳があった。


「お待ちしていました。お体のほうは?」

 夢の中ではその見た目から体調を推し量ることはできない。ディクソンは静かに微笑むに留めた。アレックスはその微笑で彼の寿命の残り少なさを察するが、今、ここではどうにもできない。それよりも体調を押して協力してくれている彼の期待に応えるほうが先だ。

「この屋敷の中は、同じ一日を繰り返しているわ」

 アレックスははっきりと言った。


「私はもう三回、同じ一日を体験した。今は四回目。少しずつ違うけど、でも大筋は同じ。舞台もこの場所」

「ここはミランダの屋敷ですね?」

 なぜか懐かしむようにディクソンはあたりを見回した。もしかしたら彼の若い頃を思いこさせるものがあるのかもしれない。ここは現代のミランダ・エイムズの屋敷ではないのだ。それよりずっと前の屋敷。彼女がまだ結婚せずミランダ・デニスだった頃の住まいだ。

「ええ……でもきっと、ミランダがまだわたしと同じ年頃の時に住んでいた屋敷だと思うわ。今からもう六十年以上前」

「そういわれてみれば、その衣装もなんとなく古めかしい女中服ですね」

 ロボが頷く。


「自分を取り戻したアレックス様なら、いつものあの腐ったようなジーンズと頭のおかしいあのシャツ姿に慣れますが戻られますか?」

「……いいわ、とりあえずこのままで。って、別に服の趣味をバカにされたからじゃないからね!」

 まだ、ミランダの夢の出演者として認識されているのなら、その方が動きやすいだろうと思えたのだ。

「ミランダの少女時代は裕福だったようですね」

 ロボは事前に調べたことを口にした。

「そのようね。貿易商を営んでいたミランダの父はそれなりに儲かっていたみたいね。でも父親が亡くなって、それから家が傾き始めた」


 だからこの屋敷はもうない。

 敷地は広いがアレックスから見たら古臭いし質素な家だ。しかし庭は丁寧に造園され、花が満ちていた。室内も片付き、先祖代々伝わる美術品や家具があつらえてある。歴史と家族の中のよさを感じさせるよい屋敷だ。しかし没落後売りに出され、後に取り壊されて現代では分譲されて高級住宅街の一部に変容してしまったのは見てきたとおりだ。

 アレックスは図書室の壁にかかっている少女の肖像画をなんとなく眺める。二体の人形を抱えて微笑んでいるその絵には、なぜか、嫌な気持ちにさせられる。アレックスはとりあえず話に集中することにした。


「それで、ミランダは?」

 夢魔から目覚めるために必要な事は、夢を見ている人間が、これは夢だと認識することだ。その瞬間に、夢魔の魔力から解放されて人は目覚める。しかし夢魔の用意する夢は大抵心地よいものだ。誰もがこれを夢だと認識することを拒むほどに。

 また覚醒直前に夢魔が介入してくることもある。人の精神を食べる夢魔にしてみれば覚醒は都合が悪い。


 まあそれはいまのところ別の話だ。

 と、廊下のほうから足音が聞こえてきた。

 三人は顔を見合わせた。アレックスは二人を図書室の一番奥の書棚に隠す。図書室の外の足音は軽やかに近づいてきた。


「いた!」

 図書室の扉からこちらを覗き込んだのは、アレックスよりも少しだけ年上の娘だった。きらきら光るブルネットの髪は品良くまとめられ、着ている物はアレックスとは比較にならないほど質の良さそうなものだった。可愛らしい顔立ちによく似合っている。

 良家の子女らしい花柄のドレスは、現代を生きるアレックスからしてみれば、裾がだいぶ長い。ウエストもしぼられていて今ではあまり皆つけていないコルセットの存在を思い出させる。十六歳の誕生日に無理やり着せられたが息苦しさに死にそうだった。この時代は恒常的にこれをつけていたのかと思うとミランダに尊敬の念すら覚える。


