2 アルフィン・ロスガルドは転生者である
始めは、ただぼんやり、夢の中にいるようだった。
食欲に睡眠欲。自分の欲望に忠実な日々。
そして、ゆっくりと芽生える幼い自我。
やがて、どうやら自分は、アルフィン・ロスガルドという人間であることに気付く。
だが、これは何だろう。時折、頭の中で再生されるこの映像。
それは記憶の中に残っているあの世界のイメージ───そう、前世の記憶。
そびえるビルに走り回る車、交差点を往来する人や自転車。
制服を着た若者たち。自分に向けられる暴力。否定される自分の存在。
逃げ出した先、異臭とゴミにあふれる真っ暗な部屋。
両親の葬儀。出てゆく姉。玄関の鍵を閉め、ひとり部屋に立ち尽くす。
そして部屋の真ん中に、ぽつんと灯る液晶画面。
幼い頭は混乱した。
自分が今いる世界とは、全く異質なものなのだ。
本能が、これは消去しなくてはならない危険な物だと告げてくる。
だが、誰かが必死に訴えかけてくるように、自分の意思とは関係なく、それは突然頭の中で再生されるのだった。
ある時、それがまた発作のように再生された。
それは度々見た、暗闇にぽつんと光る液晶画面。
そこに表示された文字………
『異世界転生』
………異世界転生!?
その言葉と、今、自分に起きている現実が、すっと繋がった時、今までモヤモヤしていた全ての思いが、心の中にぽっかり空いていた穴にすとんと落ち、綺麗にはまり込んだ。
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聖王暦七五二年───、アルフィン・ロスガルド 七歳
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転生を自覚したのは本当に幸運であった。
もしも転生を自覚せず、あのままで居たならば、いずれこの幼い脳みそは精神崩壊を起こしていただろう。
だが、気持ちの整理には、相当の時間を要した。
始めは、アラフォーヒキニートの俺が、このアルフィンという幼児の精神を、乗っ取ってしまったのではないかと、自責の念に駆られたりもしたのだ。
だが、俺の中には覚醒前───、つまりアルフィンという人間の七年間が確実に存在している。
それは記憶だけでは無い。両親への愛情、嫌いな虫や食べ物、それら感情を含んだ全てがだ。
精神を乗っ取ったワケじゃない。
今を生きるアルフィンと、前世の俺とが融合したのだ。
何か、前世が融合したことで、純白のアルフィンの精神が濁ってしまった感はあるが………。
つまり、わかりやすく言うと、データを消去しないまま販売された、中古PCみたいな感じだろうか。
この世界に生まれ、自我というOSが確立し、やがて脳が発達して、記憶再生ソフトが使えるようになる。
ところがHDDには、前世の記憶がデータとして残っていたわけだ。
当然混乱するわな。これ誰? こんな場所行ったことない! ………ってね。
まあ、俺の仮説でしかないけど、そう考えれば、違和感が無いように思える。
自分がこの世界に存在する理由が、理論的に説明できるってことは、俺にとって大きかった。
誰も説得する必要は無い。俺さえ納得できればいい。
前世の記憶はデータとして残っているが、PCは1台。俺もひとり!
