3)サバイバル? (謎の美少女、クルミ登場)
──それからだった。サバイバル部の部長である俺の威厳をいとも簡単に吹っ飛ばされたのは。
「さっ。水だ」
と差し出されたひとつの鍋型のコッヘルには、清水のように澄み切った水が溢れんばかりに揺れていた。俺が息を飲んだのは、もうひとつの鍋にピンク色の蠢く物体が──。
ミミズを知らない諸兄姉はいないと思うが、ミミズってのは泥や土にまみれているから、そのグロテスクな姿が幾分和らげられるんだ。想像してみてくれ。綺麗に水で洗われ土を一切身につけず、真っ裸になったミミズを──淡いピンク色をしたヒダヒダが──ぎょおほぉぉぉおぉぉ~。
目を逸らして身震いした。やっぱり食うんだ、この人……。声も出んわ──出てるけど……。
「イチさん。それどうするの?」
サクラ訊くな。決まってんだろ……。うげぇぇぇ。
嗚咽を吐く俺の前で、イチは一匹を摘まみ上げた。
「わぉぉぉぉぉーん」
へんな雄叫びを上げる俺のまん前で、
──ちゅるりん。
うげぇぇぇぇぇ。
俺は地面に膝を落とし、込み上げてく─嘔吐を必死に耐える。
サクラは大きな目をさらに広げた。口をもぐつかせるイチを上目にうかがい、こわごわと訊く。
「美味しい? ねぇ美味しいの?」
「美味いわけねえだろ!」
とサクラの横顔に叫ぶ俺へ、小首を傾けながらイチが答える。
「そうか? 朝は生にかぎるゾ」
「ぎょへぇぇぇぇぇえぇ~」
もう一回、おかしな声を上げる俺。
無理、無理、ムリ。サバイバル部は今日を持って解散だ。
「もう廃部になってんじゃん」
サクラの言葉が痛く胸を刺した──。それより彼女は再びイチの精悍な顔を覗き込むと、
「美味しい?」またもや眼の色を深々とさせた。
「ま、待てサクラ!」
その目はバンジージャンプの飛び込み台の上でつま先を空中に突き出し、覚悟を決めたときの目だ。焦点が合っていない。
「や、やめろサクラ。それは俺たちの胃では消化できん代物だ」
せっかくサバイバル部の部長直々の警告だというのに、イチはおっ男前の微笑みをサクラに見せ、蠢くピンクのパスタみたいな物体が入った鍋を差し出した。
「ば……、ばばばばば、バカ! やめるんだ。サクラ!」
「だって、これがサバイバルでしょ?」
ヤツは俺に向かって可憐に微笑みやがった。
ついでに韓流野郎も尋ねてくる。
「オマエたちの言う『さばいばる』とは、こういうのではないのか?」
意味通じてんじゃん……。
なんだこの野郎。日本人か? いやいやいや。日本人ならこんなもの食わないって。お前。国籍どこよ?
「てっぇぇぇぇ! やめろサクラ!」
俺の忠告を振り切って、サクラは一匹のミミズを震える手で摘まむと、ぱくりと口へ放り込みやがった。
「あぅっ…………………………お、おい」
吸った息を吐く気力も失せて、俺はもぐもぐ動くサクラの意外と形のいい唇を凝視する。
──説明しよう。
《日本ではミミズを食べる習慣は無いと思うが──知っている限り──、専門店があるという話は聞いたことがある。ただし野生のミミズではなく、清潔な土壌で養殖されたミミズを丹念に泥抜きをして熱処理をしたうえに食するらしいが、その味は牛肉をも上回るとか、そうでないとか。作者もゲテモノ好きではあるが、虫系で食したのは、せいぜい、『ザザムシ』、『イナゴ』、『ハチの子』どまりである。ちなみに、ザザムシ、ハチの子は、はっきり言って、『蛆虫』である》
「さ、サクラ……。大丈夫か?」
ヤツは丸い目をしてこくりとうなずくと、
「やわらくて……。(ピーッ《自主規制》)みたい」
「あ、あとでどうなっても、知らねえからな」
俺はいつまでもサクラの赤い唇を睨み続けた。
イチは俺にも勧めるが、
の~さんきゅ~、に決まってんだろ!
