1)濃 霧
北陸本線、今庄駅からバスで四十分。終点広野ダムから林道を歩くこと約一時間半。『夜叉が池』と呼ばれるなんとなく不気味な名前の場所にたどり着く。そこからさらに山に入ること、一時間。辺りはとっぷりと暮れていた──。
熱いコーヒーの入ったマグカップを片手に、地面へ直接腰掛ける。
「ふむ。落ち着くぜ……」
パチパチと乾いた音を上げて焚き火が爆ぜている。見上げると小さな火の粉が漆黒の闇にいくつも飛んで、そして消えていく。いつのまにか森は静かに潜み込み、さっきまで零れ陽のように木々の頂から浸透していた月光が嘘のように消えていた。見えるのは炎の揺らぎに照らされた周りの木々だけ。しっとりと夜露に濡れて赤く燃えていた。
空に向かって渋い声でつぶやく。
「どうやら、霧が出てきたな……」
ああ……。
くぅぅぅぅぅ。かっちょいいじゃないか。
──となるはずだった。
でも現実は……いっこうに火が点かない。
あぁぁ~手が痛ぇぇ。やっぱ木を擦って火を点けるのって、どだい現代人には無理なんだ。
地面に懐中電灯を転がすと、仰向けにひっくり返って天を仰いだ。夜露に濡れ森森とした山の冷気が体温を奪っていく。マジで霧が出そうな気配だった。
寒いよぉぉぉ……。腹減ったよぉぉぉぉ。
◇ ◇ ◇
「根性のある奴はここに来い!」
と叫び続けて、俺が作ったサバイバル部は廃部決定となった。せっかく充実した高校生活を送りたくて作ったクラブなのに、二ヶ月で廃部にしやがって、あのバカ女め──。
俺の名前は『峰山耀』神戸の公立高校へ通う二年生。山歩きが好きな両親に育てられた俺は、子供のころから深山を引っ張り回されていた。そして十七才で立派なキャンパーに育っていた。
ちなみに、『キャンパー』って山を愛して病まない俺が勝手につけた名称だけど、つまり、ただのお子様キャンプをする人種と一線を引きたいんだ。最近のキャンプって炊事場が整っていたり、水道設備があったりとかワケ分からんことになっている。挙げ句の果てにはトイレ完備って、何だそれは……。
もっとひどいのになるとテントではなく、バンガロー設備があって夜はカラオケで……って、馬鹿か、そういうのは、もはやキャンプとは言わねえ。別荘って言うんだ。
俺の言うキャンプってのは、誰もいない山奥で、およそ都会の便利なグッズから身を引き離し、最低限の装備で自然に飛び込むんだ。ただ登山家の行うキャンプとか、ビバークとはちょっと異なる。俺は山の頂を目指すのではなく、山の中に溶け込みたいんだ。そういう意味を込めて、高校二年になったのをいい機会に、サバイバル部というのを拵えた。
しかし、そんな危険な臭いのするクラブはハナから認められない、と言うポマードてかてか──教頭に嫌味かよ──の校長の訴えにとりあえず素直に従って。ワンダーフォーゲル部に変更したんだが、何だこの時代。弱っちいやつばかり。山を彷徨うのが目的なのに、蟲ケラに慄き逃げ回るヤツらの多いこと。蛾の一匹ぐらいで、甲高い声を上げて逃げ出すなっ、ちゅうんだ。お前らそれでも男か、漢かよ!
それからほとんどの野郎が言い放したセリフにカチンと来たが、ここはガンマだ。人数が揃わないとクラブとして認められないからな。それにしても連中は腹の立つ言葉ばかりを並べていた。
「女子、少なくね?」とか、
「やっぱキャンプファイアーには女の子、必須でしょ」とか……。
だから俺はハラワタを煮えくり返しながらも、必死こいて女子部員を増やしたんだ。そしたら今度は女子連中が口々に、
「えぇ~。バーベキューとかしないんですか? つまんなぁ~い」って、お前は食い過ぎだ。だから教室の扉で詰まるんだ!
「トイレ無いのぉ?」あるかよ。女も男も外ですんだ。そこら一帯が全部トイレだと思え!
「歩くの疲れるし……」って言われたら、ぐうの音も出んぞっ!