………そういうことにしておいてくれ。きっとそうだ。
でないと、罪悪感に押し潰されそうになる。
俺はメンタルが弱いのだ。
ふう、少し難しいことを考えたせいか、頭が痛くなってきた。
今の俺、頭脳は大人、体は子供の、いわば某名探偵状態なのだが、心と体の融合が、あまりうまくできていない。
精神は大人なれど、脳みそは子供のままなのだ。
難解な思考をしすぎると、脳みそがオーバーヒートし、いわゆる知恵熱が出てしまう。
今回も少し、頭痛がしてきた。
ちょっと、横になろうか………。
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「きゃああああぁぁぁあっ!」
絹をつんざくような悲鳴に、俺は飛び起きた。
そこには、美人のママンが蒼白な顔で立っている。
やがて、目をきょとんとさせている俺を見つつ、ほっと胸をなでおろした。
「………っ、もう、アルフィン、あまり驚かせないで」
「ごめんなさい母上、本を読んでいたら眠くなっちゃって」
「しょうがない子ね。寝るなら、せめてベッドで寝てちょうだい」
そう諭すように言うと、そっと優しく俺を抱きしめる。
ふわっと舞うわずかな香水の匂い。艶やかな黒髪が俺の頬をくすぐった。
エリーザ・ロスガルド、今年で二十八歳。俺の今世での母親だ。
下級貴族の出身であるが、その美貌から、若いころより縁談の誘いが絶えず。
やがて、王都でウェイン・ロスガルド………俺の父親と知り合い、恋に落ちる。
二人は相思相愛、何の問題も無いかに見えたが、ある時、エリーザの美貌に目をつけたひとりの王族がいた。
その王族は言う、我が側室に迎えたい───と。
さすがに王族の申し出を、無下に断るわけにはいかない。
だが我が父ウェインはあきらめなかった。
とある満月の夜、ウェインはエリーザの元を訪れ、窓越しに手を取り、言うわけだ。
『エリーザ、1年間耐えてくれ、1年で結果を出して戻ってくる』
父はそう言い残すと、最も戦死率が高く、誰も望んで行く者がいない北方の戦線へ赴いた。
わずか半年後、ウェインは王都へ凱旋する。
蛮族の王を討ち取った英雄として。
そして、国王への謁見を許されたウェインは、国王に直訴した。
『土地も、名誉も、財宝も、何もいりませぬ。ただ、エリーザとの結婚を許可願いたい』
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まあ、前世の俺だったら、リア充爆発しろッ───と、血の涙を流して叫ぶところだ。
だが、今の俺は、この話を聞いても何も感じない。
そもそもが両親の話なのだから、嫉妬の対象外だ。
それに、この話は、耳にタコができるほど、繰り返し聞かされている。
正直もう、聞き飽きた。お腹いっぱいです。暗唱だってできちゃうぞ。
それなのに、飽きもせず、エリーザは話すのだ。
恋する乙女のように、目を輝かせて。
まあ、悪い気はしないよ。
両親の仲が良いのは、いい事だもんな。
そんなことを考えているうち、俺を抱きしめていた母の手が、ゆっくりと解かれてゆくのを感じた。
見上げてみる。そこには、ニコニコと満面の笑みを浮かべた母の顔。
「あのね………」と、話し出すエリーザの声にかぶせて俺は言った。
「父上が帰ってきたんですね!」
「え、そ、そう………、よくわかったわね」
浮かれた笑顔に、普段つけない香水、そして薄化粧。
これだけでほぼ答えは出ているようなものだ。
だが、何となく、浮かれる母の顔を見ているうち、嫉妬に似た感情が芽生えてくるのを感じた。
きっとこれは、子供心が感じる、母親への独占欲なのだろう。
そして同時に、いたずら心が鎌首をもたげる。
ずいぶんと浮かれているようだがな、俺は知っているんだぞ。
あなたが最近、すごく悩んでいることを!
俺はおもむろに、エリーザの脇腹へと、手を当てる。
そしてドレス越しに、そこのお肉をぐいっとつまんだ。
思わず目を点にして、固まるエリーザ。
そんな彼女に向け、俺はニヤッと笑って言ってやる。
「でも、ここにこんなにお肉があると、父上に嫌われてしまうんじゃないですか?」
「……………!」
徐々に紅潮していく白い肌。
何かを言おうとパクパクする口。
ゆっくりと握りしめられてゆく拳を見つつ、俺は感じた。
───やべ、爆発する!
するりと母の腕を抜け出た俺は、そのままドアから飛び出した。
「アルフィィィィィ───ン!」
背後から、思わず衝撃波を感じてしまうほどの、怒鳴り声が過ぎ去った。
廊下を疾走しつつ、背後を見やる。
そこには、必死に追いかけてくるエリーザの姿。
はっはっは、残念ですね母上。ドレスはさぞかし走りにくいでしょう!
逆にこちらは、軽い軽い。まるで体に翼が生えたようだ。
もう俺は、体重3ケタの、ピザデブでは無いっ!