「ミランダ様」

 アレックスは咄嗟に深く頭をさげた。

 すでに思考の制限は失われているが、今のところこのシナリオを続けたほうがいいだろうと思ってのことだ。後に麻薬売買の妖婦と言われることが信じられないような明るい純真な笑顔でアレックスに微笑みかけた。笑いながらはつらつとした声で言うミランダは、ただの年頃の娘だ。

「顔をあげて。それとも私がしゃがんだほうがいいかしら」

 ミランダは図書室には入ろうとしないで、入り口から覗き込んだままアレックスに話しかける。


「頼んでおいた本は見つけてくれた?」

 ああ、とアレックスは『女中としての設定として』約束したことを思い出した。図書室の隅にある自分の作業台に向かう。作業台といっても図書室の雰囲気を損なわないための立派な木製のデスクだ。現代では家具はもっとシンプルに洗練されたものになっていてそれが流行であり美しいとされているが、この時代の華美な装飾には圧倒的な芸術性がある。


「こちらでございます」

 図書室の入り口まで向かい、そこに佇むミランダに差し出したものは、図書室の奥深くに埋もれていた一冊の本だった。嬉しそうに彼女は受け取る。商売の基本について書かれた書物だ。

「ありがとう!」

 ミランダにとって見れば召使であろうに、彼女は迷う事無くはきはきとした声で礼を述べた。

「こんな本を読んでいると知られたらお父様にすごく怒られちゃう。アレックスと知り合えてよかったわ」


 ミランダは、アレックスからしてみれば自分と同じように本好きでちょっと変わり者の娘にすぎなかった。この図書室を一番利用しているのは彼女では無いだろうかと思えるほどだ。その趣味は多岐に及んでいる。なかなか書物を探す時間が取れないミランダに代わってアレックスが彼女の希望の書物の創作を引き受けたのだった。もしかしたら実際にそうした仲の良い女中がいたのかもしれない。


「でもミランダ様、お忙しいでしょうに。あまり夜更かしして読書などされますと、疲れてしまいますよ」

「大丈夫よ」

「だって今日はヘンリー様とお約束があるんでしょう?よく寝て可愛い顔でどうピクニックを楽しんでください」

「まあ!」

 ミランダは頬を染めた。


 ヘンリー。三回目ともなれば慣れた名前だ。

 しばらく前から屋敷に滞在している遠縁の若者だ。非常に成績優秀であり旧本国への留学が決まっていた。この屋敷には立ち寄っているだけで、彼の人生はこれからだ。まだあどけなさはのこるものの、すでに責任感が芽生えていることがよくわかる凛々しい表情をしていた。

 すでに同じ一日を三回繰り返しているアレックスには、ミランダが彼に恋心に近いものをいだいていることはよくわかっている。


 残念ながらこの繰り返される夢の一日でもそれを越えた先にある現実の歴史でも、ミランダと彼が結ばれることは無い。ヘンリーはやがて旧本国へ留学するべく出て行くことになるし、ミランダも没落してまったく思いもしなかったであろう人生を歩むことになってしまうのだ。ただ、淡い恋心というものだけはアレックスにも想像はついた。テレビジョンでも恋愛ドラマは結構見ているし。


 そして気がつく。

 やはりこの循環する一日は、ミランダが愛しいと思う記憶が中心に据えられていることに。

 掘り返してきたミランダの日記には彼のことしか書いていなかった。まるで恋愛小説のような日記であった。

 日記の始まりは、ヘンリーの到着だ。年齢の近い二人は気があって多くの時間を共にすごく。そして彼女は彼に恋をする。ミランダの十九歳の誕生パーティが開かれ、最後にヘンリーは旧本国へ去っていく。


 ミランダは、その一年後に父親を亡くし家業か立ち行かなくなる。その時に彼女は自分の学んだことで必死になって家を建て直そうとしたらしいが、うまく行かなかった。サイモンとはその頃に知り合ったらしい。まだ彼もさほど地位が上ではなかったが自由に動かせる金があった。