それでも好きなヤツはいるんだ。数人の女子と男子が辛うじて残り、ワンダーフォーゲル部は設立までこぎつけた……というのに、あの川内サクラの野郎。あいつのせいで部員がいなくなったんだ。
中学から顔見知りで、高校入学当初から同じクラスになったサクラは、俺の意見に賛同した最初の入部者だった。
しかも意外と整ったヤツの面立ちは、男子部員勧誘の餌となり、大勢の部員を釣り上げることに成功。その功績を賞賛して、副部長という地位を与えてやったんだ。
ところがだ──。
あいつは度が過ぎるんだ。体力をつけなきゃって、校庭でフルマラソン四十二キロ走らすわ、木刀で素振り一万回って、俺は陸上部や剣道部を作った憶えはねえ。おかげで苦労して集めた女子部員が一瞬で逃げ出したじゃねえか。
気づいたら囲いの壊れたニワトリ小屋みたいに、だぁーれもいなくなった。せっかく春から計画していた、夏季のビバーク訓練は風前の灯に……そして人数不足で廃部決定。馬鹿サクラめ。お前のせいだ。
ヤツは二人だけでも夏季訓練を決行するとわめいたが、女と二人だけで山に入るわけに行かないだろ。だからこうしてひっそりと、この北陸の山ん中でひとりキャンプを張ったというワケだ。
何? 女子部員と二人っきりなら、ウハウハだと? ばぁか。そりゃクラスのアイドル、野々村みなみちゃんとなら、遊園地のお城のようなテントを張ってやるッちゅうもんだが、川内サクラだぜ。いつ崖から突き落とされるか分かったもんじゃない。県大会十年連続トップだという剣道部の誘いを蹴って、ワンダーフォーゲル部へ入ってきたサクラだぜ。おぉ怖い。
──で、寒さと空腹に身体を震わせていたという、シーンに戻るわけだ。
まさにリアルビバークだ。遭難した人の気持ちが分かるってなもんだな。ただ本気の遭難とちょっと違うのは、ガソリンランタンも燃料も持ってきている。あとは火を点けるものさえあればいいんだ。そしたら明かりも点くし、焚き火もできる。そうなりゃご飯だって炊ける。あと欲をいえば、缶切りもあれば、缶詰も開けられるんだがな。なんだってこんな古いタイプの缶詰を買い込んでんだ、お袋よ……。
いまさらお袋に文句をいっても始まらない。ライターと缶切りを忘れた俺がいけないんだ。ポケットに入る小さなツールを忘れたばっかりに──
ウォータープルーフマッチ(防水マッチ)でも買っときゃよかった。
──説明しよう。
《アウトドアショップでは、マグネシウムファイアースターターキットという火打ち石ふうの点火ツールも販売されている。乾燥した紙ぐらいは簡単に点火するのだが、はたして湿気の多いまじヤバの山奥では、ちゃんと着火するのであろうか……。深山の夜ともなれば、紙なんか水に浸けたように、びしゃびしゃになるのである。ちなみに『説明しようオジサン』はこの後度々出てくるので楽しみにしよう》
もう手のひらがボロボロだぜ……。
木片を擦って火を点けるのを諦めた俺は、背筋を伸ばそうと立ち上がり、ぐいっと身体を反らしたところへ、懐中電灯の強い光で顔を照らされた。
「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」
「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ~」
バネのように身体がはじけ飛ぶ自分の反射能力に驚愕した。人間極限にまで驚くと、こんなに跳ねるんだという、実例のように後ろへ飛び退いた。
相手も相当な反射神経をしているのだろう。俺と変わらぬ驚異的な勢いで、ぴょんと飛び跳ねて、
「ばかぁ! テル! アホっ、死ね! カスっ!」
こんな山の中で、これだけ罵倒できるヤツはそうはいない……。
「そ、その声は。さ、サクラか?」
「そうよ。ビックリさせないでよ。大きな声出してぇ!」
「びっくりするワ! こんな山奥に突然現れたら誰でも驚くって」
「えへへへ。やっぱりここだったんだ。テル」
