未来的?思考法
【仮説?】
「仮説」という言葉がありますね。少し奇妙な言葉だなと思いました。
というのも、近代的な科学というのは、その全体が仮説だと言われます。それは本当のことです。
【引力?】
例えば、1642年生まれのイギリス人であるアイザック・ニュートンが「万有引力の法則」を発見したと言われます。
「万有引力の法則」とは、地球上で物が落下するのみならず、もっと広く宇宙一般で、無数の星々についても同様に、質量に応じた引力が存在しているという考えです。物理学的な発見でした。
以後、万有引力の存在は、科学的な事実であると見なされてきました。
ただし、科学的な事実であるとは、万有引力の法則が実際の観測と矛盾していないということにすぎません。
つまり、万有引力の法則は、どんなに実証されても「仮説」のままです。
同様に、全ての物理学の法則は永遠に仮説止まりであり、近代科学全体もそうです。
【事実?】
一方で、仮説という言葉には、妙なニュアンスも伴います。
例えば、仮説が実証されれば事実になる、といった物言いがされることがあります。
その厳密な意味は、現実について優れた説明力を持つ便利な仮説だと確認された、というようなことです。
つまり、仮説というものは、どこまで行っても仮説です。
しかし実際、仮説が実証されると事実になる、という考え方は便利です。つまり、脆弱な仮説と強力な仮説にそれぞれ呼び名を与えて、「仮説」と「事実」などと簡単に呼んでしまうと便利です。
でもかといって、仮説ではない事実があると考えてしまえば、それは誤解です。
人間という生き物の脳は、そんな誤解をしやすい性質を持っています。
【モデル?】
この点について誤解なく言葉を使うためには、仮説を「仮説」ではなく、「モデル」と呼ぶことが便利です。
何々仮説だとか何々説と呼ばれる全ては、何々モデルと呼んでしまえます。
日本語で「模型」と呼ばれることもあり、個人的には好きなのですが、「モデル」と言われることが多いので、ここでも「モデル」と呼んでいきます。
【呼称?】
しかし普通、事実だと見なされることについては、あえて仮説と呼称されず、モデルや模型とも呼称されません。
例えば私達は、普通、この世界に、人間や犬や猫が存在すると考えます。それは厳密には、人間モデルや犬モデルや猫モデルにすぎません。もしも世界に、人間や犬や猫の中間的な存在のほうが多ければ、人間や犬や猫という捉え方はほとんど意味を失います。
人間が意識する全ての概念が、そうです。
全ての概念は、経験的に便利と感じられたものにすぎず、将来に渡って普遍性が保証されたものではありません。
例えばある日、彗星が通りすぎた影響で、男性や女性の半分が中性になってしまうかもしれません。ある日、目を覚ますと、時間も空間もない世界に自分がいるかもしれません。
いわゆる「事実」というものは、人間の脳にとっては、そのようなものにすぎないのです。
だから、あえて常に「〜モデル」と呼ぶ面倒を避けて、ほとんどの概念を簡単に呼ぶことは、合理的です。
【水槽の脳?】
よって、ある人間が、何らかの客観的な事実の存在を確認することは不可能です。
そのことを説明する思考実験として、「水槽の脳」という仮説があります。
「水槽の脳」とは、解剖学的に抽出された脳だけを水槽に入れて、その神経に適切な電気刺激などを与えれば、ある人の体験を再現できるという考え方です。つまり、この世界に生きているどの人も、自分が体験している世界や他者の全ては仮想的で、実際の自分は水槽の脳にすぎない、ということを否定しきれない、ということです。
これは、私達の生活感覚とは異なる、少し気味の悪い考え方ではあります。しかし、「水槽の脳」仮説が示していること自体は、論理的には事実です。
【仮説の正しさ?】
ですから、全ての認知は、仮説です。
しかしそのことは、全ての仮説が相互に等価な価値や正当性を持つ、ということではありません。
例えば、地動説と天動説では、地動説が科学的な事実です。また、地球球体説と地球平面説とでは、地球球体説が科学的な事実です。
なぜなら、地動説や地球球体説のほうが、実際の観測と整合性が見られるからです。
しかし、私達は地球の自転に沿って動いていますし、地球は大きくて平面と見なせる場面も多いので、私達の生活感覚の中では、天動説も地球平面説も、ある意味では永遠に生きつづけると言えます。
全ての観測も観測したその瞬間から仮説にすぎないのですが、仮説同士について論理的な整合性を考えることが経験的に便利なので、実際、仮説同士について論理的な整合性が問われて、仮説らの価値や正当性には優劣が認められる、ということです。
【誤った仮説?】
歴史的に、様々な仮説が存在しました。その多くが、科学の進歩に伴って否定されていきました。
例えば、地動説が天動説に勝利しました。
それでは、天動説を主張した人々は、間違った悪いことをしてしまっていたということになるのでしょうか? 現代から見れば嘲笑されるべき存在として、低い尊厳で見られて当然の存在なのでしょうか?
