14)試された俺
陣頭に立っていたテツの足が止まり、ぶんと振り返った。
「─────────」
「休憩だ。トオルを止めろ」
「ふう。助かったぜ……」
俺の後ろからイチが大声で命じ、隊列が弛緩する。
朝から歩き続け、途中で風呂休憩が入ったが、トオルが登場してくれたおかげで、その風呂を逃している。おかげで俺は汗だくで、不快感はピークに達していた。
肩に担いでいた猪肉をぶら下げた竿を高々と掲げて、ユラユラさせるサクラ。
「ほうらトオル。ここよ。こっちにおいで」
もうお分かりだろう。『トオル』とは、連れ歩く恐竜の名で、サクラが途中で命名したのだ。ついでに追加情報だが、トオルというのはヤツの弟、『川内徹』の名さ。まぁ、くだらない情報だけど、何かの役に立つかもしれないので、告知しておこう。
これまでのところ、すっかり俺たちに懐いたトオルの背ではクルミがはしゃぎ、それに藤吉が寄り添って歩くという──まったくのどかなもんだった。
俺はリュックから銀色に光る金属製の水筒を取り出すと、フタを捻って外した。それに水を注ぎ、藤吉に渡すが、ヤツは不気味なものを見るような目でしばらく中を覗いていたが、ゆるゆると顔を上げると、「面妖な……」とひと言で片付けた。
「魔法瓶式の水筒だぜ。別に妖怪が出てくることもない」
「魔法だと申しておるではないか。要らぬワ。ワシはこれでじゅうぶん」
懐から出した竹筒の栓を引き抜き口の中へと傾けた。
「ま、それぞれだからな」
俺が飲もうとした水をサクラが横から奪い取り一気に飲み干した。
「ふぁぁ美味しい」
呆れ気味にしばらく待ち、空になったフタを取り返しそこへ水を注いで俺も一気に飲む。
同じ容器で交わし合う甘酸っぱい気分は、喉と心の両方を潤わせてくれた。
艶かしく動くサクラの綺麗な喉を焦点のぼやけた視線で見つめながら忠告する。
「全部飲まずに残しておけよ。この先に水が無い場合もあるからな」
「うん」
ヤツは素直にうなずいて水筒を俺へと返してきた。
5分ほどして、イケメン忍者がテツより先に立ち上がり、
「あまり休みすぎると後が続かなくなる。よければ行くぞ」
イチの言うことは間違ってはいない。水をがぶ飲みして、じっくり体を休めてしまうと動き出すのが億劫になり、よけいに疲れが出てしまう。これは基本中の基本なのだ。
「では参るか」
物欲しそうに涎を垂らすトオルへ、猪肉の切れ端を与えていた藤吉も動き出し、テツも四つ肢をぐいっと伸ばした。
再びシダの茂みの中を進む強行軍が再開だ。
それにしてもテツが選ぶ道は、木々が不思議と密集していない。だが一歩外れると、そこはぎっしりと茂ったジャングルが壁を作り、足下は歩きやすいが、頭上からは背の高い木々から覆いかぶさるように伸びて、それに寄生する気味の悪い枝葉が邪魔をしてくる。あまりひどいのになると、トオルの後ろを歩く藤吉がバッサリと切り落としてくれる。こいつらと共になら、アマゾンの奥地でも鼻歌混じりで歩けそうな気がする。
コミットとかほざいて緊張感を浮き出していた忍者野郎は、まだ少し強張った雰囲気を滲ませて、ジャングルの暗闇へ睨みを利かせながら俺の前を歩いている。
「何を警戒してんだろ……」
ひとりゴチと共に俺もシダの暗闇へ視線を滑らせた。暑苦しい陽の光が届かないその中は意外と涼しそうだった。
こっちの道は、歩きやすさの代償に陽が射し込んで暑いぞ、なんて文句は言うべきではないだろうな。
「ん?」
影の奥で何かが動いた。右側面の密林の奥だ。