さすがにサクラもそれ一匹であとは断っていた。
こんな美味いものをなぜ食べないんだ、と俺たちを不可思議なものを見る目で睨みつつ、イチは次から次へと蠢くパスタを口に放り込んでいった。
「やれやれ……」
げっそりやつれた気分で、積み上げられた木に点火だ。
焚き火の準備をした場所は、テントを中心にその周辺だけ草が生えておらず、森の中にぽっかり空いた広場みたいな空間だった。昨日の夕刻、ここにやって来て絶好の場所だと思っていたほどで──。風通しもよく、周りは瑞々しい草ばかりで枯れ草が無い。それから空を覆う樹木も無く、空は抜けるような青空が広がっていて、そこへと向かって焚き火の白い煙が吸い込まれていく。
「あっ」
こちらの様子をちらりと見たイチは、炎を囲むカマド代わりにと並べた岩をガラガラと向こうへ放り出した。
「な、何すんだよ!」
俺の焚き火のやり方が気に入らないのだろうか。まぁそれぞれに流儀やスタイルがあるのは理解するが、あんまりに横暴じゃないか。何様なんだ、お前。
「こんなチマチマした火では忙しない」
やっぱ。日本語バリバリじゃないか。
目を剥いて様子をうかがっていると、イチは俺が拾ってきた焚き木をポイポイと炎の中にクロスさせながら積み上げていく。まぁ空気の流れを考えるところは一緒なんだが、ちょっと派手に炎を上げ過ぎじゃないのか?
ヤツは躊躇せず枝を放り込んだ。俺なら絶対に入れない、という太ももほどもある大きいサイズの木で炎をV字に囲み、両手のひらをパンパンと叩いた。
手を叩いたのはこれで作業はすべて終了したという合図のようで、イチはそのまま地べたへどさっと尻を下ろした。
「湯を沸かすならその木の上に鍋を掛ければよかろう」
視線の先はV字の先端。二本の木が引っ付く部分だな。接点とも言うのかな。
「なるほど……。鍋を置くにはちょうどいいな」
ダイナミックな焚き火のやり方だ。それも手馴れていやがる。これだとカマドを作る岩はいらないし、丸太に火が移ればそう簡単には消えないだろう。
なかなかやるじゃないか、と感心して視線を焚き火に固着させる。少しして大きく上がっていた炎が落ち着き、やがて拾ってきた太めの枝が熾りだした。
イチはたまに中サイズの枝を放り込むが、とくに手を出す必要もなく、炎が安定した。たいしたもんだ。
「上手だね。テル」
「あぁ……」
悔しいが、サクラの言うとおりだ。
焚き火が絶好調になり出した頃。茂みの中からいきなりテツが飛び出してきて、俺が後ろにひっくり返された。
「うぉぉ、なんだ!」
慌てふためく俺の横でサクラが自分ちのペットに言うみたいに、
「あ。テツお帰り。どこまで行ってたの?」
銀色の毛並みが揺れるでっかい頭をサクラがワシャシャと撫でる。その口元に真っ赤に染まる物体が、ぶらぶら……。
「何か咥えてるよ、テル」
テツとかテルとかややこしいな。同じ改名をするんなら、もっと違う名前にすりゃいいものを……。
「ぎゃっ、へぇぇぇ~~~~~~っ」
もう漫画だ──俺の慄く姿はギャグ漫画そのものだ。
「鳥だよ……鳥を咥えて帰ってきたんだ」
赤く染まるのは血だ。首根っこをへし折られたのだろう、ぐにゃりと力が抜けて、牙のあいだからぶら下がっていた。
「キジか……」
ぽつりとイチ。
「こんなものでいいのか?」
偶然だと思うが、ハスキー犬が下を向いた。うなずいたのではないと思うぜ……。
「そうか。オマエの言うことだ。間違いなかろう」
う~ん。きもい。犬に向かって話しているよ。この人……。
イチは腰から短刀を抜くと、焚き火を囲んだ丸太の上でキジを捌き始めた。
ナイフはコスプレのフェイクではなかった……。
本物を腰に差すって、なんか危ねぇヤツじゃないだろうな。
ちょっとビビるのは当然だ。キャンパーはナイフ持参が当たり前の行為だが、忍者コスプレ、プラス、ナイフというのは、とても危険な香りがするもので……。
俺の懸念は外れていたみたいだ。ヤツはそれを使い慣れている。なにしろその刃捌きは見事で、あれよあれよという間に鳥が肉塊と変身し、そして各部位に別れていく。
「イチさんはお肉屋さんなのかぁ……」
うむ、サクラ。その推測は間違っちゃいないかもしれないが、このコスプレ姿でやられたら、客は引くぜ。
イチは時々俺たちの会話を楽しそうに聞いていたが、手の動きは止めなかった。ほぼニワトリほどのキジが捌かれ、熊笹の葉を敷き詰めた丸太の上に並べられた。