そうではありません。全ての成功や進歩は、数え切れないほどの失敗の上に成り立ちます。
歴史的な観測器具は技術的に未熟であり、誤差の大きな観測値しか得られません。また、記録や通信の技術にも制約がありました。地上の物体に働く慣性の動きや、空の星々の動きについても、地球があまりにも大きかったり、星々が太陽系からあまりにも遠くにあったりするために、微小な作用は誤差に吸収されてしまいます。歴史的に試みられ結果的に否定されたほとんど全ての学説は、推論の方法としては一流のものでした。
物理学的な現象をうまく説明するモデルや数式を導き出すことは、難しい作業です。結果的に否定された全ての仮説や考察が、現代の技術的な、経済的な繁栄へと貢献してきました。
科学は、逐次的に、順当に進歩してきたと言えます。劇的な勝敗のようなものは実際にはまずありません。
【迷路?】
例えば迷路があって、道が2つに分かれている時、西の道の先を見てきた人々が、「この道の先は全て行き止まりだったよ」と言ったとします。その情報があってこそ、「じゃあ東の道を行こう」と判断することができます。全ての仮説というのは言わば、迷路の分岐を確認していく作業です。「結果的に東の道が正しかったのだから、かつて西の道を行った人々は愚か者だな」とあざ笑うことは誤りです。
人間の日常的な処世術についてもそうです。
人間の考え方や判断のあり方には、時代的・地域的な文化的な傾向があります。それは、無数の人々の試行錯誤の中で結果的に人気を得てきた考え方や判断のあり方だということになります。
人間はたいてい、幼い頃から周囲の人々の考え方や振る舞いに影響されます。自分のオリジナルな考え方でだけ生きてきた、という人は、実際にはほとんどいないことでしょう。
よって、人間の社会や人類全体は、「集合的知性」、「集合知」と呼ばれる知性を備えていると考えることができます。
【言語?】
確かに確認できる社会的な集合知の成果としては、私達が日常的に使用している「言語」があります。例えば日本語です。
言葉には、時代によって流行があります。「この言葉いいね」とか、「この言葉は私が伝えたいことをうまく表わしてくれるな」と思われた言葉が流行っていきます。一方でまた、多くの言葉が失われていきます。
変化するのは、単語や慣用句だけではありません。例えば日本語と英語とでは、語順などの文法が異なりますが、文法もまた、長い歴史の中で変化するものです。
さらに歴史をたどると、言語の本質は、文字言語よりも音声言語にあったと考えられます。
人間の祖先の音声の歴史をたどると、コミュニケーションの手段としての音声は当初、動物のような極めて単純なものから始まったことでしょう。「それ以上こちらに来ると攻撃しますよ?」とか、「みんな警戒しなさい」といった意味で、ワーとかウーとか言っていたかもしれません。それが次第に複雑化して、有用性を認められたものの意味が共有され、「これはこう呼ぶのが当たり前」、「この意味を言いたいなら言葉をこんな順序にするのが当たり前」といった感じで、現代の言語に発展してきたと考えられます。
例えば、「リンゴ」という音声列によって、日本人のほとんどが同じような概念をイメージできます。「リンゴ」という音声的な記号列それ自体は意味を表さないのですが、記号列と実態との関連づけが「文脈」として共有されているため、簡単な記号列にまで情報を軽量化して概念を送信できているのだと言えます。
言語を学習するということは、文脈を学習するということです。文脈を学習することは、社会で生きていくために大切です。
しかしどの文脈も仮説やモデルの集まりにすぎませんから、客観的に絶対的に正しいということはありません。
【方言?】
言語においてはしばしば、標準語のように見なされる言語が発生し、その一方では、マイナーな方言が失われていきます。
どんなマイナーな方言や言語でも、その方言でこそうまく表せるニュアンスや味わいや気持ちというものがあります。ですから、方言が失われていくことは悲しいことだと思います。
しかし、それが仕方のないことだというのも、一面の事実です。