目の前に現れたのがさっき噂をしていた川内サクラだ。サバイバル部の副部長兼、最後の女子部員でありながら自ら廃部に導いた、目の上のタンコブに等しい女だ。
「えらい言われようね。せっかく忘れ物を届けに来てあげたのに……」
「それより、よくここにいるのが分かったな」
「あんたの携帯にあるGPSのアプリを起動しておいたからよ」
「あん? 俺はそんなもん持ってきて……あっ、リュックの中に入れやがったな」
「それを追ってきたのよ。はい。忘れ物」
無邪気な表情で俺にぽいと渡したのは、まずライター。
「バカヤロ。男のサバイバルにそんなモノいるか」
「だからランタンも点けられず、こんな暗闇でコソコソしてたんでしょ」
「コソコソって……泥棒みたいに言うな。俺は火をだな……熾そうと、擦ってんだ」
「原始人でもそんな熾し方はしないって。それより食料は?」
「持って来てるぜ。米に味噌に……塩だ。これぐらいあれば二、三日はいける……」
「じゃぁ。おかずは?」
「……か、缶詰がある……缶切りが必要な旧式のタイプが……」
「はい。缶切り」
次に缶切りが俺の手に渡る。
「ば、バカヤロ。缶詰は石で殴って開けるのがキャンパーなんだ……余計なことしやがって……」
「じゃあ捨てていいわよ。今どき缶切りなんて、必要のない時代なんだから……。あたしが代わりに捨てといてあげようか」
「い、いや。遠いところをわざわざ届けてくれたんだから。貰っとくよ……」
缶切りを受け取り、とりあえずライターを使ってガソリンランタンに火を灯した。
二時間近く木を擦り続けて煙の一本も立ち昇らなかったのに、ライターを使えばコンマ何秒でランタンに明かりが灯る。
圧縮エアーで気化された燃料が噴き出し、それが閃光を上げて燃える心強い明かりは一瞬で闇を遠ざけた。
「はぁぁ。やっぱ、炎は必要だよな……」
「ね」
懐中電灯を切り、俺は腰掛けるための岩を探そうと立ち上がった。その横でサクラは膝を抱えてしゃがみこんでいる。
「あたしのも、お願いね。テル」
「俺の考えが分かるのかよ?」
「座るモノ探してんでしょ」
「あ? あぁぁ」
なんだかこいつは中学のときからこうだった。何か見透かされているような気がする。腐れ縁ていうやつで、高校まで同じになっちまったが、イライラするヤツだ。というより、
「おい、お前。馴染もうとしてんじゃんねえ。忘れ物を届けに来ただけなら、さっさと帰れよ」
俺が先に見つけた岩を横取りして、それへ腰掛けようとするサクラの服装は、緑のジャージの上着に黄色の薄いジャンバーを羽織り、下はピッチリとしたジーンズ。つまり、こんな奥深い山の中を動き回る格好ではなく、あきらかに普段着だった。
しかしいつもの見慣れた学校の制服姿ではないその様相はいやに艶かしく、小柄のクセに豊かな曲線をしたボディは、いったん目を遣ると、引き離すことが困難になる。
こいつ、意外と形のいい尻をしてやがる……。
座り心地が悪いのか、椅子代わりの岩をゴロゴロとひっくり返しては、ケツを上げたり下ろしたり。結局、何度か挑戦したのち、椅子の役から解放された岩はごろりんと向こうへ転がされ、サクラは地面の上に直接座った。
ようやく満足そうな息を吐いて、
「あんた鬼なの?」
不埒な視線を続ける俺を澄み切った瞳で仰いできた。
「なっ!」
──ちょとたじろぐ。
「……お前のほうが鬼じゃないか。あの地獄の特訓のおかげで部員が全滅したんだぞ」
「あたしの特訓に耐えられなきゃ。サバイバル部は成り立たないの。ま、クリアしたのはテルだけだったし。部長として認めざる得なかったのは、正直びっくりしてるんだよ」
「俺がクリアしたって、結局人数が足りなくてクラブとして認定されなかったんだ。意味ねえじゃないか」
「同好会という名目でまたやり直せばいいのよ……。ねぇ。それよりあたしお腹すいちゃったなぁ」
膝を抱え、丸まった背中で茶色いポニーテールを泳がせている小柄な少女は、艶っぽい溜め息を吐いた。
サクラが捨てた岩に腰掛けて、怪訝な顔を上げる。