暗っぽく見える空間内に、白いものが揺らめいて見えたので視線を合わせたが消えていた。
たぶん目の錯覚だろう。緑一色の中を長時間歩いていたら人間おかしくなるものだ。
──説明しよう。
《久しぶりの登場で、少し緊張気味の『説明しようおじさん』であ~る。
人との交流を断って単独で山の中に長い期間入っていると、精神的に過敏になって来て、少しおかしくなる(症状には個人差がある)のだ。
最初に気付くのは、葉むらの奥に動くモノが頻繁に視界に入ることである。
これは山の枝葉は風に吹かれて常に揺れるため、人間の脳はそれが平常時と判断してしまい、異なるタイミングに動くモノだけが視界に捉えられるのである。枝葉の角度や風の方向が瞬間に変わった時などに起きるのだが、つい目がそっちへ行ってしまう。
また動いた枝葉が原因で暗闇の奥に陽が射して、茂みのあいだに煌くものがユラユラすると、気付かぬうちに近寄ってしまう。つまり擬似餌に近づく小魚と人間も大して変わらないのであ~る。
そして幻聴。
長いあいだ川の流れる音をすぐそばで聞き続けると、それが人の声に聞こえてきて、振り返ることがある。
これはサラサラという小川的な音よりも、ドドドドという流れ落ちる低音が響く所のほうがなりやすい気がするのであ~る。
そんな川べりで寝ていると、都会の雑踏の中に迷い込んだ気がするので面食らう。しかも耳を澄ませると色々な会話が聞こえて来るから恐ろしいのであ~る。それは自分自身の心のつぶやきかもしれないので、聴いてみるのもいいかもしれない。
筆者はこんなことを何度も経験したが、しっかり正気なので安心して、この先を読んでほしいのであーる。
ちなみに耳を塞ぎたくなるほど大きな音を立てて水が落ちる滝の真横で、キャンプを張ったことがある。最初はうるさくて仕方がなかったが、あ~ら不思議。一日も経つと、滝の音が聞こえなくなる。意識すればちゃんと聞こえるのだが、その音だけがミュートされる。なんとも人間の脳とは不思議なものであ~る》
話を紀元前に戻すぞ──。
暗やみに何かがチラつくなんて、よくあることだ。
ほんの少し気にはなったが、おそらく目の錯覚だろう。と判断して前を見た途端。また白いものが右の奥でゆらりとするのが見えた。今度はかなりはっきりと、加えてそれは見慣れたモノだった。
さっさと暴露するが、それは白い服の袖口だ。つまり茂みの奥で、白っぽい衣服を着た人物が俺と並んで歩いていたのだ。
「そんなバカな?」
否定するのは当然で、俺たちが歩く場所はテツが選んだ非常に歩きやすいところだ。でもって周りは草木の茂ったジャングルなのだ。俺たちと同じ速度で歩くことは不可能に近い。
数メートル間隔で右側面の密集度がまばらになる。そのつど俺はその奥を覗き込んでいた。
何度目かの茂みがまばらになった暗闇を覗き込んだ時のこと。
「──────っ!」
奥のほうで白い布切れがはためいて、闇がほんの少しの時間だけ輝いたのをしっかりと捉えた。
視力は両眼共に1コンマ5の健康体だ。動体視力だってじゅうぶんあると自負できる。
「ま、まさかっ!」
またもや。しかも今のは確実に見えた。
しっかりと判別できたのだが、とても信じられない──だってそれは白のワンピースを着た少女だったからだ。
思わずトオルの背で揺られる女子大生風の少女の背中へ視線を飛ばすものの。クルミは追従してくるサクラとおしゃべりに花を咲かせている。何の話しかまでは定かではないが、そんなことはどうでもいい。クルミでないとしたら、ありゃ誰だ?