つまり、言語の標準化は、コミュニケーションの円滑化を通して、社会全体の生産性に深く関係します。世界各国は経済的な競争関係にありますから、言語の標準を一定程度重視することは、必要なことだと考えられます。
そのように、言語というものには、グローバル言語とローカル言語が常にあるのだと考えることができます。
【ローカル言語?】
例えば、いわゆる専門用語はローカル言語でしょう。
つまり、ある専門用語の意味は、専門家は聞いてすぐイメージできますが、知らない人にはよく分かりません。つまり、その専門用語の意味はその専門の人々において共有されていて、一言に深い意味が集約されていたりします。
言語というものの効率は、どれだけ多くを文脈に封じ込めて、実際の記号列をどれだけ簡潔にするかにかかっています。
極端には、数学において例えば「x」などと、数式の要素を一文字にまで単純化することが好まれます。
多くを文脈に封じ込めてしまわないと、言語表現も数式も、すぐにあまりにも煩雑になってしまい、間違いなく思考することが非常に困難になってしまいます。
しかし、多くを文脈に封じ込めるほど、その言語はローカルになってしまい、外の人々には通じなくなってしまいます。
【言語デザイン?】
なので、どういったものをどう文脈に定義するかという、言語設計が大切です。
一般に、多くの人が長く考えるほど、優れた言語設計が得られます。
既存の日本語や英語はもちろん、様々な専門領域の専門用語や、数学の記号の体系もそのようにして進歩してきた素晴らしい芸術品です。
言語設計とは、簡単に言ってしまえばやはり、仮説、あるいはモデルにすぎません。
どんな言葉や文法が便利かな?、と考えることは、どんな仮説が便利かな?、と考えることです。
【全ては言語?】
逆に、全ての仮説は本質的には言語です。
そのように、「言語」という概念は、いわゆる言語的なもののみならず、非常に観念的な感覚についても言うことができます。
例えば、人に伝わるわけはないと自覚しながら、ある考え方の枠組みや、観察の捉え方の観念を個人的に持っていて、内心の思考においてそれを繰り返し便利に使っていたとします。その思考に用いられている観念は、とうてい言葉で表せないものだとしても、ある意味では言語の要素だと考えることができます。
例えば、刺激と感情のパターンが考えられます。
人間は、怪我をすれば痛いですが、それは人間という生き物に組み込まれた言語だと考えることができます。怪我のリスクのある刺激を痛みの感情で受け取る仮説が、遺伝子にとって経験的に便利だったと考えることができます。
あるいはまた、ああいう顔立ちの人間はどうしても好きになれない、といった個人的な感情的嗜好が、例えばトラウマ的に形成されていたとして、それもまた仮説や言語の一種だと考えることができます。
空間を空間として捉える、時間を時間として捉える、色を色として捉える、その全ては言語です。言語には、人間という生き物に組み込まれた部分もあり、組み込まれてはいないが経験によって形成され意識によって変更しがたいものもあり、意識や訓練によって比較的に容易に変更したり習得できるものもあります。
後天的に習得できる言語のうち、最も成功した仮説がいわゆる「言語」、つまり言葉としての言語だと言えます。ですから、仮説一般をあえて言語と呼んでみることで、仮説というものがいかに身近か、その本質を捉えやすいと思います。仮説というものは、数理的な対象のみならず、観念的な概念をも対象とするのです。
しかし、「言語」とは普通、言葉としてのそれのことですから、たいていのシーンでは穏当に、「仮説」や「モデル」といった言葉遣いをすることが無難でしょう。
【科学の発展?】
そのように考えると、日常の言語を含めた全ての認知が、所詮は仮説であると分かります。
社会的な常識や、法律の権威といったものは、ある意味では絶対的ではなく、虚しい。
思考実験としてはすでに挙げた「水槽の脳」があり、古典的には紀元前から荘子の「胡蝶の夢」などがあります。