──説明しよう。
《笹の葉は殺菌効果もあり、昔から携帯食を包むのに重宝していたのである。特に熊笹は葉が大きいので、現在でも押し寿司などに多用されているのである》
懐から紙に包まった怪しげなものを取り出すと、イチは薄茶色の粉を振りかけだした。
「それは?」
まさか非合法的な薬物では無いだろうな。
ヤツの格好が格好だけに、ついつい不審な目で見てしまう。
イチは長い前髪の奥から切れ長の目で俺をじろりと睨め上げ、白い歯を見せた。
「これは塩だ……」
「イチさんはコックさんもやってんだね。テル」
いや、その色は気になるな。
「塩とはこういうものだろ」
俺も持参の塩を見せた。だがヤツはふんっ、と鼻で笑い、
「それは塩ではない。塩化ナトリウムだ」
薬剤師なのか、こいつは──。
ふつうの人でもそれぐらいは知っているだろうが、平然と口にするその物の言いが慣れてた感じだった。
そんなことよりも、もっと気になる言葉を、
「こんなもんでよかろう。さて迎えようか……」
「誰を?」
何の説明も無しにイチは俺たちが沸かしていた鍋へキジ肉の肝やら、水汲みに行っているあいだに採取したのだろう、名も知れぬ草の根やら、芋のようなものを放り込んでいく。そして、例のピンクの蠢くパスタ、まだ残っていたのを入れようとしたので、俺たちは思わず目をつむり必死になって神と仏に念じた。
「そうか──これ以上、姫の到着が遅れてはまずいな……」
俺たちの無言の抵抗が伝わったのか、イチは意味の通じない独り言を混ぜると、ミミズの入れ物を横にことりと置いた。
「ふぅぅぅ」
息を吐く俺たちへ、悪戯っぽい微笑を浮かべるイケ面野郎。その視線がつぅと茂みの奥へ注がれた。
──少しして、ガサガサという音。
同時にイチが直立する。
「御着きのようだ」
「「誰が?」」
サクラと同時にイチの視線の先へ振り返る。
「もう……。イチ! なんですかこの格好」
手を広げ、自分の姿を見ようと、まるで舞うようにステップを踏んだ少女。
下を向いているが、それはそれは、えれ~美少女だった。
長い黒髪がサラサラと扇を広げ風に漂う。まるでスローモーション映像を見るような優雅な動きをしていた。
当然のように俺の鼓動が跳ね上がり、血圧が急上昇──。
コメカミ辺りから血管が破れて血流が噴き出そうとするのを必死で押さえた。だってここは山の中、それもすんげぇ~奥地だ。なのに、なんだこの子。男性用の大きなワイシャツをダブっと着て、袖もかなり長いらしく、手の先が出ていなくて袖口が垂れている。そして目の覚めるような艶のある黒髪を腰まで伸ばし、清々しい朝の風になびかせていた。
その子はサクラより頭ひとつ分身長は低く、ピンク色の頬が幼げに見えるが、ヤツに劣らない成長振りを披露していた。
年齢的にどうなんだろう? 幼く見える反面、妙に色っぽい雰囲気は幼女ではない。威厳溢れる清楚な色気は大人っぽくもあり、どこかのお金持ちのお嬢様という感じだった。
さらに鼓動をもう一ランク上へ跳ね上げさせたのは、衣服が、どう見てもぬあんとそれだけなんだ。
純白に光るシャツの胸の部分が身体のワリに大きく前に突き出して、しかも喜べ同士よ。その内側に下着をつけた様子がない。だからふたつの突起物が目に突き刺さる。そして細くて長い艶々の美脚が二本。ワイシャツの裾からしゅっと伸びて、くるぶしは草に隠れていたが、白いスニーカーを直に履いているのが、ちらりと見えた。
全国の男性諸君。夢にまで見たワイシャツオンリー少女だ。素肌の上から男物のシャツを悪戯っぽく着て、「ねぇ見てぇぇ」とか言って、くるりと翻ってもらえれば、鼻血ぶぅぅぅぅ──ふ、古いなぁ。
盆の窪をトントンとしてからサクラに視線を戻して、俺、飛び上がる。
「うぉぉぉ。怖えぇよぉ」
鬼みたいな目で俺を睨むバカに、ちょっち怯む。
「なんで、男ってこんなのがいいの? こんな格好ならあたしだってできるわよ。見てなさい、テル!」
いきなりジーンズを脱ぎだそうとするサクラを必死でなだめる。
「さ、サクラ! やけっぱちになるな。お前もじゅうぶんに綺麗だし可愛い。勘違いするな。俺はこんな格好で茂みから出てきた女の子に驚いただけだ。俺は硬派なんだ。そこらの軟弱男と一緒にするな」
──って、何だよこの子?
