11.旅立ちは朝露とともに
11.旅立ちは朝露とともに
エドガーは頬に小さく火傷を負っていたが、他は至って無傷そのものだった。
だけど、アトモもエドガーも、お互いに真剣を使っていた。もしかしたら、大怪我を負っていたかもしれない。
アトモは司祭様に力を認めてもらうと言っていたけど、そんなものは村を守る度に認められているはずだ。どうしてエドガーと闘う必要があったのだろう。わからない。
「エアさん…。その、顔が近いです…」
「えっ? うわあ、すみません!」
慌ててエドガーから距離を置く。
「これでよし、と。明日また、その軟膏を火傷の箇所に塗れば、跡は残らないと思いますよ」
「…ありがとうございます」
「どういたしまして!」
エアとエドガーは、教会の中にある司祭の部屋に連れてこられていた。司祭は机に向かって何やら書をしたためていたが、数分も経たないうちに封筒に入れて蝋で封をした。
「さて、エア。私は夜の巡回に行ってきます。エドガーのことを頼みますね」
「えっ!? いや、その、見廻りなら私が…!」
「いいのですいいのです。私に任せておきなさい。それに、この仕事は私の日課ですしね」
司祭は優しく微笑むと、部屋を出て行ってしまった。
なんとなく気まずい気持ちになり、エドガーから少しだけ離れた位置にある椅子にとりあえず座る。
「ヘルメスも人が悪いな。何も初対面の人間をわざわざ合わせて閉じ込めなくてもいいじゃないか」
エドガーが苦笑いしながら言った。
エドガーは司祭様のことを名前で呼んでいるんだ。
「その…。エドガーさんと司祭様は、お知り合いなんですよね」
「そうですよ。大陸にあるとある村の修道院で、一緒に魔術を勉強していた仲です。ヘルメスとは少し歳は離れているけど、友達にそんなものは関係ないですから」
「へぇ…」
大陸を隔て、自分の身を捧げる場所を異にしても、今もこうして信頼し合っている。羨ましい限りだ。
「ヘルメスはとても頭がいい。対して俺は体力自慢なだけで全く勉強できない子どもだった。ヘルメスがいなければ、今頃文字も読めなかっただろう」
エドガーの声は若い顔立ちにしては低く掠れていて、もしかしたらお父さんと似たような声をしているかもしれない。エドガーの話を聞きながら、エアはそんなことを考えていた。
「騎士団には、何故入ろうと思ったのですか」
「そんなの、決まってますよ。強くなって、家族や村の人達を守りたかったからです」
エドガーはまた、苦笑した。
「結果、強くはなりました。大きな戦争こそなけれども、戦も何回か経験しました。けれど、全ての村を守り切るなんてことはできない。せいぜい、馬と自分の足が届く距離にあるところしか、助けることができないし、相手が集団であれば、手も足も出ない。襲撃の報らせを受け取って早馬で駆けつけたものの、既に手遅れだった、ということも珍しくない。それが現実です」
「…」
「だから、村に住む人たちに白い目で見られるのは、ここが初めてではありません。もちろん、それを理由に見放したりするようなことはしませんよ。彼らには彼らの言い分があって、それは正しいのだから。…僕は、全てを守るとは言えないし、約束できない。だけどせめて、手の届くところにある託されたものだけは、何があっても必ず守り通すと、そう誓ったんです。たとえこの身に替えようとも、その誓いだけは破らないつもりです」
エドガーは拳を胸に当てて、そう言った。それは、自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
「エアさん。あなただけでもどうか、僕を信頼してはもらえないでしょうか」
「そんなに大義にならないで下さい。司祭様も、堅くなるなとおっしゃっていたじゃないですか。…信頼していますよ、エドガーさん」
「…ありがとう」
終始苦しげだったエドガーの顔が、ようやく綻んだように見えた。
※
夕食の後、エアは自分の家へ戻るつもりでいた。教会を出て、広間を抜けるとアトモが墓地の方へと歩いていくのが見えた。エアは慌ててその後を追った。
「ねえ、どこ行くの?」
「エアか。裏の丘だよ」
「こんな時間にどうしたの?」
「親父とケンカした。…勝手なことすんなってさ」
「決闘のこと、お父さんに言ってなかったの?」
「言えるわけ無いだろ。言ったら止められるに決まってる」
「それは、そうかもしれないけど…」
「これから頭冷やしにいくとこだ。…エアも来るか?」
「うん」
二人は家々の間を通り抜け、寒空の下に伸びる坂を上り、墓地のある小高い丘を目指して歩いた。