しかし、人間という生き物の認知は、つい、ある物事やある仮説を、事実だと割り切ってしまいやすい。直感的にはいかにも事実らしく感覚されるものが、実際にはかつての天動説と変わらない可能性を軽視して考えてしまいやすい。
でも人類が進歩してきたことも事実です。科学によって天動説は否定されました。
同様に、歴史的な宗教から現代的な科学へと、人間の世界観は少しずつ進歩してきたのだと言えます。
そして、科学の発展に伴って、人間が人間自身を見る見方、さらには、人間の知性が、人間の知性を見る見方が、少しずつ進歩してきました。人間観も考え方も、少しずつ、宗教から科学へと変化していったのです。
【古代?】
古代の世界観は、現代から見ると少し滑稽で、魅力的です。
例えば天動説や地球平面説が事実で、陸地の果てにはやがて海が広がっていて、海の果てまで船で行けば水が奈落へと落ちていたら少し素敵な気もします。あるいは世界を象が支えていて、その象達をさらに亀が支えていたり。
そういった全ての物語は、古代の人々が、得られる情報を元にして、「どうしてこうなっているのだろう?」と因果関係を考え、作った仮説なのだと言えるでしょう。
昔話の一部は、明らかに面白味を重視しているようにも見えて、必ずしも真実を探求しているものではないでしょうけど、一般的には、真実を探求する中で、自然と様々な仮説が作られたのだと考えられます。
例えば、男性と女性が夫婦になって子を産むのだとしたら、ずっと祖先をたどるとどこかで最初の男性と女性がいる気がしますけど、とすると最初の男性と女性とは誰から生まれたのでしょうか? 進化論という正解を知っている私達からすると退屈ですが、あえて考えてみると不思議ですよね! 子供にしつこく聞かれたら、最初の男性と女性は神様が作ったんだよ、って答えてしまうのも自然かもしれません。「えー、変じゃん。じゃあ神様は誰から生まれたのー?」って聞かれたら、「馬鹿だなあ、神様は最初からいてずっと死なないんだぞ」で、はい論破ですよ。
というわけで、神話的歴史観や、宗教の発生は、非常に自然なことだったと考えられます。
【宗教?】
人間の本能にとって、人間の中でも自分自身は特別です。遺伝子の生存本能がありますからね。
人間には、自分個人を過大評価したり、他者を否定してでも自分を肯定しようとする傾向がある。
同様に、人類にとって、動物の中でも人類こそ特別だと考えることは自然だったのでしょう。
多くの宗教の神話が、動物の中でも人間を特別に作ったとか、自分に似せて作ったと語っていると思います。
実際、有史以来の人間の繁栄は動物の中でも傑出しています。「私達がこんなに道具を作って使えるほど賢くて結果的に強いのって、神様が最強な存在だとしたら、私達が神様に特別に近いってことでは?」、と考えるのは、自然かもしれません。
そうして、宗教的な歴史観を聖書なんかにまとめてみたりしたのですが、近代科学の時代を迎えて、神話的な歴史観は実質的に否定されていきました。「えっ、神様っていないの?」、「運悪く死んだ善良な人って天国とかで報われないの?」って混乱なんかもありました。
【科学の夜明け?】
例えば西洋キリスト教世界の道徳の柱はキリスト教という宗教だったので、一種の混乱がありました。
新型の望遠鏡でどんな遠くを見て、顕微鏡でどんな細部を見ても、神様によると見られる痕跡が見当たらない。
つまり、倫理的矛盾を最終的に整合させてくれるモラルの責任者みたいな存在を仮想してきたのに見当たらなかったのですよ。
そこで彼ら彼女らが何をしたかというと、「いやいるはずだ」みたいに発奮して、もっと優れた望遠鏡やもっと優れた顕微鏡を作っていったのです。こうして近代科学の夜明けが訪れたのですが、夜明けを招いた人々はけっこう恐怖心でいっぱいだった面があるのです。「やべえ神様いないんじゃ?、いやいやそんなはずは」みたいな。
【人間機械論?】
なぜか近代まで発達が少なかった面のある解剖学も劇的に発展していきました。
人間と豚を大量に解剖したけど、なんでこんなにそっくりなの?、みたいな。神様が人間だけ特別に作ったという従来的な感性が水を差されます。