実は……正直言ってひどく戸惑っていた。この子の姿は、中一の頃、悪友と本屋さんで立ち読みをしていたときに、ちらりと見たエロ雑誌のどこかのページに載っていた写真と同じ格好なんだ。当時ピュアだった──今もそうだが──中学生にはとても刺激の強いもので、未だに強く脳裏に焼きついている。まぁ、男なら誰しも経験があるだろ。青い果実というヤツさ。
「く、くそぉ。まいったなぁ……」
この格好は完全に俺の頭の中が見透かされている気がする──なぜだろう。誰にも言ったことが無いのに……偶然か?
困惑して身体を硬くした。身体だからな……勘違いするなよ。
ワイシャツ少女はまるで水槽に放された金魚を観察するように、キラッキラの瞳で俺たちをじっと見据え、透明度の高い吸い込まれそうな黒い瞳孔を広げた。
「な、なによぉ?」
身体を逸らすサクラを、少女は「む~」とか言いながら、腰に手の甲を当てて眺めていたが、おもむろに振り返ると、
「なんてことをしてくれたのですか、てる!」
「は?」
ハ行ア段の文字を口にしたのはサクラだった。そして当然だが怖い目をして俺を睨む。
「あんたの知り合い?」
ブンブンと音が出るぐらい頭を振る。ちょっと目まいが……。
「てる! こちらに来なさい。どういうことですか」
はいはい?
「どこですか? てる……」
──だからなんだってんだよ!
少女は俺のほうを見ようともせずに、誰かを探しているのか、辺りを見渡していた。
いいかげん腹が立ってきて、こっちから近寄ろうとする俺をイチが突き飛ばし、先に少女へ駆け寄ると、片膝を地面に落とした。そして恭しく手を引き、焚き火の前へと誘導する。
「姫様。火のそばに……」
まるで付き人か、家臣のような仕草で少女を地面に座らせた。その子は素直に正座になるが──おいおい素足だぜ。痛くないのか?
「いててて」
痛いのはこっちのほうだった。覗きこもうとする俺の耳をサクラが思い切り引っ張っていた。
「パンツ覗くな!」
「ば、バカ。俺は純粋に足が痛くないのかと……」
こちらの痴話喧嘩には一切関心を持たず、イチは平然と報告みたいな言葉を吐いた。
「姫様。今日から、『テツ』と改名致しました」
気づくとハスキー犬が身を低くして、まるで何かから隠れるかのように鼻先を草の中に突っ込んで伏せていた。
「テツ! こちらに来なさい」
ビクッと背中の毛を震わせたハスキー犬はとすとすと少女の前に移動すると、静かに尻を落として温和な目で見下ろした。小柄な少女を前にしたハスキー犬。俺の目にはライオンの前にちょこんと座った子ウサギとして映る。
「でけぇ~。食われないか?」
息を堪えて様子をうかがうが、どうも必要のない心配だった。少女は毅然とした態度でハスキー犬に向かったのだ。
「どういうことですか説明なさい! 人間はタブーだということぐらい、あなた知っていますでしょう!」
俺は、犬が申し訳なさそうな表情をするのを生まれて初めて見た。
──少しの間が空き、少女は弛緩する。
「そう……了解しました」
何を了解したんだろ?
少女は気持ちを緩めると柔和な微笑を浮かべ、白くしなやかな指でテツの頭を撫でた。ハスキー犬は目を細めて気持ちよさそうにしている。
それにしても完全に俺とサクラは蚊帳の外だった。何がなんだか誰が誰なんだか、まったく理解もへったクレも無い。今日は朝からずっとこの調子だ。キャンプってこんなに疲れたっけ?