今夜は、吐く息はまだ白くはならないが、手の指の先がかじかんで、少しだけ痛くなるくらいには寒かった。
丘の上に着くと、村の周りを森の木々が包み込むように広がっているのが一望できた。木々の間からは村の灯りがこぼれ、煌めいているのが見える。その様子が夜空に星が光るようで美しく、エアはそれを見るためにこの丘に来るのが好きだった。
「アトモ。昼の決闘で怪我とかしてない?」
「ないよ、そんなの。…あの騎士、全く俺自身に剣を当ててきてないからな。傷があったとしたら、それは俺が転んだか擦りむいたかで勝手につけたやつしかないだろうな」
アトモは丘に生えている草原の上に倒れ込んだ。
「親父の言う通り、狩人ごときの剣使いじゃ、騎士には敵わないのかもしれない」
「でも、剣が折れなければ…」
「たぶん、あれは剣のせいじゃなくて、俺のせいだ。炎を纏わせたせいで剣が脆くなって、刃を突き合わせる度に歪んだんだろう」
エアはアトモの隣に腰掛けた。
「エアの旅に騎士がついていくっていう話をした時も、その方がずっといいって、親父は言った。他のみんなや俺は、騎士は信用できないって言ってるのに。…エア、隣町の港で守衛の騎士が何やってるか知ってるか? 教会の関係者に賄賂渡して、堂々と賭博経営してんだぜ。もちろん、収益は独り占め。そして肝心の騎士としての仕事はほとんどしていない。信じろという方が無理な話だ」
「…エドガーさんは、そんな人じゃないよ」
「どうだかな。どうせ周りの奴らと変わらんさ」
やっぱり、エドガーに関しては聞き耳を持ってもらえそうにない。どうしたものか。
「お前はどうなんだ。お前があの騎士をどれだけ信用してるかは知らないが、身の安全を託せると本気で思ってるのか」
「それは…、わからないよ。だって、今日会ったばっかりだもん」
「だろ。素性の知れないやつと、遠路はるばる帝都まで行かなきゃいけないんだよ、お前は。そんな選択よりも、俺…とか、村の誰かと行った方が、ずっと安心で信頼できると思わないか」
アトモは力強く言った。アトモの言ったことは、実は私もずっと考えていたことだった。騎士に護衛を頼むという話が決まってからずっとだ。
たかが一人のために騎士の護衛なんて大げさだし、どうせなら、気の知れた人と旅がしたいと思っていた。
それでも、やっぱり、私は思うのだ。
「私は、アトモやみんなを、危ない目に遭わせたくない。もし、旅の中でエドガーさんと行ってもアトモと行っても同じ危険な目に遭うのなら、私はアトモが巻き込まれる方が嫌なの」
「そんなの今更だ。どこにいたって危ないのは一緒だろ。それに、村のみんなは村が襲われることよりも、エアが帰ってこないことの方がずっと怖いと思ってる」
「え…?」
「当たり前だろ。大切な仲間だし、エアは俺たちの希望なんだから。本当に平和な暮らしができるようになるかもしれないって、みんなエアに賭けてるんだ」
「大げさだよ、そんなの」
「大げさなんかじゃない。たぶんイオンやアリアのことも、みんな心配してるし、信頼してるはずだ。なぁ、なんとかして司祭様を説得できないのか。身内の誰かがついて行った方がいいに決まってる」
「アトモ…」
村のみんなには迷惑しか掛けていないと、ずっと思っていた。
恨まれているんじゃないかとさえ思っていた。
でもそれは大きな勘違いで、みんなはまだ私の事を大切な仲間だと、思っていてくれたのだ。
それだけで、どんなに私の心が救われただろう。
村のことがまた一段と、愛しくなった気がした。
そして余計に、寂しくなる思いがした。
「わかった。明日の朝、司祭様にお願いしてみる。それでもだめだったら、ごめんね」
「ありがとう。…よかった。エアにまで断られたら、正直自信無くすところだった」
「そんなことしないよぉ。ひどいなぁ」
きっと、頼んだって無駄であることをアトモも分かっている。でも、本当は一緒に旅がしたい、ということは伝わっただろう。
明日にはもう、再び村を離れなければいけない。
その事実に反して、私の心は村に居たくてたまらないと、声を上げていた。
本当に、情けないな。
「大した理由もないんだろ。あの騎士を信じてるっていうのは」
「エドガーさんと話したの。全ての人は守れない。だから、今目の前にいる人だけでも、必ず守るって言ってた。とても誠実だし、立派な人だと思ったよ」
「盲目的だな。まっ、それがエアらしいところだけどな」
「あっ、ちょっと、アトモ!」
「ほら、早く立てよ。明日の朝は早いんだろ」
アトモは笑って言った。
「ありがとうな。また明日」
暗くて顔はよくは見えなかったが、声はとても明るかった。
※
翌日。出立の日の朝。