1596年生まれのフランス人であるルネ・デカルトは、いわゆる「動物機械論」と呼ばれる仮説を主張しました。これは、世界を非常に物質的な機械的なものとして捉える一方で、物とは別に心が存在すると考えるものでした。「実体二元論」といいます。
しかし、デカルトの「動物機械論」は彼の死後、「人間機械論」と呼ばれる仮説へと発展していきました。これはデカルトの考えとは異なり、心の作用もまた物質的な現象に還元して説明しきれるとする世界観です。「人間機械論」という題名の本が1747年に書かれてます。
こうして機械論は完成したのですが、機械論というのはすなわち唯物論です。
宗教的信仰の一部は、物理現象全ての主催者として神の存在を考える「汎神論」に移行しましたが、それは半ば詭弁であり、従来的な道徳観念を形成していたものとしての宗教は実質的に敗北しました。
しかし、人間機械論の立場に立って唯物論を徹底させると、人間の認知は脳神経の反応にすぎませんから、すでに説明したように、全ての絶対的実在を否定する結果、逆に唯心論を徹底させる結果にもなります。
【意識?】
そうして、歴史的な実体二元論は、科学的にはほとんど完全に否定されたのです。
しかし、通俗的には、実体二元論は強い人気を保っています。
「機械的な人工知能が発達しても意識を持つことはないだろう」
という意見はその代表例だと思います。
四則演算において電卓が人間にまさるように、人工知能がある種の判断について人間にまさることがあっても、人間の知的活動全体を代替しうるほどに人工知能が賢くなることは、近い将来にはまだ起こらないだろう、という意味では、その主張は正当でありうると思われます。
しかし、大雑把な仕組みとしては現在のコンピュータの構成を取りつつ、計算速度や記憶容量や通信速度がどこまでも向上しても、人工知能と人間には決定的な違いが残るだろう、という意味の主張としては、それは根拠を持ちません。
【深層学習?】
2012年頃から脚光を浴びた計算手法として深層学習があります。それを起点とする人工知能ブームが現在も続いており、多額の投資が続いています。
深層学習の特徴は、人工知能がブラックボックスであることにあります。例えば人間が神経回路を設計したあとは、ただ大量に入力を与え、各入力への人工知能からの返答に対して得点を与えます。より良い得点を得ようとするように人工知能をプログラムしておくことで、あとは訓練を繰り返すだけで成績が上がっていきます。
この方法は従来の主流とは異なります。従来は人工知能はブラックボックスではありませんでした。深層学習はブラックボックスであり、人工知能の判断が賢かったとしても、どういう理由でそう判断したか明確に探ることは、本質的に不可能です。人工知能の論拠は、これまでに入力された膨大な経験全体だからです。
深層学習は完全に新しい発明ではありませんでした。現代における深層学習の成功の主な原因は、コンピュータの性能が次第に向上してきたことでした。専門家によると、深層学習の基本的な方法論には、限界はないそうです。つまり、深層学習は、コンピュータの性能が向上するに従って、いくらでも賢くなるということです。
深層学習は、ニューラルネットワーク(神経網)を実装したものであり、人間などの脳によく似た構造を持っています。
こういった技術発展によって、将来的に人工知能が人間よりも賢くなるだろうという説もあります。
しかしここで重視したいのは、このような技術的発展が、私達人間が私達自身を正しく理解するためにとても有用だろうということです。
深層学習においては、人工知能の入力と出力の対応関係が、人工知能に内在する仮説です。そこには、外界の因果関係を反映した世界観が構築されています。
【コンピュータ?】
コンピュータは、知性の良いアナロジーです。人間の脳の知性を客観的に考えるために、コンピュータの計算機能について考えることは有用です。
それぞれのコンピュータには、「計算力」という属性があります。コンピュータの性能には時代の技術力による制約があり、価格や電気代といったコストによる制約もあります。よって、同じコンピュータでより多くより困難な課題の解を求めるために、コンピュータサイエンスを学んだ人々が、より良いアルゴリズムを考えて、プログラムなどとして実装します。