すれ違うメイドを軽快なフットワークでかわしつつ、廊下を過ぎ、階段を駆け上がる。
だがその先で、俺はここベルナード城最強の強敵と遭遇することとなった。
引き締まった長身に、黒髪黒眼、一見して爽やかなイケメン男。
ウェイン・ロスガルド、三十歳。この地の領主にして、俺、アルフィン・ロスガルドの父親であった。
北方戦線の英雄となったウェインは、その後国王のお気に入りとなり、多忙を極めていた。
今日は約三ヶ月ぶりの帰還。しかし十日後には王都へ戻らねばならない。
実質の滞在期間は1週間も無いだろう。
久しぶりの再会に、お互いの足が止まる。
「アルフィン!」笑顔でウェインは叫んだ。
俺はそんな父に苦笑いを返す。爽やかに笑えない理由が、背後から近付いていた。
「はあ、はあ、はぁ………」
階段の手すりに寄りかかり、エリーザは息を整えつつ言った。
「あ、あなた、アルフィンを、つ、捕まえて………」
「え、どうして?」
「アルフィンったら、私の………、私の………ぉ………」
急に顔を赤らめ、うつむくと、小声でごにょごにょっと何かをつぶやく。
(………かわいい)
思わずそう思ってしまった。母親だけど。付け加えるなら、アラサーだけど。
それはウェインも同じだったらしい。少し頬を赤らめ、エリーザを見つめている。
そんな父に、ちょっとした対抗心がくすぶる。
「ま、まあ、君がそう言うなら。こらぁ、アルフィン、何をしたぁ?」
負けるワケにはいかない。
腰を落とし、両手を広げてディフェンスするウェイン。
俺も重心を落とし、突破する隙をうかがう。
だが───、突破できる気がしなかった。
体格、技術、スピード、パワー、その他もろもろをトータルし、勝率がゼロであることを、子供の本能が告げていた。
俺はくるっとUターンし、逃走を試みる。
だが、次の瞬間、両脇に入る手。そのまま俺は持ち上げられた。
「こらアルフィン、敵前逃亡は臆病者のすることだぞっ!」
ジタバタと、もがいてみたが、抜け出せる気がしない。
やがて俺は抵抗をやめ、魂の抜けた人形のように、宙でダランとなった。
一瞬の沈黙。
「………ぷっ!」
何とも言えないシュールな光景に、思わず吹き出すエリーザ。
「ほら、ママに何をしたんだ? 言ってみろ!」
続けてウェインはそう言うと、俺に対し、最悪の拷問刑を始めた。
ぎゅっと抱きしめ、おもむろに、頬ずりを始めたのだ。
じょりじょりじょりじょりじょりじょり………
(ひ、ひいぃ、無精ヒゲが、無精ヒゲがぁぁぁ………!)
例えようのないジョリジョリ感。必死にもがくが抜け出せない。
せめてもの救いは、ウェインが父親であるという認識が、俺の中にあることだった。
他人のオッサンにジョリジョリされるとか、はっきり言って自殺ものだろう?
ウェインは父親だから、嫌悪感は無い。
いや、嫌悪感は無いけど、これは………
………!?
何だ、これは………
徐々に、心の奥底から、すごく温かい感情があふれ出してきていた。
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やがて───、
「うぇ、うえぇ、うええぇ………」
俺の目からは、涙がこぼれ落ち始める。
「ちょ、ちょっと、あなた………!」慌ててエリーザが駆け寄る。
「す、すまんアルフィン、痛かったか!?」と、下へ降ろされた。
涙が止まらない。
俺はうずくまり、泣き続ける。
上では両親が喧嘩を始めていた。
「ち、ちがっ、ちがっ………」嗚咽で声がうまく出せない。
(───違うんだ!)
痛くもないし、嫌なわけでもないんだ。
これが、すごく嬉しい事だってのに、気付いちゃっただけなんだ。
だって今まで、こんな愛情表現、されたことがなかったから。
体重3ケタの俺を、誰も持ち上げてくれない。
誰も抱きしめて、ましてや、頬ずりなんかしてくれない。
もしかしたら、前世でも、子供の頃は、こんな事があったのかな?
でも全部、忘れてしまっている。こんなに嬉しい事なのに、どうして忘れてしまったんだろう?
こんなに幸せな事を、人間はどうして忘れてしまうんだろう。
◆◇◆