「ね、テル。あたしたちさぁ。山の精霊とかに翻弄されてんのかな? 昨日の霧に遭ってから、なんかおかしいよ」
「昔から山には人を騙す狐狸妖怪がいるってやつか? バカな二十一世紀の世の中だぜ。こんな山にだって携帯の電波が飛ぶ時代だぜ」
「それより、イチ。なんですかこの格好……」
思い出したかのように、今度はイチへ向かって声を上げる少女。ワイシャツ一丁の姿をイケ面野郎に見せ、文句を言いたげに手を広げた。
イチも消沈し、首をすくめる。
「そればかりは……我々にはどうしようもありません」
「テツ。理由を説明しなさい」
またもや犬に向かって傲然とする。大丈夫かこの子?
「──────────」
「そうですか……致し方ありません。かぁさまの言いつけなら辛抱します」
犬は何も言ってませんが?
「はい……。えぇ。わかりました。そうします」
──誰に向かって喋ってんだろ?
ハスキー犬の向こうは茂みだし。黒子でも隠れていて何かの指図でもしているのだろうか。
「ヘッドセット式の携帯電話よ。テル」
そうかハンズフリーの携帯か。──そうそう。そこで思い出した。
「サクラ、携帯出してみろ」
さっき圏外だったはずだ。
ごそごそとポケットに手を突っ込むと、赤いスマートフォンを取り出し電源を入れ、
「圏外だよ、テル」
「だろう? 俺のもそうだ」
こっちも黒いスマホを突き出しサクラに見せた。
「じゃ、誰と話してんの、あの子?」
「知るかよ……」
──説明しよう。
《忘れては困るが、この物語はSFなのである。朝から変な連中が現れたが、これはすべて昨晩、サクラが拾ったオレンジ色の石が原因なのである。
あれは、オレンジストーンと呼ばれる特殊なパワーを持った鉱石で、時間族を実体化(インスタンス化)することができる秘石なのだ。
時間族とは実体を持たない生命体。意識だけが漂う特殊な生命体である。最大の特徴は、質量を持たないということ。それが何だと思われるが、質量こそが三次元空間での足枷になる力学上の基本量だというのは物理で学習するとおり。
この質量があるおかげで、三次元生物は光速を超えることができないのである。その逆を考えていただこう。時間族は質量を持たない。すなわち光速を超えることができる唯一の生命体である。つまり、時間族は時の流れを自由に行き来できるのである》
少女はやっと俺たちへ視線を向けると、鼻に掛かった甘い声で尋ねてきた。
「じゃぁ。あなたが、わたしを実体化させてくれた、スーパークラスですね?」
と、そんなセクシーな格好で何を言いたいのか解らないが、可愛いく小首を傾けられたら俺も赤面するちゅうもんだ。
「よろしく。わたしの名は『クルミ』です」
黒髪を風にそよがせ、膝でにじり寄ってくる少女に向き合おうとする俺の横っ腹を蹴り倒して、サクラが飛びついた。
「よろしくね。あたしサクラ。この人、あたしの家来でテルって言うの」
イデデデ。俺、焚き火の向こうに吹っ飛び腰を擦る。
「ば、バカヤロ。危ねえなぁ。もう少しで焚き火の中に飛び込むところじゃないか……。それより何が家来だ。お前は副部長、俺は部長だ。ということは……」
「そうですかサクラさん。わたしと同じ身分とは……。これからもよろしお願いします」
今度はワイシャツ少女に蹴散らされる。
「こらー。俺の話を聞け!」
文句のひとつでも言ってやろうと、立ち上がる俺の鼻先にハスキー犬が牙を剥いて対峙した。
「姫様に手を出すと、それがしとテツを敵に回すことになるが……それでもいいのか?」
言葉は平然としているが、ハスキー犬の迫力とイチの射すくめる剣呑な視線に縮みあがった。
「あっ、い、いや。手を出すとかではなくて、ご、誤解があってはいけないと思い……だな……」
「イチ、テツ。下がりなさい。わたしのインスタンスはこの方から継承されてるのです。クラスライブラリー、いえ、スーパークラスを怖がらせるような行為は控えなさい」
あの~~。──説明しましょうか?
