あの日の踏切
踏切の音が途切れ、遮断機が開いた。
何の気紛れか、俺はこの町にやってきた。
どんよりと曇った空。土の匂いを含んだ湿気った空気が肺に流れ込む。駅前のバス停にはバスが止まっている。エンジンを止め、客は乗っていない。屋根付きのベンチの下には、老人が手拭いを顔に被って、どうやら眠っているようだった。
少し歩いた。
どこに向かって歩いているのか、俺には目的がない。人間、急に思い立って、知らない町に行きたくなる時があるものだ。俺は今、そんな旅をしている。
この町は、たぶん、初めて来る場所だ。
弁当屋の前の横断歩道を渡ると、小さな郵便局があった。白い壁、赤い色は随分色褪せている。少し行くと古ぼけたコインランドリー。分不相応に大きく、ぼやけた看板が駐車場の鉄塔の上に掲げられている。
なんだか懐かしい気がしてくる。都心から外れた田舎の住宅街は、どこも同じようなものなのだろう。懐かしさを感じるのは、きっと過去に、同じような場所を歩いたことがあるからだ。
やがて、俺は一軒の安アパートの前で足を止めた。
アパートは2メートルほどの石塀に囲まれていて、入り口には縦書きで『裏野ハイツ』と記された表札があった。表札の薄いプレートは長いこと風雨にさらされたためだろう、さび色に変色して、角は曲がっている。
――ここだ。
何となくそう思った。なにが「ここ」なのか自分でも良くわからないが、俺は、吸い込まれるように、『裏野ハイツ』の敷地に足を踏み入れた。
「こんにちはー」
敷地に入ったところで、小さな男の子が手を振って挨拶をしてきた。
「こんにちは」
俺もそれに応えて、軽く手を振る。
それにしても懐かしい。
子供の頃、ここに住んでいたことがあったかな。学生時代に、ここと同じような安アパートで独り暮らしをしていたことがあったが、ここではない。
そんなことを考えてぼんやりと建物を眺めていると、誰かが階段から降りてきた。メッキの剥がれ落ちた階段に足音が、ゴン、ゴンと響き、反響している。
階段を降りてきたのは、眼鏡をかけた老婆だった。
「御用ですか」
優しい声でそう話しかけてきた。ここの大家だろうか。以前どこかで会ったような気もする。気のせいかもしれない。
「いえ。あの……」
「お茶でもどうですか。私もね、話し相手がいないもんですから」
俺は笑ってしまった。
この年になって、老婆からナンパされるとは。
俺は、老婆の言葉に甘えることにした。俺がこの町に来たのは、このアパートが目的だったような気がしてくるのだ。
老婆の部屋は201号室だった。
老婆は愛想よく笑いながら、よちよちした動作でお茶を淹れてくれ、和菓子も用意してくれた。ちゃぶ台を前に正座して、子供の頃を思い出す。もう亡くなってしまったが、俺の祖母も、俺が来ると必ずこうやって、茶と菓子を用意してくれた。
お婆さんというのは、そういうものなのかもしれない。生い先が短くなると気まで短くなるのが爺さんで、お婆さんというのは、どこへいっても、にこにこしている。祖母を思い出すとき、俺は決まって、その笑顔を思い出す。
「すみません、お邪魔しちゃって」
「いいのいいの。ちょうどお話し相手がほしかった所だから」
老婆はそれから、自分の孫の話などをし始めた。
特に興味はなかったが、この老婆の気が済むのならいいかと、半ば聞き流しながら聞いていた。ゆっくりと時間が流れてゆく。
暫くして、ガタガタガタと、このアパートには似つかわしくない音が聞こえてきた。アパートの前にトラックが止まったのだった。
「あら、来たみたいだね」
「何ですか?」
「引っ越し屋さんだよ」
「入居者ですか?」
老婆は静かに首を振った。
「出て行くの」
仕方のないことだから、と自分に言い聞かせるように、老婆は深く頷いた。
