幸せ
河合 幸子の夫は八月に死んだ。
熱帯夜の夜。自宅の物置で首をつって、自ら命を絶ったのだ。
彼の遺書には、妻幸子には今まで迷惑をかけてすまなかった。これからは幸せになって欲しいと、手短に、丁寧な字で書かれていた。
夫の葬式の時、夫の親族は幸子のことを次々と労っていった。
それもそのはず。彼女の人生は夫のせいで、良い人生を歩んでいるようには見えなかったのだ。
夫は祖父の代から続く会社を継ぐも、事業に失敗し、倒産。他の仕事を始めれば、不満を直ぐに訴え長続きしない。己の駄目な人間、何もできない屑だと決めつけ、次第に行動力を失っていった。
幸子には「お前も俺を馬鹿にしているんだろう。見下しているんだろう」と被害妄想を抱き、暴力を振るった。
働きもせず、することと言えば、愚痴をこぼすことと、暴力を振るうこと、酒を飲むことだった。
そんな夫を幸子は顔色一つ変えず、見捨てもせず、身を削るように支え続けた。周りには恨み言一つも言わず、顔に痣ができようとも涼しい顔をしていた生活だった。
干渉はせずとも、風の噂で幸子がどのような生活をしていたかは、親族皆、大体は把握していた。
「あんたはいい嫁だ」
「あんな子の為に、ここまで苦労して」
「これから幸せになりなさいね」
「ここまで人に尽くせる人間はそういないよ」
「気に病むことはない」
「若いんだから、もっといい人が直ぐ見つかるよ」
親族たちは口々に幸子にそう言った。
幸子はこの言葉を顔色変えずに受け止め、声をかけてくれる人に何度も礼を言う。
だが、幸子の聞こえぬところで、様々な憶測が飛び交っていた。
「腹の中では、あんなお荷物がいなくなって清々したと思ってるんじゃないかね」
「そりゃ人生を滅茶苦茶にされたんだ。恨んでいても仕方ないよ」
「本当は保険金目当てで殺したんじゃない? 自殺に見せかけるとか、精神的に追い込むとかしてさ」
「情に厚い人かと思っていたが、あれ程表情を変えないんだ。案外、冷血なのかもな」
親族たちは、勝手な議論で幸子の心境を想像したが、一人も幸子の本心を当てれなかった。誰一人として、当てることができなかった、幸子の思いがあった。
それは、幸子が夫を深く愛していたということだ。
夫は死ぬ前日、幸子にこう問うた。
「どうしてお前はそこまで俺に尽くす。そんなに俺が可哀想か」
その問いに幸子はなんの躊躇いも見せず
「いいえ。私はただ、あなたを愛しているだけです」
嘘の交えない声と、真っ直ぐな視線でそう言った。
その言葉と幸子の眼差しで、いつの間にか忘れてしまっていた幸子への愛情を、夫は呼び覚ましてしまったのだ。
まだ若々しい夫婦だった頃、幸せで愛し合っていた日々を思い出す。
夫の心の中では、今までの己の不甲斐なさを詫びる心と、幸子への愛情が激しく暴れていた。
幸子を今まで不幸にしてきた分、幸せにしてやりたい。しかし、駄目な自分では不可能だ。離れてやらなければ。こんな甘ったれた自分では、いつかまた幸子に甘えて戻ってきてしまう。もう二度と会えぬような遠い場所へ行こう。
そうして彼は首を吊った。
これが彼の最後で最大の、幸子に対する愛だった。
しかし、夫の愛に幸子は気づかず、誰もいなくなった夫の墓の前で大層取り乱した。
「私はあなたがいれば幸せだったのに!
それだけで報われたのに!」
髪を乱し、喪服に土をつけ、顔は涙で酷い有様だった。
夫は幸子の幸せに気づかなかったのだ。
ただ幸子の心にあるのは、恨みでも幸せでもなく、悲しみだった。
ただそれだけになってしまった。