5)只今絶賛迷走中
テツの先導はまるで優秀なシェルパか、プロの山岳ガイドのようで、下草がほとんど無い歩きやすいブナの林を選んで、俺たちを誘導してくれた。まるで森林公園の遊歩道のような景色が続いた。
地表は、ぶ厚く柔らかな苔がびっしりと引き締められ、豪華な絨毯の上を歩くようで、くるぶしに何の負担も掛からない。むしろ心地よい振動が脳髄に伝わって来る。
快適な気分で歩いていたら、色づいた木々から脱ぎ捨てられた枯れ葉が、うず高く盛リ上がった窪みが目の前に広がった。
サクラはその中に飛び込んで転げまわりたい衝動を抑えていた。その目の輝きを見るだけで腹の中が読める。
クルミは中に飛び込むと、しゃがんで両手で拾い上げ、空中へ舞い上げてはしゃぎだした。どいつも子供みたいだけど……ヘタすりゃ、俺たち遭難だというのに気楽なヤツどもだぜ。
「サクラさん。荷物はテツの首に掛けるといいですぅ」
「サンキュー、クルミちゃん。助かっちゃう。テルのヤツこんなか弱い女の子に、重たい荷物持たせて平気なんだよ。鬼みたいなヤツでしょ」
「その鬼を片手でねじ伏せるくせに……。どこがか弱いんだ」
クルミは丸い目をきょとんさせた。
「すっごーい。サクラさん強いんですね」
「あ、いやぁ……ま、ねぇ~」
「否定しろよバカ。頭掻いて喜んでんじゃねよ。お前はそれを隠すのに苦労してんだろ」
少しだけ教えてやろうか。サクラはクラスメートの前ではわざと弱々しく見せてぶりっ子をかますんだ。んでもって俺の前では地を出す。この野郎、じゃない、この女は。
手ぶらになった馬鹿サクラは、早速クルミと腕を組んでスキップを踏み踏み踊りまわり──んなことするから、森の絨毯を飛び跳ねるワイシャツの裾からチラチラと見え隠れする黒いスパッツ。
む~ん。やっぱ目の毒だな──。
俺の視線がさっきからクルミを離れようとせず、二度ほど木の根っこにつまずいた。そのたびにイチが腕を取って怖い顔をしながらも、俺の問いには素直に答えてくれた。
「クルミの社会勉強って、どういう意味なんだ?」
「時間族の男性は十八才、女性は十五才頃になると、時を跳べるようになるが、最初は制御ができないのだ。まぁ誰でもその道を通る。そうだな……。ハシカみたいなもんだ。そして初めて三次元世界を知る。これが社会勉強だ」
「つまり、クルミのハシカのせいで、俺たちは490年も過去に飛ばされたということか……。えらい迷惑な話だな……」
彼らにとって、インスタンスとして選ぶスーパークラスの知能の優劣は関係なく、それは実体化する入れ物に過ぎない。従って機敏に動けるボディをした森の小動物がインスタンスの対象になるらしい。
森の中には何人もの時間族が、野ウサギやリスなどに変身して時間を飛び歩いているという。もしかしたら昨晩無性に悲しそうに鳴いていた鹿は仲間とはぐれた時間族のインスタンスかもしれない。
林を抜け、崖を這い上がり、野原を突っ切って再び原生林の中を進むこと数時間。先頭のテツが止まって、後を付いて来る俺たちへと首をひねった。
銀の毛並みを涼風がさやさやと撫でて通る。その姿は威厳に満ちた輝きを放っていて、森がかしずくようにしんと静まり返っていた。
「お昼ご飯ですよぉ~」
誰も何も言っていないのに、クルミがそう言った。
木々の隙間を縫って、小さなせせらぎが横弛むコケの絨毯の上に腰掛ける。
「ふぅぅぅー。しんど……」
自然と口から息が漏れた。
「──てぇぇぇって! こらイチ! 町はまだかよ! もうだいぶ歩いたぜ」
片膝をついてクルミの隣に寄り添う、いけ好かないイケ面野郎に怒声混じりで問いかけた。