「話を逸らすな。さっさと帰らなきゃ、親が心配するだろ」
「ウチは放任主義なの。自分の責任で夏休みは自由に行動していいのよ」
「俺は責任を取れん。さぁ早く帰れ」
「こんな霧が出そうな真っ暗な山の中を女の子ひとりで歩かせるの? ここまでGPSを追って神戸から五時間よ。今庄の駅からタクシーを飛ばして、広野ダムで降りるときの気まずい雰囲気わかる?」
痛いほど解るぜ──。
広野ダムといえば、熊が出てもおかしくない山の中にある大きなダムだ。そこに女子高生が一人で降り立ったのだ。そりゃあ運ちゃんビビッたと思うぜ。どう見ても自殺願望の少女にしか見えないだろう。
「当たり前よ、どれだけ車中で明るく振る舞って、すぐ上流で友達がキャンプしているから、こっそり行って脅かすんだって偽って……、そりゃたいへんだったのよ。帰りまで待ってやるって言うのを必死で誤魔化したんだから……」
そしてサクラは丸い目をキッと睨ませて、俺へと言い放った。
「タクシー代、請求するからね」
白い手を広げて見せるサクラを見遣って、俺は一抹の疑問を浮かべた。
「お前、ビバーク(野宿)するつもりで来たのか?」
「うん」平然と首肯する。
「なにも持ってないじゃないか……」
「ライターと缶切りと……、携帯と懐中電灯でポケット満杯……」
ポケットに入っていたものを、全部地面の上で披露してケロッとした。
「ま、まさか……ツェルトぐらいは……」
──説明しよう。
《ツェルトとは、軽量化された簡易型の緊急用テントのことである》
「それぐらいは……持って来たんだろ?」
「なんにも無いわ」
サクラは両手を軽く広げて首を傾ける。栗色のポニーテールがゆらゆらしていた。
仕草は可愛いが、バカかこいつ。
「おい。ここは北陸の山ん中だぞ。せめて食料ぐらいは持って来いよ」
黙ってガムの包み紙を見せて、首をぷるぷる振るサクラ。しかも笑ってやがる。
「手ぶらかよ! お前なぁ。山を舐めるな。サバイバル部の副部長が手ぶらで山に入るなんて、言語道断、もっか横断中だ!」
「なにそれ! ふっるぅぅぅ」
「うるせえ。どうすんだ。食料は俺のを分けてやるが、テントはひとつ。寝袋もひとつしかねえぞ」
「いいじゃん。仲良く分け合おうよ。あたしはぜんぜん構わないわ」
「お、俺は構うって。未成年の男女が、ひとつのテント……。それからひとつの、ね、ね、寝袋に……」
あぁぁ。いかん。鼻血が出そうだ──。
空を見上げて首の後ろをとんとんとん……と。
「んぁぁぁ?」
空が真っ白だった。さっきまで煌々と照らしていた月の明かりが消え、木々のあいだから見えていた星明かりも途絶えている。代わりに視界に入るのは、重々しく天から降りてくるミルクのような乳白色の気体。しっとりと静かにそれは幕を降ろすかのように下がってきていた。
「霧が濃くなってきてるぞ」
勢いよく燃えるランタンの力強い光でさえも圧するかのような、重量感のある白い空気が見ているまに俺たちを包みだした。
「すごぉーい。霧だわ。濃霧よ」
「いやいやいや……こんなの初めてだ」
肩が触れ合うほどに擦り寄ってくるサクラの艶かしいボディでさえも、霧の向こうに沈んでいきそうな濃い湿気だった。
「お、おい。ここを離れるなよ。これだけ視界が悪くなると危険だからウロウロするな」
「サバイバル部の部長のそばに居れば安心なんでしょ」
「お、おう。廃部決定だけどな」
「そうよ。こういう経験を今の軟弱男どもにさせるべきなのよ。やっぱもう一度校長を説得させようよ」
地面の上で体育座りをしたサクラはランタンの明かりを見つめ、そう言った。
「そ、そりゃいいけど……そんなことより、どうすんだ。今晩……お前」
俺、そればっか。そりゃ健全な高校生だ。さっきから心臓が飛び出す勢いで鼓動を打ち鳴らしている。
「焚き火……しよ」
どうもこいつのペースに乗せられてしまう。確かにこの濃霧の中ひとりで帰らせるわけは行かない。けど、いいのか男女が二人きりでキャンプなんて。