次の葉むらの隙間を通過。
「な…………っ!」
頭をハンマーで殴られたみたいな衝撃を受けた。
(今、笑いかけられたぞ)
疑いの余地は無い。茂みの奥の少女が俺を見て微笑んだだけでなく、視線までも合った。あれは人だ。
身長は俺より頭二つは低いが、きれいな金髪だ。絹糸のように細く、手入れの行き届いた艶のある髪の毛を腰まで伸ばし風になびかせていた。その子がこっちを見て、にこりと頬をほころばせたのだ。
俺の少し前を歩くイチにもその姿が視界に入るはずだ。忍者なんだからな……。
やっぱりヤツは似非者なんだろう。そんなことに気付いた様子もなく、日本刀を振ってシダを切り落としていた。
「……ねぇ」
「ええ゛っ!?」
背筋にびびっと電気が走った。
声だ。今度は喋りかけられた。
茂みの奥から伝わる甘い声音は、確実に俺の鼓膜を通して渡って来る。幻でもない。茂みの奥に白いワンピースの少女が俺と並んで歩いている。
息を大きく吸い、音が出るほど思いっきり頭を振る。意識覚醒のために。こんなのはあり得ない現象だ。
そうこれはそこに実体があるのではなく、そんな風に見える自然現象だ。夜間風に揺れる柳の枝を見て幽霊だと勘違いするのと同じヤツだ。
「ね。あなた、どこへ行くの?」
のどの奥がゴクリと鳴った。ここは答えるべきか、無視をかますべきか……。
「よく知らないんだ」
あひょー。何で返事してんだ俺。ここは紀元前400万年だぞ。
「ね。お茶していかない? その先を右に曲がったらいい喫茶店があるんだぁ」
(い──?)
やっぱここって21世紀なんだ。それで俺たちは今庄の町に着いていたんだ。
だろうな。紀元前400万年のほうが現実離れしてんだもんな。
(イチの野郎、俺たちを騙していたのか?)
いやいやいや。やはり金髪少女がこんな山深い中を闊歩するほうがおかしい。
でもこの子、どこかであったことがある。
「きみはどこ行くの?」
(会話を試みるんじゃない俺。成立したらもう引き返せないぞ)
「ワタシは散歩。ここ気持ちいいから好き」
「そ、そうか? それでここはどこ?」
「あれ? あなた道に迷ってるの?」
「いやそういうことでもないんだが、俺にはよく解からない場所を歩かされてんだ」
「そうでしょうね。そこは歩いてはいけないところよ。こっちへいらっしゃい。こっちのほうが歩きやすいわよ」
少女は風に踊る金髪を片手で梳き上げてから俺を手招いた。しなやかな髪の毛に木漏れ陽が反射して、それが痛く目に射してくる。
マジで歩きやすそうだ。まるで芝生の上を歩くような滑らかな足の運びをしている。ワンピースの裾を跳ねあげて見え隠れする白く長い脚が目に毒だ。
ほんのちょっと覗く程度なら問題ないだろう。もしそこが歩きやすいのなら、先頭を行くテツに伝えて道を変更してもらえばいいんだ。
そんな気分で俺は立ち止まった。その行動はすぐにイチに伝わり、
「どうしたテル?」
白い精悍な顔を俺へと振った。
「え? ちょっと便所だ」
真実を告るには少し勇気が必要だった。だから小さなウソを吐いた。
「そうか。あまり遠くへは行くな」
立ち止まって待とうとするイチへ手を振る。
「ああ。止まらなくていい。すぐ済むから、ペース落とすだけでいいよ」
「わかった。だが間違ってもこの道から逸れるのでないぞ」
「なんで? もしかしたらもっと歩きやすいところを見つけるかもしれないじゃないか」
「それはあり得ない。テツが選んだ道以外は我々が存在し得ない空間だということを忘れるな」
「へいへい。リーダーには逆らいませんよ」
まだ後ろから何か伝えてくるが、無視して右側の茂みに分け入った。その間、ずっと金髪の少女は後ろに腕を組んで、俺が近寄るのを待っていた。白く瑞々しいきれいな肌をした頬から首筋が、俺をこっちにおいでと誘っており、身体が茂みの奥へと吸い込まれていった。