《ワケの解らない言葉が連続したが、オブジェクト指向的プログラミングを嗜む方なら察しが付くと思う。つまり時間族はオレンジストーンを利用して、スーパークラスを継承し、インスタンス化(実体化)するのである。
……え、何? 余計に解らなくなったって?
仕方が無い。じっくり説明しよう……。
こういう話に、頭が痛くなる方は読み飛ばして、そうでないお嬢ちゃん、お坊ちゃんは覚悟して読んでいただこう。
時間族が三次元空間で実体化、つまりインスタンス化(ここでは変身と同義)するためには、その空間内に存在するクラスの精神波、あるいは思考波を利用しなければいけないのである。
この場合のクラスとは三次元世界での生命体。蟻んこからバッタ、野ウサギや犬、そして人間など、思考的活動を行う生命体すべてである。蟻だって餌を求めてわずかなりでも思考波を出している……それらを称してクラスライブラリィーと呼ぶ。
スーパークラスとは、時間族がインスタンス化した元となるクラスのことである。
つまり身体という物体を持たない彼らには、それがイメージできないため生命体の精神波、思考波から実物のデータを引き出しすのである。しかし、めったやたらにクラスを選んでいては、どんな動物に変身するかわからない。そのためにスーパークラスを選ぶ責任者、エルフエグゼキュター(略してエグゼ)と呼ばれる精霊が乗り移った生物が三次元世界のあらゆる時間域に常駐しているのである。ところでエグゼは継承できないのが、この業界(はぁ?)の常である。
エグゼは時間族を実体化するための精神波を見極め、ふさわしい潜在意識を持ったクラスにオレンジストーンを持たせる、という権限が与えられていた。
二十一世紀。この地域で選ばれたエグゼこそが『テツ』と呼ばれる森の守り主であり、たんなるハスキー犬ではないので、そのつもりでいて欲しい。しかもこのメンバーの中で最も知能が高いことも覚えておいて頂きたい。
ところで、時間族を実体化させるにふさわしい精神波をサクラとテルが持っていたかどうかは、今後の情報を待っていただくとして、とにかくイチはサクラの、クルミはテルの精神の奥に潜む潜在意識を元に彼らの理想形となって実体化したのである。
最後にこれだけは伝えておきたい──。
サクラはオレンジストーンを拾ったのではなく、エグゼに拾わされたのである。
──このことはウィキペディアにも載っていないので他言無用なのである》
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
クルミが口に出す言葉は聞いたこともない単語の連続で、何を言っているのかさっぱり解らないが、俺の前で少女は忍者とハスキー犬に尊大な態度で接していた。
「スーパークラスの精神の安定こそが、わたしの実体化の安定です。自重なさい!」
しかし、こっちに振り返るとそれが反転する。
「大丈夫ですか、テルさまぁ。お怪我はございませんかぁー」
「ハァ?」
「ささ。お食事にしますか? それともお茶になさいますかぁ?」
「なにこの子?」
「電気街でメイドのバイトでもしていたのか?」
再び俺たち固まる。
「イチ。食事の用意をなさい。テルさまとサクラさまにお礼の馳走を執り行うのです」
こっちにはメイド口調。イチには居丈高いお姫様口調。何なんだこのクルミとかいう少女は。何で男物のワイシャツ一丁で山の中をうろついてんだ? 大丈夫か? アレ的な子ではないだろうな……。
俺たちの疑問は今日の空のように晴れることは無く、戸惑いは深まるばかりで、ただ時間が無駄に過ぎ去っていった。
イチはクルミへ頭を下げると、さっきから沸騰したままになっていた鍋のフタを開け、木の棒でかき混ぜアクをすくう。キジ肉は美味そうに煮えており、捌きたての新鮮な材料を使用しているからだろうか、いい香りが漂ってきた。
「これも入れると、もっと美味しくなりますよぉー」
クルミがピンクのパスタを入れようとするので、慌てて手のひらで鍋の上を隠した。
「あわわわ。それは入れなくていいです。おじいちゃんの遺言でこれは食べるな、と言われてますので」
「そうですかぁ……。美味しいんですよぉー」
と言うとクルミは一匹の蠢くパスタを摘まみ、艶やかな唇で挟むと、俺たちが見る前で、ちゅるるる……とすすった。
「おぇぇぇぇー」
食欲がみたび無くなったのは言うまでもない。