そうか、緊急時だったらいいのか……。これは不慮の事態で、『やむなく』一夜を明かすんだ。つまりフォーストビバーク(不時野営)というやつだ。
何度も言う、緊急時だ。緊急。やばいんだ。
「おっ、おう。するか焚き火……」
しかし木を擦って火を熾すことに躍起になっていた俺は、焚き木の準備も食事の準備もまったくしていなかった。かといって、この濃霧の山中へ焚き木を拾いにうろつくのは超危険だ。
白く重い大気はさらに濃くなり、山の霊気に巻かれゆく息苦しさまで感じる。ねっとりとした濃霧は静かに俺たちをずぶずぶと深く沈めていった。
「ちょ、ちょっとこれヤバくない? あたし何んだか自分の存在が薄れてきたよ、テル……」
「ば、馬鹿なことを言うな。気をしっかり持てこれはただの霧だ。山でよくあるただの湿気だと思え」
あまりに濃い霧は俺とサクラの距離をさらに遠ざけるかのように深く沈んでくる。気づくと、いつのまにかヤツがにじり寄ってきていた。
俺の腕にしがみついてくる血色のいいサクラの頬ですらも、ミルク色の海の中に沈んでいく。本気でこいつがどこかへ消えてしまいそうな気がして、思わず肩を抱き寄せた。
「ぬおぉぉ」
鼻の先にサクラの髪が触れた。いい香りが漂い我に返る。
やべぇぇ。何やってんだ俺。い、いや別に変なことをしようと思ったわけじゃない。こいつがどこかへ消えてしまいそうになったからだぜ。
急いでランタンを目の前に寄せてサクラの様子をうかがう。
彼女は丸い目をキョロキョロさせて、霧の流れの奥へ視線を彷徨わせていた。
「サクラ……」
「ん?」
「焚き木拾いは霧が晴れてからにしよう。まずは晩飯の準備だ」
やっとヤツは自分が俺に近づき過ぎていたことに気づき、ちょっと恥ずかしそうにすっと離れた。
「でも焚き火無しで、どうやってお米を炊くの?」
「まぁまかせろって。こういうときに慌てないのがキャンパーだ。サバイバルだ」
アルミ製のコッフェルに、川から汲んであった水を注ぎ、火傷をしないように高温になったガソリンランタンの傘を外して、その上にかざした。
──説明しよう。
《ガソリンランタンのヘッド(傘)はものすごい高温になるので、注意が必要である。
作者は雪の中で、餅を焼いて食べた記憶がある。もちろんヘッドは汚く焦げたが、その後の使用に支障は出ていない。しかしとても危険なので、決して真似をしないようにしよう》
「ほれ、その無洗米を入れろ」
サクラは水の入った鍋にザラザラと米を流し込んだ。
「どれぐらい入れるの?」
「だいたいでいいんだ。入れたらその焼き鳥の缶詰を入れてフタをする」
と言ってから、しばし思案の後、言い直す。
「缶のまま入れるんじゃねえぞ」
サクラは慌てて水と米が入った鍋の中から、缶詰をザバザバと引き上げた。
「だろうと思っていたぜ」
「えへへへへ」
照れくさそうに、サクラが柔らかな髪の毛を手でくしゃくしゃと掻いた。
「お前、料理しないだろ?」
「さすが部長っ。よくお見通しで……いよっ、にくいよ」
「太鼓持ちかお前は……。あんなぁ。缶ごと入れるヤツはだいたい料理ができないヤツだ」
「分かったよテル。今度から気をつけるよ。でもあたしだって、このご飯が美味しそうに炊けるとは思えないんだけど……」
「キャンパー料理だ。つうか、おかゆだよ。水加減は適当でいいんだ。沸騰さえして、お米がふやければいいんだ。後は焼き鳥のスープの味付け次第さ。濃すぎるときは水を加える。足りない時は塩で調整だ」
「へぇ。さすが部長……でもずっと持つ気?」
「ランタンのガラスに置くと割れる可能性があるし、倒れたら危険だからな、交代で持ち続けるんだ。それと手袋をリュックから出してくれ、それで持たないと取っ手が熱くなる」
やがてコッフェルの内部が沸騰を始める。同時に金属の取っ手が熱くなり、あちちとか言い続け、四十分後、おかゆが出来上がった。
二人でおかゆを分け合って食する。
「はふはふ……。ちょっと焦げてるけど美味しいね、テル」