ヤツは涼しい顔をして、冷たい視線を俺へと振って答える。
「この先あと少しだ。その前に腹ごしらえをする」
「んなこと言ったって、お前ら手ぶらじゃないか。何か喰うものを持ってんのか?」
まさか俺の持参する貴重な食料をあてにしてんじゃないだろうな……。
まだ遭難したとは断定できないが、俺もサバイバル部の部長だ。こういう緊急時を考慮して、非常食を準備してきたが、サクラにしろこいつらにしろ、手ぶらの同行者がこんなに増えるとは思ってもいない。焦るのは当然だろ。まったく……。
手持ちの食料は、缶詰が三個とチョコレート一枚。米が残り一合ほど。四人と一匹で分け合ったら一日分にも満たない。
「ごっはん~。ごっはん~。今からごっはん~」
能天気なサクラは、俺のリュックからほいほい食料を取り出して地べたに並べていく。
「何よ~テル。これだけ?」
丸い目を俺へと向けてもう一度。
「どうすんのよ。お腹いっぱいにならないよぉ」
「満腹になることを考えてんのか! お前は……」
「うん。そうだよ」
「んがっ!」
呆れて声も出んワ……。
クルミが缶詰を手に持って、珍しいものでも見るように小首を傾け、
「みなさんは、金属を食するのですか?」
「……………………」
別の意味で声が出んし……。
お姫様だか、お嬢様だか知らんが、ふつう缶詰ぐらいは分かるだろ。こっちが首をかしげるっちゅうもんだ。
「この中に食べ物を詰めて保存するのよ」
サクラが丁寧に缶詰の説明をするが、
「あぁ。亜空間保存ですか……なるほろぉぉ」
「ま、そんなもんね。空気が抜けてるもん」
「人間の世界って、進んでるんですねぇぇ」
互いにちぐはぐな会話な割りに、うなずき合っていた。
で、なんだ? 亜空間って……。
横からイチが割り込む。
「姫様とそれがしには、気を使わなくていい。それはオマエらで分け合え」
俺の食料を──何でお前に指図されなきゃいけないんだ。
「大丈夫よ。夜までに町に着けばいいの……みんなで食べよ」
だから。俺の食料だ。サクラ。
イチは忍者のクセに、「ノーサンキュー」と告げて火を熾しに掛かり、俺から鍋だけを借りて湯を沸かしだした。
相変わらず手際がいい。みるまに炎が安定して炭が熾る。
「…………………………」
俺は焚き火の横で体育座りをして、立ち昇る煙をぼんやりと眺めていた。
「本気のサバイバル生活みたいになってきやがったな……」
「おもしろいね、テル」
はぁ? 何言ってやがる──お前のお気楽さには頭が下がるぜ。まったくよー。
脱力し切って、炎に視線を戻した。
クルミとイチは、俺の考えていたサバイバル生活というモノを根底から打ち崩してくれた。二人はミミズを地面からほじくり出すと、せせらぎの清水でささっと洗って口にぽい。枯れ葉をめくって節足動物多足亜門、つまり、ムカデ、ヤスデ、ゲジゲジの類を見つけると、いちど湯がいて、やっぱり口ん中にぽいだ。
さすがのサクラも、もちろん俺だって震え上がった。
こいつら蛇なんか見つけた日には、大漁躍りをするに違いない。
世紀末的な世界からやって来たとしか思えない二人を見て、サクラは自分の瞳が煌めいていることに、ちっとも気づいていない。
「ねぇテル……。妖精とか森の精霊とかって、この人たちのことなのよ。絶対にそうよ」
バカは単純でいい──妖精がミミズやゲジゲジを食うかよ──フェアリーがゲテモノ食いだったなんて、幻滅だろ。ばぁ~か。北欧神話のファンが怒鳴り込んでくるぜ。
しかしサクラの手前、ビビッてばかりでは部長の名がすたるというもんだ。