ガサガサと掻き分けて十数メートル中に入り込んだ。するとどうだろう、すぐに広々とした草原に出たのだ。
「ほんとだ。なんだこの広さ。イチの野郎、騙しやがったな」
「どうしてあんな歩き難いところを歩くのテル?」
「え? きみ誰? 何で俺の名前知ってるの?」
「何言ってるの。あなただってワタシの名前知ってるでしょ?」
「し、知らない……。あ、そうかニーナだったな」
突然、そして忽然と脳裏に湧き出てきた。
「ほらね。そうよ、ニーナよ」
少女は俺の指に自分の滑々した細い指を絡めてくると、ゆっくりと引っ張って草原を歩み出した。
何とも言えない心地よい風が吹き、それにたゆむ金髪や、純白のワンピースの袖口、裾口、あらゆるところから芳しい香りが流れ出してきた。
「うぉぉ。なんだここ、気持ちいい」
俺とニーナは小さな子供みたいに草原を走り回った。こんな開放感は久しぶりだ。ここ数日ずっと茂みの中なので、いい加減うんざりしていたところだから、そりゃあはしゃぎ回ったさ。
そしてだいぶ経って一息入れる。
「ところでさ。俺の仲間がここは紀元前だってバカなことを言ってんだけど、ここはどこ? 今庄の町なんだろ?」
「そうよ。駅前広場のすぐ裏の公園の中なの。あなた騙されて、山の中をぐるぐる歩き回されてるだけよ」
「だろうな。インスタンスだとかスーパークラスとか、ワケの解からないこと言われて困ってんだ」
「他に何を言われたの?」
金髪の少女は蒼く透き通った瞳で俺の目の中をじっと見つめてきた。
確かにこの少女は知り合いだ。名前は、ニーナ・シャーロットさ。
「レポジトリをダウンロードされて……コミットが、どうのとか。俺にはチンプンカンプンでさ」
「そう。たいへんだったね。もう心配ないからね」
しかし心の奥ではまだ訝しげだ。
なぜ俺はこの子を知っているんだろう。必死になって記憶を搾り出すが、まったく出てこない。でもこの子はニーナだ。ニーナ・シャーロットって言うんだ。
「お友達も呼んで、一緒にお茶でもしない? 美味しいパンケーキもあるの。すぐそこのお店。メープルシロップが甘いわよ」
その言葉がとても魅惑的だった。山に入ってから鶏肉ばかり放り込まれていて、そろそろ俺の舌が、甘みを求めて苦言を呈するだろうと思っていた矢先なんだ。
「お。いいな。じゃあさサクラも呼んでくるから、ちょっとここで待っててくれよな」
心躍らせて俺はきびすを返した。もちろんサクラの大好物、パンケーキを食わしてやるためだ。あいつ喜ぶぞ。
「サクラ! いい店があるんだってよぉ!」
Uターンして一歩目。シダのトゲトゲした部分が俺の鼻先を刺し、その痛みで体を仰け反らした。
「いでででで」
何でこんなところにシダが…………。
出かけた言葉をそのままゴクリと飲み込んだ。
目の前は──。
シダ、シダ、シダ。でっかい葉っぱ。緑の葉。葉、葉、葉。絡み合ったツル、ツル、ツル。ツタ、ツタ、ツタ。
まるで大蛇が空を目指して伸びていくようだ。
「ニーナ。どっち行けばいい?」
金髪の少女に訊ねようと振り返る。
「んげぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
シダ、シダ、シダ。でっかい葉っぱ。緑の葉。葉、葉、葉。絡み合ったツル。ぐにゃぐにゃに絡み合って空へ向かうツタとかツルとかがいっぱい。
右も左も……前も後ろも……。
「ぐあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ。あああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