計算時間、正確には「計算量」の小さなアルゴリズムが良いアルゴリズムです。計算量はより厳密には「計算複雑性」といい、「計算複雑性理論」として、その議論はコンピュータサイエンスの中核になっています。
計算量は、コンピュータにとっての作業量です。例えば人間がリンゴの個数を数えるには、どうすれば効率的でしょうか? 10個ごとに箱に入れ、さらに100個ごとに大きな箱に入れてしまえば、確実に数えやすいかもしれません。人間のたいていの活動についてそういった試行錯誤は有用ですが、それは言わばアルゴリズムを考えていることになります。良いアルゴリズム、つまり良い作業手順を考え出せれば、メリットがあります。
足し算を繰り返すよりは、掛け算が有効かもしれません。数学や物理学の数式も、求める計算結果をすみやかに得る方法だと考えることができます。つまり、人間の頭の「計算力」にも限界があるので、なるべくならうまい方法で考えたいわけです。そのために、数理的な抽象的な概念や、ひいては社会的な仮説なども有用です。
【予測?】
人間が計算をする存在だとするなら、人間はなぜ計算をするのでしょうか?
それは本質的には、遺伝子の生存本能のためだと考えられます。つまり、効率的に生き残り繁栄するためです。
そのために人間は、物事の因果関係を考えますが、それは本質的には、将来予測を目的にしていると言えます。
つまり人間にしろ、人間の道具としてのコンピュータにしろ、それが思考や計算を行う目的は、突き詰めれば常に、将来予測だと言ってしまえます。
別に私達は、必ずしも何かを予測したくて考えるのではありません。しかしそれは、手段が擬似的な目的になるからです。全ての思考の目的は擬似的だと考えられ、究極的には、遺伝子の生存本能のための将来予測が目的だと言ってしまえます。
しかし人間の知力は誰しも有限であるから、思考の成果は最大化したい。よって、計算量つまり計算複雑性が最小になるアルゴリズムが求められます。
物理学で言うなら、計算が簡単で、なおかつ良い近似をもたらす良い関数が欲しいということです。
それは大枠で言えば、どんな仮説が便利かな、ということです。
現実の観測を何らかの仮説で捉えるということは、個別の観測が持つ何らかの情報を削ぎ落とすということを意味します。
それはつまり、「抽象化」です。翻って、対照的に、客観的な物質的現実は「具体的」です。
【抽象?】
私達人間は言わば生体で実装された計算機であり、その計算力には確かな制約があります。
あるコンピュータの計算速度が無限大に速くはなれないように、人間の賢さも限りなく賢くはなれません。
ですから、限りなく複雑な現実をそのまま計算することは非効率ないし不可能です。必要に応じて情報の多くを捨象し、捨ててしまって、重要と思われる部分のみ抽象化して注目して考えることで、考えやすくなります。
つまり、人間の外界には限りない複雑性に連なる無限大の情報量があり、脳などの知性の内部には抽象化された情報が存在するものとして、対比して捉えられます。
例えば、私達が視認できるのは限られた範囲の電磁波、つまり可視光だけであり、その範囲の外は生体のレベルで捨象されていて知覚できません。私達は、抽象化を経ずして、事実そのものを見ることはできないのです。
それゆえに、「抽象」、「仮説」、「モデル」、「言語」という言葉は本質的に等価です。
【抽象的思考力?】
それゆえに、知性というものは、本質的に抽象的です。抽象的思考力が知性の中枢です。
知性というものは、本質的に非常識なのだとも言えます。
例えば、複数の異なるものに共通性を見ることは抽象化です。現象を観察して法則を導き出すことも抽象化です。
抽象的な発想の盛んな人は、「あれとこれとは似てるね」と言うと、人々から「いやどこが?」って言われるかもしれません。
抽象的な発想の盛んな人は、「それを言うならあれを連想するなあ」と言うと、人々から「何の関係が??」って言われるかもしれません。