「へっ! 俺だってサバイバル部の部長だ」
「正式にはワンダーフォーゲルでしょ」
「そんなこたぁ、どうでもいい。あのな、俺は菜食主義なんだ」
キジ鍋は美味かったけど………。
「──あいつらみたいに蠢くものは喰わないんだ。喰えないじゃないぞ。喰わないんだ」
俺は清水の流れに群生していた草を指さし、
「これを見ろ、セリだ。な、こういうモノはうまいんだぜ」
ひと株ほど引き抜き、サクラの鼻先に突き出した。
「湯がいて、おひたしにしたら、なんともいえない香りがいいんだ。花が咲いちまって時期的に育ち過ぎだけど、まだ食えるぜ」
「へぇ~。すごいなぁ、テル」
さっきからイチの無表情な白い面がそれへと据え置かれていた。
何が言いたいんだよ……。
心の叫びが聞こえたのだろうか、整った鼻をふっと鳴らすと、冷たい口調で言い切った。
「やめておいたほうがイイぞ。それは有毒のドクゼリ(セリ科)だ」
──説明しよう。
《セリもドクゼリも水辺に群生し、よく似た葉っぱをしていて間違えやすいので注意しよう。夏ごろにどちらも白い花を咲かすので、さらに間違いやすくなる。セリは特有のいい香りのする山菜であるのに対し、ドクゼリは有毒で、食べると目まい、嘔吐、呼吸困難などを起こして、死亡率も高いので絶対に口入れてはいけないのである。見分け方は、ドクゼリは山ワサビと間違われることもあるぐらいの大きな根茎を持っている。対してセリはふつうの根なので見分けが付く。さらにドクゼリは葉の形も細長いのである》
「えっ? これがドクゼリなのか?」
「あぁぁ。それを食うと、三日三晩、嘔吐と腹痛に苦しみ……」
「し、死ぬのか?」
「いや、収まる」
「な、なんだよぉ……」
「しかし、体力は著しく衰え、その後……」
「し、死ぬんだな……」
「腹が減る」
「うっせぇぇぇ。知るかっ!」
しかし俺は黙って手を洗い、タオルで拭いた。
「サクラ、ドクゼリは本気で死ぬから気をつけろ。俺のような者でも間違えやすい物が、山にはたくさんあるからな……」
「うん。わかった」
「ほぉぉ。これは珍しいぞサクラ。ギョウジャニンニクだ」
日陰の少し湿った地面に緑鮮やかな楕円形の葉が、これも群生している。
「ギョウジャニンニクはニンニク臭がして天婦羅などにしたら美味いんだ」
一本地面から抜いて、匂いを嗅ぐ。
「ん? おかしいな臭わないぞ?」
再び冷たい視線とともにイチが告げる。
「それはバイケイソウだ。………死んでもいいのか?」
「………………………………」
「山で食うものはなんでも美味いな、サクラ」
「そうだねテル」
俺たちの足元に二個の空き缶が転がっていた。残りの米とサバ缶、チョコレートは取っておくことにする。
昼食後、再び行進が始まった。いくつもの長い森を抜け、幾本かの川も渡り、ようやく平たい場所に出た。
日差しがだいぶ弱まり、夕暮れ間近の冷気が肌寒く差し込んでくる。重く垂れたススキの葉が乾いた音を上げていて、確かにこれは秋の景色だった。足元から伝わる「ルルルルル」と小さな生き物の鳴き声もリアルだ。
広場の真ん中でテツが止まると、お座りをしてクルミを優しい瞳でじっと見据えた。
「今日は、ここで野宿でぇぇーす」
テツから報告されたかのように、クルミが明るい声で伝える。
「いやいや、おかしいって……」
我慢できず戸惑いの声を上げた。可愛く首を傾けるクルミではなく、イチへ向かってだ。
「俺たちは広野ダムから二時間の距離にいたんだ。その下の町までだって、四時間も歩けば着くだろ? 今日一日歩き続けたぜ」