こうやって見たら可愛いやつなんだ。小柄のわりに目を離せなくなるグラマラスなボディは好みだ。ただ、男勝りの運動神経と俺をも凌駕する図太い神経はどうもいただけない。やはり女は力などいらない。おしとやかでガラスの神経で上等だ。すべてまとめて守ってやる。だから目の前で、がさつにおかゆをすするサクラを見ていると、どうしても気落ちしてしまう。さっきは霧のせいでちょっと揺らがされたが、こいつは俺のタイプではない。強いていえば……そうだな、男どうしという関係なら、うまくやっていけるかも知れない。
「ん?」
美味そうに口をもぐつかせるサクラの表情に焦点が合いやすくなっていた。
「おいサクラ、霧が晴れるぞ」
「すっごぉぉぉぉい」
濃霧は現れたときと同じように、みるみる晴れていく。下から上に向かって、それこそ幕が引き上げられるように、一斉に消えていった。
と同時に、天から射す一筋の光り。スポットライトかと見紛うような演出。左右にそびえていた樹木のあいだを突き抜けて満月の明かりが射し込み、辺り一面を青白く蛍光色に照らしだした。
何もかもが光り輝いて見える。覆い茂る草の先、樹木の縁に沿って先端に向かって並ぶ光の粒。霧が残した水玉すべてが光り輝いていた。
そして天からのメッセージのように、物悲しく鳴く鹿の声音が青白く透明な森の中を響き渡った。あまりに神秘的な美しさに、俺たちは魅入られ長い時間沈黙した。
最初に我に返ったサクラが地面の上を指さし、
「なんだろう、あれ? ねぇテル?」
絨毯のような草の上にオレンジ色に輝く物体が視界の端に映った。
青白いスポットライトに明るく照らされたその物体は、自ら光を放つかのようにさえ見える。
「石……かな?」
サクラが拾ったのは、ここらに転がる岩とか石とはあきらかに異なった種類の、いわゆる特殊な鉱石とでもいえるようなものだった。
滑々の表面はオレンジ色をベースに薄く黄色い縞が漂い煌いている。踏みつけたり、蹴飛ばしたりできない不思議な威厳を帯びて、まるで宝石のように彼女の手のひらで月明かりを反射していた。
大きさカタチは中クラスの鏡餅の上側という感じで扁平した楕円形だった。宝石にしては大き過ぎる。岩にしては磨かれたみたいに滑らかな表面はありえない。
──それよりだ。再び激しく鼓動を打ち出した胸を鷲づかみにした。心臓がおかしい。フルマラソンを完走したときよりも負担が掛かるのはどうしたわけだ。
持って来るつもりはなかったが、サクラが勝手に入れていた携帯をポケットから引き出し時間を見る。午後11時35分になっていた。宝石みたいな岩のことはもうどうでもいい。
──つまりそろそろ。なんだ、寝る時間ということだ。朝までここに突っ立っているというわけにはいかないだろう。
どうしたモンか……うぅぅ。心臓が、脈が……。
俺の血圧異常に気づきもしないサクラが、屈託の無い表情を向けた。
「やっぱこれだけ山深いと賑やかなんだね……」
──説明しよう。
《真夜中の森の中は意外に騒がしいのである。鳥は夜になるとおとなしくなるというのは、都会での話である。深い山の森林の中では夜行性の鳥もわんさかいて、昼とそう変わらないのである。
作者は鳥取の深山で朝までホトトギスの集団に鳴かれて、よく寝むれなかった記憶があるのであった》
そして、夜空に向かって何度も悲哀に満ちた笛のような鳴き声を上げるのは、野生の鹿だ。何がそんなに悲しいんだろう。
「怖くねえのか?」
「なにが?」
サクラの返答は平然としていた。きょとんとした視線を俺に向ける。
やっぱこいつ男だ。ふつうこれだけの野生動物に囲まれてこの暗闇。ビビリまくって、俺にしがみついてきてもいいもんだろう。さっき霧の中で見せた態度は、何かの間違いだったんだ。
そう思った途端、心臓が平常時の鼓動に戻っていった。
「おい、サクラ。そろそろ寝るぞ」
「うん」
って、そんな素直に。お前何とも無いのか? 男女二人が狭いテントの中で横になろうとしているんだぞ。もう少し動揺するもんだろ。
「じゃあ。お休み、テル」
てぇぇぇぇっ! お前っ!