 ミランダの家の借金を整理してもらい、その代わりに彼の妻になったようだ。サイモンはその力量を代われ、組織内でのしあがっていく。ミランダもサイモンというパートナーを得て、商才を高めていった。

 扱っているものは非合法の麻薬だったわけだが。


 今ここで、初恋に頬を染めている少女が麻薬王の片腕となってしまうなど、まるで想像ができなかった。ミランダの記憶の中で多少美化されているのかもしれないが、概ね実際にあったことなのだろうと思われる。

 この一日がミランダにとって人生で一番楽しい日を集めた記憶がもとにあったのではないだろうかということは推測できた。責務もなく、まだ結婚の具体的な話もない。……なによりも彼女は恋をしている。


 美しい記憶の中でミランダは眠り続けている。

 夢の世界のミランダに彼女のこの先の人生を話すつもりは無い。ただ話しても拒絶されるだけだ。それほどの夢魔の夢は甘く美しい。現実など話してもそれで目が覚める人間はほとんどいないとナイトウォッチの中でも言い伝えられている。 

 起こすには、何かの形で強くこれが夢だと認識させなければならないのだ。アレックスはそのきっかけを探すのが役目だ。


「ありがとう、楽しみに読むわ。ああそうだわ、これあげる。後で食べてね」

 ミランダはアレックスに小さな包みを渡した。綺麗な包み紙で覆われたそれはおそらく焼き菓子だろう。

「ありがとうございます」

「ヘンリーにパイを作ってあげるって約束していたから、昨日練習したの。それはその時のおまけよ。すこし失敗作ね」

「でも嬉しいです。きっとヘンリー様も喜びますよ」


 アレックスの言葉にミランダは少女らしいはにかんだ笑みを浮かべて、図書室の入り口から立ち去った。よく考えてみれば、今は確か彼女は裁縫の勉強の時間では無いだろうか。教師が多分探しているはずだ。ミランダはあまり刺繍が得意ではないから逃げ出してきたのだろう。

 若い娘としてのわがままを持つミランダ。

 新聞に書かれている名前に過ぎないミランダだったが、この閉鎖された空間でアレックスは彼女に愛着を覚えるようになっていた。夢の登場人物ながら、ミランダも親しく接してくれる。……まるで友達のように。


 どうせ終わってまた最初に戻ってしまうとわかっていても、ミランダの恋が幸せであるようにと願ってしまう。その一方で自分は彼女を起こさなければならない。それは間違いなくミランダの幸せの終わりである。

 自分のしようとしていることが、途方もなく無慈悲なことに思えた。


「アレックス様は、自分がミランダの幸せを終わらせる非道な人間だとお考えですか?」

 ふいに背後から呼びかけられた。ぎょっとして振り返ってみれば隠れていた棚からでてきたロボだ。その長身でアレックスを見下ろしている。

「馬鹿な考え休むに似たり、です」

「言うと思った」


 ロボとの付き合いは長い。彼の偉大な才能の一つは「今、アレックスが言われたくないことをずばり言う」である。


「私は長い間、アレックス様に仕えています。あなたがミランダを好ましく思っている事はわかります。しかし情に流される事はお奨めできません。あなたはあなたが成すべきことを最優先に考えなければならないからです。ミランダの肉体が死ぬ前にここから出なければ、我々は死にます。先に閉じ込められてしまった中央捜査官のナイトウォッチも」