「村ならここが入り口だ。見ろ」
頑強そうなわりに形のいいイチの指の先。そこには道らしきものが見えた。
「おぉほんとだ。やっと着いたぜ。さぁサクラ、帰るぞ」
クルミと一緒に座り込もうとする彼女の腕を引き上げる。
「えぇぇ? もう一泊してから帰ろうよぉぉ」
ガキみたいな駄々に付き合う暇は無い。
「今なら、まだ列車が走っている時間だ。最終までに神戸へ帰れるぞ」
クルミとイチのほうへ身体を向けて、ほとんど後ろ歩きになったサクラの腕をぐいぐい引っ張って砂利道へ出た。
このとき気づくべきだった。轍が無いことに。
イチは焚き火の準備に掛かり、テツがクルミに寄り添い、当の彼女はただこちらを丸い瞳でキョトキョトと見つめていた。寂しげな姿がなんだか気になるが、俺の目的はサクラを連れて家に帰ることだ。
「なんかさぁ。せめてサヨナラだけでも、ちゃんと言いたかったのに、」
「ここから言えよ」
サクラがあいつらに入れ込む姿が、なんだか無性に気になるんだ。
「クルミちゃ~ん。イチさぁぁ~ん。またねぇ」
サクラが横でピョンピョン飛び跳ねながら大声で手を振り、俺も返り見て、とりあえずキジ鍋の礼ぐらいはと手を振った。
イチは無視して枯れ木を拾い続け、クルミは輝く目を向けて、子供のように手のひらを広げて見せていた。
「ほら、急ぐぞ」
「うん。分かったよ、テル」
しかし──。
俺たちの足が止まるのに、数分と掛からなかった。
「な、なんだよ……ここは……?」
町の端に到着したのだろう、数件の家屋が姿を現したのだが、どれも異様にひっそりとしていた。まるで生活感が無い。しかもどの家も見慣れた現代風の瓦ではなく藁葺きだった。それにそれほど大きくもない。小屋に毛が生えたようなものなのだが、それらは地面に横たわる陰みたいに暗く、かつ黒くひっそりとしていた。
あまりの静けさが不気味になり、二軒目の家を覗き込んだ。
「農機具を入れておく納屋でもないね。確かに家だよ、テル」
「ほんとだ。扉が開いていて、ほら、土間が見えるぜ」
作りは簡単だが、調理用のカマドも揃った炊事場がある。田舎の写真で見たことがある古臭いものだが、それほど年代を感じさせられないのは、まだ新しいからか? 今どき新築にこんな古式な調理器具を使うとは、変わり者なんだろうか。
「こん……ちわぁ~」
おいおい。
サクラはちゃっかり中に入って行く。俺も帰りを急ぐ身なのだが、この異様な雰囲気は気になる。人が住むという設えなのに、その気配が皆無なのだ。
炊事場なのに水道が無いのも気がかりだった。
「井戸が外にあったよ」
よく見ていたな、サクラ……。
観察力も俺より優れるなんて、バカのくせに腹の立つやつだ。
だけど井戸だけってのも、少しおかしくないか?
土間の奥、一段高い場所に畳みの部屋が見える。しかし障子を見て動けなくなった。ボロボロなのだ。激しく破られて木の骨まで折れたところもあり、黒いものがべったりと付着して、なにやら怪しい。
「ま、まさか……」
先を行こうとするサクラの腕を引き、俺の背後へ回した。なんだかとてつもなくやばそうな気配がしたからだ。
サクラもそう思ったのだろう。素直に後ろへ回り、肩越しに顔を覗かせた。
「ねぇ。テル、これって……」
能天気さが消え、怒り顔以外で真顔を俺にさらすサクラを見るのは、初めてだった。
「それ以上深入りするな!」
「「ぎょほぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」」
静けさを引き裂く鋭い声に、俺とサクラが同時に飛び上がった。