「なんでお前、テント勝手に入って……おい、ファスナー閉めようとしてんじゃねぇ」
「なんでよ。あんた外で寝なさいね。じゃお休み」
「こ、こら! これは俺のテントで、それは俺の寝袋だ。勝手に独占するな」
サクラを引きずり出そうとする俺の手をヤツは一瞬にひねり上げて、そのままねじ伏せやがった。
「いででででで。この野郎!」
こんなクソ女に負けていられっか! 力では俺のほうが勝るはずだ。
「ぐもももももも」
冷や汗が噴き出た。ねじ伏せられたまま動けない。
「くそぉぉぉぉ。馬鹿サクラ! 何しやがる」
「どっちが強いか、あんたの身体、まだ覚えてないのね」
「は、離せサクラ……」
瞬間にテントの向こうに投げ飛ばされた。そりゃすげぇ力だった。
俺のほうが体格もいいし、筋力もあるはずなのに……動けなかった。
「13才で剣道初段取得。合気道は小学校からずっとトップクラスだかんね。この痛み、まだ覚えてないの?」
「……………………」
こいつの強さは中学から知っている。しかし俺だって物理より体育の方がダントツに成績がいい。フルマラソンの後に素振り一万回をこなすぐらいだ。そろそろこいつに勝てる域に達していたと思っていたんだが、まったく動けないなんて、いったいどうなってんだ……。
「こらっ! 返事は?」
「わ、わかったよ。さくら姉ちゃん……」
と口に出して、慌てて手で覆った。
「シスコン……」ポツリとサクラが漏らす。
やばい言葉が出ちまったぜ。こいつ知っていたんだ。
さくら姉ちゃんとは、去年嫁いだ5歳年上の姉貴のことだ。旧姓、遠峯さくら。現、平沢さくら……。川内と同じサクラだから、つい出ちまったんだ。俺がどうしても頭が上がらない女性はこの世でただ一人。さくら姉ちゃんだけだ。
「うるさい。姉ちゃんは特別なんだ。お前とは違って……」
すぐに口を閉じた。何か言えば言うほどシスコンだと認めるようなもんだ。
ただ腹の中では思いっきり叫んでいた。
お前と違ってガサツでもなく、優しくおしとやかなんだ。ただいつも俺は弄ばれていたんだ。なぜだ? バカヤロー。
胸中で込み上げてくる叫び声を遮断するように、サクラはテントのファスナーを下げた。
「おい、ってば。サクラさん……?」
ヤツは聞いちゃいない──。
シスコン呼ばわりされたショックか、妙に弱気になった俺はテントの外からつぶやく。
「……凍え死んじゃうぜ」
山の空気は夏でもかなり冷える。湿気のせいもあり白い息が出ていた。
「わかったわよ……」
サクラはしぶしぶファスナーを上げた。甲高い摩擦音が森の中を浸透する。
俺のテントだというのに、主人面をしたサクラは中から首をにゅっと出し、
「入っていいわよ。ただし寝袋はあたしが貰うからね」
それも俺のなのに……釈然としないが、渋々承諾してテントの中に入れさせて頂く──俺のテントなのに……。
テントの中は狭い。身体がどうしても近寄ってしまう。それに寝転がると、どんなに離れようとしても、地面の傾斜が影響して身体がくっ付いてしまうのだ。
「ねぇ? テル……」
「ん?」
「枕無いの?」
「バーロ、ビバークで枕なんかあるか」
「ふ~んそうか。なら仕方ないわね」
キャンプで枕を持参するやつなんているのか?
そのあたりはサクラも理解したようで、黙って寝袋に身体を突っ込むと、隣でごろんと転がった。傾斜に体を任せると、ころりんと転がり、俺の顔の真ん前へ顔が向く。鼻と鼻が当たった。
「うぉぉ。ビックリするだろサクラ、もっと離れろ」
「んもう。ここ斜めになってるから、どうしてもそっちに転がるのよ。あんたね、テント張るなら真っ直ぐなところにするか、坂の上に頭が来るようにするのが常識でしょ」
うむ。基本は知ってやがる。というか、本当なら俺だって正しくテントを張りたかったが、お前が突然やってきて、濃霧に包まれるわ、飯は作らされるわ、で結局テントまで手が回らなかったんだ。
「我慢しろ」と言い放って、サクラへ背中を向けた。
「もう……」
とか言って、ヤツはせっかく潜り込んだ寝袋から出てきた。そして何やらゴソゴソ。テントのファスナーではないが、それより小さな同じ種類の音。そして布の擦れる音が続く。
「何やってんだよ?」
ごろりとそちらへ寝返りを打とうとする俺の頭を灯りの点いていた懐中電灯のケツで、ごんっ!