 ロボの言葉はいつでも正しくそしてアレックスのことを一番に考えてくれている。口が悪くてもそれくらいは感じとれる。


「あなたが成さねばならないことを良くお考えください」

 ロボは最後に重ねた。

 それには返事をしないで、アレックスはただ誰も居ない図書室の中を進んだ。そして窓を大きく開く。初夏の風が室内に入り込んできた。

 今までの三回分の過去を思い出そうとする。そうだ、確か使用人達からミランダとヘンリーの噂話を聞くのだ。


「わたしはちょっと使用人達に会ってくるけど」

「我々は屋敷を調べてみます。日記が埋まっていたケヤキも覚醒のきっかけになるものかもしれません」

「じゃあお願いするわ。あとでケヤキのところに行くわ」

 一端解散することにして、アレックスは図書室を出た。そのまま半地下の使用人部屋に向かう。そこではちょうど昼食を取っているはずだ。


 使用人部屋では向かうとすでにそこはごった返していた。昼食のパンと簡単なスープが配られている。そこで女中仲間のリズが声をかけてきた。二人で席につくと食事をとりドネリーめる。

お疲れ様、と声をかけてくれたのは、庭師のジョセフだった。すでにかなりの老齢だが、ミランダの父の信頼厚く庭園の一番重要なところを任されている。その温厚さが好きだった。どれほどミランダの記憶が正しいのかは未確定だが、使用人一人一人の個性を彼女は精密に再現していた。

 アレックスが関わったのは三回だが、ミランダが夢魔に囚われて随分たつ。無限に繰り返される一日をミランダはどんどん仔細に作り上げているのだろう。


「図書館の花は枯れていないかい?」

「まだ大丈夫よジョセフ。また不足してきたらすぐに言うわ」

「女中頭のアリンガムさんは細かいことにやかましいからね」

「でもアリンガムさんも、キャンディーを下さったりと優しいところもあるんですよ」

「そうか、よかったな。そういえば、うちに見習いが入ったんだ。キースっていうんだ。あとで紹介する」

「ありがとう。そういえば厨房のアンナが腰が痛いといっていたから後で薬草を取りに行くわ」


 思考の抑制が取れてしまってどうなることかと思ったが、まだシナリオには組み込まれているようだ。それを知ってアレックスは安堵した。それは怪しまれずに済むというだけではない。

 この愛しい人々から追い出されなくてよかったと、そういう思いがある。この屋敷で一緒に居る人間達にはアレックスは愛着を抱いていた。優しいリズ、楽しい二人の同室者、親切なジョセフ、厳しいが意地悪ではないアリンガムさん。よくお菓子をくれるアンナ。その他にも様々な人々がいる。


 そして、気のあうミランダ。


 彼らがミランダの思い出から引っ張られてきた彼女の無意識の産物だという事はもうわかってしまっているが、だからと言ってそれだけの存在だと割り切ることも出来ない。

「大丈夫?」

 トレイを前に、ぼんやりしているアレックスにリズが心配そうに声をかけてくれた。

「あ、うん、平気」

 にっこりと笑ってアレックスはパンを手にした。


 もしかしたらと思う。

 自分がしっかりしていればこんな夢魔の術中に嵌ることもなかったのではないか。でもこの封印された場所があまりにも楽しくて優しくて快適で。だから好きで自分から閉じこもっていたのではないかと。この場所を自分は果たして壊すことができるのだろうか。

 アレックスにすら優しい世界、ミランダにとってはどれほどに。


「おい、大変だぞ!」

 アレックスの思案は、ふいに食堂に響いた大声で遮られた。顔を上げてみれば、馬丁の青年が食堂に駆け込んできたところだった。

「ヘンリー様が大変だ」

 どうしたと、好奇心でいっぱいの視線が彼に向けられた。

 ミランダがヘンリーを憎からず思っているというのは、わりと屋敷内でも有名である。なにか恋愛として発展でもあったのかとわくわくしている食堂の人間に冷たい水をかけるようなことを彼は言った。


「居なくなったんだよ」

 ざわめきが食堂内に走る中、アレックスは声も出せずに目を見開いていた。

「ヘンリー様の姿が屋敷のどこにもないそうだ」

 四回目。

 今までに無かったことが起きた。

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