「一階に住んでた親子。あそこの男の子が可愛らしくてねぇ」
「さっき、挨拶してくれた子かな」
「……きっと、そうね」
確かに可愛らしい子だった。
初対面の大人に、平気で挨拶ができる無邪気な子だ。娘夫婦がこのアパートに遊びに来たのは一度きりだというから、寂しい老人にとっては、あの子は実の孫のように可愛いかったことだろう。
「もう慣れっこだけどね」
「引っ越し、よくあるんですか?」
「しょっちゅう出たり入ったりするから」
「へぇ。何か、理由があるんですか?」
老婆はため息をついた。
「出るの」
「出る?」
「幽霊が」
「幽霊、ですか?」
「二十年も前の話なんだけどね、この隣の202号室に、学生さんが住んでたの。よくお友達が遊びに来てて楽しそうだったんだけど、ある夜にね……」
俺は思わず、生唾を呑んだ。
老婆は静かに続けた。
「来てたお友達の一人が、帰りに電車に轢かれてねぇ……。それからこのアパートで、幽霊が出るようになって――」
「このアパートに出るんですか」
老婆は、俺の目を見てじっくり頷く。
「なんだ、おかしな幽霊ですね。電車の事故なのに、わざわざこのアパートに出るなんて」
俺がそう言うと、老婆は一層暗い面持ちで言った。
「それがねぇ、その夜、隣の部屋で喧嘩している声が聞こえたんだよ。たぶん、お酒も飲んでたんだろうねぇ。大きな声で言い合ってて、その後――鈍い音が聞こえたの」
「え……」
「でも音だけ。それから静かになったけど、私は、あとのことは全然知らない」
老婆は、その事件の顛末を教えてくれた。
結局その亡くなった学生は事故死として扱われ、ほどなくして、老婆の隣に住んでいた学生も引っ越していった。そのことがあってから、アパートの入居者が人の気配や影を見たり、物音を聞くようになったりして、入ってきてもすぐに引っ越していってしまうようになった。
「その、引っ越した学生はどうなったんですか?」
「風の噂なんだけどね……」
老婆は前置きして、ゆっくり口を開いた。
「K市の精神病院に入院したってきいてるよ」
ぞわぞわっと、背筋が粟立つのを感じる。
もしそれが、本当に幽霊の祟りだとしたら――。
「お婆さんの聞いた音って……」
学生が、酒の勢いに任せた口論をし始めた。頭に血が上った片方の学生が、その辺にあったもの――例えばバッドなどで、思わず友人を殴ってしまった。
ありそうな話だ。
学生は、友人の死体を線路まで運んでいった。電車に轢かれてしまえば、もはや他殺の痕跡などは残らない。このあたりは昼間でも閑散としているのだから、夜――深夜ともなれば、人通りもないのだろう。
「今となっては、わからないことだよ」
老婆はそう結論付けて、茶をすすった。
「部屋、入るかい?」
俺は怖いもの見たさで、頷いた。
202号室、鍵は老婆が持っていた。
「それじゃあ、またね」
「お茶、ありがとうございました」
「いえいえ、あんなもので良ければ」
老婆はそう言うと、自室に戻っていった。
俺は一人で、202号室に入った。
何もない空間が広がっていた。
一階で荷物を運びこむ人の足音や、物のこすれる音が聞こえてくる。
畳の上に座り、畳を撫でる。
なんだか、やっぱり懐かしい気がする。
二十年前、本当はここで何があったのだろうか。怖いはずなのだが、さほど恐怖は感じない。
目を閉じると、その夜の出来事が思い出されるようだった。取っ組み合っている相手の息が首筋に当たる。酒の缶や瓶が蹴倒される。やめて、やめてと、女が争いをやめさせようと叫んでいる。
俺は、畳の上に倒れ込んだ。
頭がずっしり重たくなってくる。意識が遠のいてゆく。
そういえば、あの時も俺は――。
踏切の音が、遠くから聞こえてくる。