「馬鹿エロ親父、向こうむいてろ」
「なっ!」
慌てた。せっかく収まっていた心臓の鼓動が再び激しく打ち出した。内燃機関のピストンのように熱く激しく脈を打つ。サクラはジーンズを脱いでいたのだ。
俺はあっちゃ(あっち)を向いたまま。
「こ、こら。何をする気だ。ば、バカヤロ。俺たちは未成年者だ。こんな山の中で小さなテントの中……むひょう~」
とんでもなく変な声が出た。これまでに出したこともないような間の抜けた声だった。
「顔をこっちへ向けたら殺すからね」
サクラは俺を殴った懐中電灯を消した。
「わ、わかってる。な、何をしてんだ、お前……」
「さっき拾った石をジーンズで巻いて枕にするの」
「あっ。なるほろ。それはグッドアイデアっす」
いきなり萎む俺。別にへんな期待はしていないが、なんで落胆してんだろ。
「わぁ。この石光ってる。」
懐中電灯が消されて真っ暗闇になったテントの天井が、薄っすらと橙色に揺れていた。
「なんだそれ?」
そちらへ顔を向けようとして、再び、ごんっ。
「痛っつつつ」
「見るなって、言ってんだろ。この、べーすけ!」
怖い目で睨むサクラの下着の色が、薄い水色だという驚愕の事実に、もう一度血圧を上昇させながら背中を向けた。
「ばかやろ、勝ってにしろ。俺はもう寝る」
これ以上起きていると、心臓に悪そうだったのですぐに目を閉じた。
サクラもそれ以上騒ぐこともなく、オレンジの石をジーンズで巻くと寝袋に入って俺へ背中を向けた。しばらくゴソゴソ。傾斜で滑ってサクラの尻が俺の尻とドッキング。
俺たちはお知り(尻)合いの仲、という体勢でバランスを取って寝る羽目に。あまりに気持ちのいい柔らかさに逃げ腰になるものの。いくら逃げてもヤツは滑ってこっちにくっ付いてくる。
何度突き放しても、気づくと俺の背中にぺったりと、まるで寄り添うような感じに、目はギンギラギン。ヤツは俺に身を任せていることを気にも掛けていないようで、すぐに寝息をたて始めたが、こっちはうら若き青年だ。そうはいかないだろ。
寝袋の薄いシート(夏用)一枚向こうに、下半身を半裸にした女がぴったりくっ付くという状況は生まれて初めてなわけで……。さくら姉ちゃんの湯上がり姿とか下着姿とか、そこそこの免疫がついているとはいえ。こんな狭い空間で二人きりというシチュエーションは驚嘆に値する。
「寝れるわけねぇぇぇだろ!!」
──すっかり寝ていた。
薄明るくなったテントの天井が見える。あ~身体がそこらじゅう痛い。尖った石がテントの下にあったんだ。
横を見るとサクラがいない。寝袋は脱皮した毛虫のような状態になっていた。
ヤツは反対側にいた。起きたばかりなのだろう、テントのファスナーの前で膝を外に折って、尻をぺたんとつけた姿で、ぼぉぉと、もしゃもしゃの髪の毛をたゆませていた。残念ながらジーンズはすでに穿いていた。
「おはよ。テル……寝れた?」半面を俺へとひねって朝の挨拶を。
「寝たような、寝てないような」
テントの外から漏れる朝陽で逆光になったサクラは、後光を放って眩しくて見ることができなかったが、ヤツはご機嫌な様子で俺に声を掛けてきた。
「朝ごはんはあたしが作るからね。もうちょっと寝てていいわ」
なんだか新妻のような言葉を綴ってテントのファスナーを上げた。
サッと流れ込む森の清々しい空気。マイナスイオンたっぷりの大気が鼻腔をくすぐってきた。
サクラのいい匂いも一緒に。なんか幸せだ……。再びまどろむ、至高の二度寝。たまにはこんなのもいいもんだ……。
しかし幸せな時間は超短い。サクラの強張った声に飛び起きた。
「だ、誰よ! あんた!」