息が切れるまで声を出し続けた。
熱帯ぽい蒸し暑い気温が強く押し戻してきたにもかかわらず。背筋が凍りついた。血の気が失せて顔色が真っ白になった。いや、なっていたはずだ。見なくても分かる。指の先まで冷たくなったのがはっきりと認識できたからだ。
「ニーナっ!」
叫んでみたが、返事などあるわけない。
幻覚だ……幻視だ。
サバイバル部の部長として最大の失敗をしちまったじゃないか。
「やっべぇ!」
無我夢中で後方へ数メートル戻ったが、景色に何も変化が無い。360度、ぐるりがジャングルだった。それが鼻の先にまで迫っている。
我々が存在し得ない空間だ。イチが言っていたとおりだった。
今さら悔やんでみたところで後の祭り。自慢じゃないが、俺の方向感覚は人並み以上のはずだ。でも慌てて戻ったせいで、東西南北どっちを向いたのかも解らなくなった。今の自分がどこなのかまったく不明だ。
あぁぁぁ。バカバカ、俺のバカ。きれいな女の子に鼻の下を伸ばしたばかりに……。
ばばぁん、とサクラの怒った顔が脳裏に浮かんだ。すげぇ怖い顔なんだが、今は飛びつきたい。こんな茂みなんか踏み倒して驀進すればそこへいける様な気がした。
すぐに駆け出そうとして思い留まった。これがパニックだ。恐怖に混乱した者が陥るヤツだ。
進みたくなる気持ちを押し殺して、足を踏ん張り、声に出した。
「冷静になれっ! 俺!」
ここで制御不能になったら、それこそ完全にアウトだ。イチたちはまだそんなに離れていない。もしかしたら俺の便所があまりに長いから止まって待っているかも知れない。
いやそうだ。きっとそうだ。それよりここで恐怖心なんか出して、クルミが消滅したら、それこそ俺はここに置いてきぼりを喰らう。冷静に。冷静になるんだ。
ふと頭を下げた時だった。胸ポケットから飛び出たクルミの人形と目が合った。その子は悲しげな表情で、"イチの命令に逆らうからよ" とでも言いたげに俺の胸ポケットから見上げてくる。
まったくそのとおりさ。大馬鹿者だぜ───。
さらに視線を下げると、足がぶるぶる震えていた。
落ち着け。
必死で自分に言い聞かせ、深呼吸を数度繰り返す。
こういう時はまず方向だ。テツは西に進んでいた。それを俺は右に折れた。つまり北に向かったことになる。なら南に戻ればいい。太陽はどっちだ?
密集したジャングルは陽の光を直接通してこない。ただぼんやりと天蓋が明るいだけだった。
胃の奥がずっしりと重く感じてきた。本気でやばい。マジヤバだ。マジで遭難だ。
『お守りです』
とつぜん幼げな声が聞こえた。
ク……クルミ?
今度はクルミの幻聴だ。頭の中は発狂寸前。
俺の手は無意識に動き、胸ポケットから人形を取り出し握り締めた。まるでクルミに許しを請うように。
「こんなジャングルで死ぬはやだ…………誰か助けてくれ」
まったく行き場を見失い、この場で泣き出したい衝動に駆られたようだ。ほら涙にぬれて人形が滲んで見える。手の中でユラユラと揺らいでるもんな。
「へれ?」
人形を持っていないほうの手の甲で涙を拭ってみたが、手の甲はさらっとしたまんまだ。
「なんだ? 涙で滲んでんじゃないのか?」
もう一度念を入れて眼元を拭き、何度か瞬き、再度人形を注視する。
(この人形は、なんで滲んで見えるんだ?)
少しでも明るいところで見ようと持ち上げて、明るい方向へもたげる。
「ちゃんと見えんじゃん」
おかしい。滲んで見えない。サクラと藤吉が修繕した後まではっきりとそこにある。
そうか精神的衝撃を受けると視力までおかしくなるんだ───と元の向きに体を捻って、
「えーー?」
またもや人形は何も無い空間に融け始めた。
「何だこの現象…………」
理屈は解らないが、俺の正面に差し出すと半透明に滲み出す。
(ならこっちは?)