多くの人は、言葉の定義にしろ、概念の善悪にしろ、作業の手順にしろ、かなり固定化することで生活に対応しているので、慣習や常識に逆張りするようなことをされたり、飛躍を繰り返すような議論をされると、困惑しますし、さらに攻撃的な感情を持ちすらします。
抽象的な思考において重要なのは、論理性であり、推論する能力です。
【数学?】
数学は英語で「mathematics」と言います。mathematicsを「数学」と呼ぶことには批判もあります。「数」についての学問だと誤解させることは、数学の概念を矮小化し、数学的思考力を低下させはしないか、という批判です。
なお、数式はexpression、関数はfunctionです。なお、数はnumberです。
確かに、論理学や集合論はそれ自体、数を前提とするものではありませんし、なおかつ、数学の中核の一つでしょう。
そして、論理学は推論の論理性を扱う分野であり、その応用範囲はあまりにも広大です。
すなわち、論理学が数学の部分であるとする以上は、任意の仮説を用いる議論、つまり人間の知的活動の全ては数学に含まれます。その事実に照らして、「数学」という呼称は矮小で誤解を誘うとは実際、言えるでしょう。
なぜ全ての仮説に論理性が関係するかというと、全ての仮説の価値の程度は、仮説相互の論理的な整合性や、少なくとも現実の観測との整合性をなくして言えないものであると同時に、実用されている言語などの全ての仮説は、実はそのような評価をくぐり抜けて実用されているものだからです。
【観念?】
すでに述べたように、仮説において操作される対象は、いわゆる言語的なものや形式的なものにとどまらず、観念的なものに及びます。なぜならば、言語性にまで抽象化されない極端には個人の用途にとどまるような概念や観念についてすら、論理的な推論はなお有効だからです。
よって、形式的で共有可能な論点を主題とするいわゆる数学は、抽象的思考について、代表的な学問領域だと見なすことはできません。ひいては、学問の王と見なすこともできません。
深層学習において、関数は入力と出力の理解しがたいブラックボックスな関係にすぎなかったように、人間の思考の単位は、本質的に、どこまでも複雑であれるし、どこまでも複雑であってよいのです。
よって、宇宙の全ての現象を一行の数式によって導くことを理想とするような、既存の物理学さらには数学の傾向は、知性を本質的に考えるためには、極めて一面的にすぎないと思われます。逆に言えば、例えば複雑で情緒的なものは、知的対象として劣等のものではないのです。
その意味で、現代科学は、いまだ不格好です。
科学はもっと、個々人の生活感覚に密着した、自然で奥深いものであれるはずなのです。
しかし、その言わば人間学のために、人工知能などの経済主義的な工学や数学が最も貢献してきたことも事実です。
人間は、科学の助けなくして、人間というものを理解することができませんでした。
【世俗的知性?】
一方で、世俗的な意味での知性のイメージや権威の尊厳といったものも現実にはあります。
例えば、学校のテストで良い点数を得るためには、多くの知識を記憶することが大切です。実務においても、記憶力は学校以上に大切だと言えるかもしれません。
しかし、知性の本質を考える時、知識はほとんど属性ではありません。論理的思考力を少しも持たない人が多くの文章を記憶していたとして、どれほどの意味があるでしょうか。
あるいは、社会における必要悪のようなものとして、学歴の尊厳もあります。なるべく良い学校を卒業することが、肩書きや経歴のために経済合理的です。
しかし、知性の本質を考える時、経済的合理的はほとんど属性ではありません。
むしろ、経済的合理的に執着したり満足したりすることは、世俗的な価値観を絶対化する、抽象的思考力の不足を示唆してはいないでしょうか。抽象的思考力というものは、本質的に超越的なのです。
ですから、人間が今よりも人間自身を知り、本当の知性が知性として尊重され、人々が今よりも自由な発想のもとに伸び伸びと暮らす社会になってほしいと思います。
【結論?】
結論は特にないです。