まだ半透明だった。
そのままゆっくりと体を旋回していくと、さっき人形の再確認をした方向で鮮明になった。
「ちょっと待てよ…………」
独りゴチが漏れる。そのまま茂みを掻き分けて数メートル。忽然と人形が俺の手の中から消えそうになった。
半歩下がると元に戻る。これはあきらかに、この人形の実体化可能な空間が、ここにあることを指し示すんだ。
ワラをも掴む心境さ。試してみて損は無い。再び人形を半透明状態にして、ゆっくりとその場で体を捻ってみる。思った通りだ。時計回りに4時の方向へ差し出した途端、人形の姿が鮮明になった。
そちらへ歩み、人形の可視化が困難になるたびに、鮮明になる方向を見定めてシダのジャングルを突き進むことにした。
この振る舞いのおかげで、俺の方向感覚は完全にマヒしてしまったが、はっきり言って賭けだ。
幻視を見続けた結果、思考力が無くなり、災厄の深みにどんどん嵌まって、気付けば死と対面する──やはり基本に従って動かなければよかった、と猛烈に後悔しかけた時だ。
「これって────!」
思わず叫んだ。
俺の頭が狂ったんじゃない。時間族の実体化と同じだ。つまりこの人形は藤吉の時代から俺たちが持ち出した、言わば紀元前と慶長一年を繋いだ存在なんだ。もしここで俺がどうにかなると、この人形の存在が怪しくなる。だから消えるんだ。
すべての煩悩から遮断された超緊張状態の俺の脳ミソはフル回転した。
(おかしいじゃないか)
もしここで俺が朽ち果てたって、この人形はすでに藤吉の時代から離れているので消えることは無い。21世紀の考古学者が首を捻るだけだ。なにしろ人骨の化石からスマホの破片が出て来るんだからな。SF好きの人間が携帯用のタイムマシンは存在した──! って叫ぶのが落ちさ。
何が言いたいのか。人形が消えると言うことは、まだこの先で俺が何かやらかすということなんだ。それをしないとこの人形が消えちまう、そんな流れになるということさ。たぶん俺の存在よりこの人形の存在のほうが重要なんだ。
お守り───か。
言い得て妙だな、クルミ。
戦国時代のママゴトの人形がこの先で何かをやらかすんだ。だからこれを俺が持って帰らないと人形の意味が無くなり……消える。
「ふははははははははは」
さっきまでブルブル震えていたのに、腹の底から笑いが込み上げてきた。
(コンパスを手に入れた!)
RPGなら派手に音楽が鳴るところだぜ。俺は硬派だからゲームなんかしたこと無いがな。
自分の捻りだした勝手な理論に導きられながら進むこと数分。いきなり目の前が開け、そこにテツが仁王立ちしていた。
「うぉぉっ!」
牙がずらっと並んだ真っ赤な口を広げ、俺に喰らいつく勢いで、がふっ! と吐息を俺に吹きかけた。
血なまぐさい匂いがするのかと思ったが、意外にもミントだ。
「お前さ、ガム噛んだ?」
「─────────」
テツは、はむっ、と口を閉じて、頭を振った。
その仕草を目の当たりにして急激に安堵した。さっきまでの緊張状態が一気に緩み、つま先から飛散してい行くと共に腰が砕けて膝から地面に落ちた。
テツは倒れそうになる俺の前で尻を落とし、俺は嬉しくってヤツの首っ玉に飛びついた。
「テツ! 戻れたんだろ? 俺、元の場所に戻れたんだよな!」
ふさふさの銀白の毛並みが波打って俺の頬を撫でて通る。とんでもなく豪華な気分だった。
「戻ったか……」
テツが首を振り俺を引き剥がしたところへ、イチが顔を出した。
「このうつけものが!」
続いて背後から顔を出した藤吉の傲然とした声と共に、頭の天辺を拳骨でゴンっと殴られた。痛かったが嬉しくて涙が出た。
「テルさま!」
「クルミか! お前のお守りが利いたぜ。助かったよ」
飛びついてきたクルミを抱きかかえ、力いっぱいハグる。サクラを見遣るが、怖い顔どころか少し涙ぐんでいたりして、驚かされた。
「もう……。テルがいなくなったら…………」
意味ありげな言葉の続きを聞きたかったが、サクラは急いで口を一文字にし、代わりに背中の鞘に日本刀をカシャンと格納してイチが言う。
「冷静な判断力、時の流れに対する理解力。いいだろう合格だ」
「何を上から目線で言ってんだ。それよりその言葉は気になるな。俺は試されたとでも言うのか?」
「いずれ理解できる時が来る」
「へっ! 秘密主義もそこまで行けば、ただの頑固野郎だ。いろんな時代を引っ張り回されて。どうせなんか魂胆があるんだろうな。だが俺は負けねえぜ。サバイバル部の部長を舐めんなよ」
イチにはでっかい口で息巻き、
「クルミ。お守りありがとう。ほら。ちゃんと返すぜ」
笑い顔に戻った布人形をリクルートスーツの少女の手に戻した。
この時、さっき脳裏をかすめて通った思考の先が見えた。なぜ人形が消えかけかという理由さ。
(何かやらかすのは、人形ではなく俺のほうじゃないのか?)
慌ててかぶりを振る。
(俺はそんな器じゃんねえ)
「で……サクラ? 何か俺に言いたかったんじゃないのか?」
先ほど漏らした言葉の続きを誘導してみたくて試みたが、ヤツは慌てて指の先で涙を弾き飛ばし、
「なに見てんのよ。ホコリが入っただけじゃない。でもさ、アリに襲われたんじゃなくてよかったわ」
「アリ?」
なんだそれ?
「あれですヨ」
クルミが指し示す先、茂みの奥へ視線を向ける。そこには盛り上がった黒土が見えていた。大きさは公園の砂場ぐらい。柔らかげに見えるが。
「アリンコさんのお家でぇぇす」
「それが?」
「地下数百メートルに渡って広がる原始の蟻の巣だ。落ちたら一貫の終わりだ。しかも体長1メートル近くある大蟻だ」
「げぇっ!!」
そんなのは、アリとは言わねえ。『アントラー』って言うんだ。
──説明しよう。
《円谷●ロ製作のウルト●マンシリーズに登場したのが初回になる蟻の怪獣であーる。でも実際はアリジゴク(ウスバカゲロウの幼虫)の怪獣という説もあるのだが、筆者は子供の時から蟻の怪獣だと思い込んでいるので、これでいいのであ~る》
じゃあ、あれは蟻の精でも見ていたのだろうか。それとも原始の蟻は催眠ガスでも放出して、獲物をおびき寄せるとか……。
「何を見た?」
俺の戸惑った素振りを読み取ったのか、後ろから俺の様子をうかがうようにイチが声をかけてきた。
「何も……」
サクラの横で、女子に鼻の下を伸ばしていた、などと怖くて言えるか。
俺のマジ遭難騒ぎがあってから、再びイチがしんがりに付き、行進はさらに数時間が過ぎ、陽が傾きだしたところでようやく止まった。
テツが先頭で振り向き、全員が集まるのを柔和な視線で見届けていた。
「着いたの?」
まだ誰も何も言っていないのに、サクラが地面に飛び込んで大の字に寝っ転がり、
「あー疲れた。もうあたし歩けないよぉ」
俺もその横へ足を投げ出し、荒い息が収まるのを待った。
「ふぅぅぅぅ。同感だ」
山歩きが好きだといっても丸一日歩き通せば、さすがにくたびれる。
オレンジ色に変色し始めた大空を仰ぎ、大きく深呼吸を続けた。
しんがりのイチが遅れてやって来て、リーダー然とした態度で前に出るとテツと視線を合わせてから、
「……到着だ」
お前何様?
どう考えてもこのパーティの真のリーダーはテツだろう。イチはそのパシリじゃね?
「テツはガイド兼コーディネーターだ」
と言って俺を睨みやがった。
お前、英語が多過ぎ。ぜってぇ忍者じゃねえ。
──で、ここどこ?
重い体を起こして、サクラと一緒に辺りを見渡す。クルミもきょとんとしてテツのタテガミを握っていた。
そこはシダの茂みがぽっかりと開けた、ただの広場だった。
「クォォォォ~ン」
トオルが憂いを含んだ視線で猪肉の先っぽを見つめていた。
おいおい。この行進はいったいなんだったんだ?