父母と静かな朝食を食べている時に、母が窓辺を見ながら首を傾げた。
「誰かいるのかしら?」
振り返って見てみると、可愛い髪飾りが窓の端から見えたり見えなかったりしている。
「ちょっと見てくるね」
大体想像はついていた。
玄関までそっと近づき、扉を音を立てないように開けて隙間から外を覗く。
「ちょっとトリーシャ! そんなにぴょんぴょんしたら見えちゃうでしょ!」
「だっていつエアが出てくるかわかんないじゃん」
「扉が開いてエアが出てくるまではじっとしてなきゃだめ。バレたら意味ないでしょ?」
「いいじゃんちょっとくらい。アリアのケチ」
「ケチとは何よ! それに、びっくりさせようって話し出したのあんたじゃないのよ。私はそれを成功させるためにこんなに…」
「あ、あれ。エア?」
「へ?」
思った通りの人と、予想外の人がいた。
「おはようトリーシャ、アリア」
「おはようエアお姉ちゃん! 挨拶にきたよ!」
「驚かしに来たんでしょ?」
「アリアはそのつもりだったみたい!」
「あんたねぇ…っ!」
アリアのチョップがトリーシャの頭に振り下ろされる。うおっ、とトリーシャはまるで男の子のように呻いた。
「エア。その、昨日は大変だったわね。あんたは大丈夫なの?」
「え? 私は別にケガとかするような目には遭ってないよ?」
「そういうことじゃないわよ! いや、それもあるかもしれないけど…。とにかく、変なことされなかった!?」
「アリア? 何のこと言ってるのかさっぱり…」
「あのね!」
トリーシャが楽しそうに話しだす。
「昨日の夜にね、エアに会いにアリアとここへ来たんだけどね、いないって言われたの。で、今は教会にいるってエアのお母さんに言われたのね」
「そうしたら、教会に向かう途中で今度は司祭様に会って、それで…」
「司祭様がね、エアは騎士様と二人でいるから邪魔しないようにって! きゃー!」
「トリーシャうるさい!」
再びアリアのチョップが振り下ろされる。
「うおぅっ」
「司祭様が言った通りなら、ほら…。その、二人きりってことじゃない? 騎士様と。あの人割と若かったし、もしかしたらって、心配で…」
「えっと…」
二人はこういう話が大好きだ。そしてその勢いについていけない時がままある。まさに今のような。
「エドガーさんは確かにいい人だよ。でも、とても繊細な人にも見えた。悪い人じゃないから安心して、二人とも」
トリーシャがニヤニヤしながら顎を撫でる。男の人が髭を撫でるように。
「ほうほう。アリア姉さん。これはどういうふうに考えますかな?」
「余計に心配だわ」
アリアは両手で私の手を握り、真剣な眼差しで言った。
「間違っても気を許しちゃだめよ。騎士団の男はみんな手が早いし軽いって噂だから。絶対に、同じ場所で寝ちゃだめだからね」
「なんで?」
「いっ、言わせないでよねっ!?」
「あーっ、アリア赤ーい! 乙女ー!」
「あんたねぇ…っ!」
三度目の正直が振り下ろされる。
「へうっ」
「アリア。その、馬車での旅になるから、泊まるところがないこともあるし、その約束は守れないかも…」
「だめ、絶対」
「別々の寝袋でも?」
「なんなら寝る時に寝袋ごとロープでぐるぐる巻きにしてやりなさいよ」
「ええっ、可哀想だよ…」
「それぐらいは必要なことよ! 男はみんな野獣なんだから」
「アリアのお婿さんもそうなの?」
「アレは別よ。っていうか、私の話はいいのよ」
案外しれっと流されてしまったので、少々残念な気持ちになる。
「真面目な話、あんた本当にこのままでいいの? 私だけじゃないと思うけど、騎士と一緒に帝都まであんたが旅することは反対よ。いくら司祭様が信用を置いてる人だからって変わらないわ」
「アリア。私もね、本当はみんなの誰かと一緒に旅がしたい。でも、みんなを危険な目に遭わせたくないっていう気持ちの方が大きいの。司祭様が残ってくれる村の中にいた方が、未熟な私しかいない旅よりもずっと安全だから。危険な目に遭うのは私だけでいいの」
「エア、自己犠牲は美徳でもなんでもないわよ。確かに、魔物に襲われるのは怖いけど、エアが村に帰って来ないことの方がずっと怖いのよ。自分だけが傷つけばいいと思ってるのなら、そんな考え捨てなさい。心配することしかできない私達が報われないわ」
鋭い針が胸に刺さるような感覚。アリアは躊躇うことなくこういうことを言う人だ。私が一生かかっても真似できないことをやってのけてしまう人。そして、誰よりも優しい人だ。だから、私はアリアのことが好きだ。
「そんなこと考えるより、必ず生きて帰ってきてやろう、ってくらいに考えなさいよね。騎士が役に立たなくても、私だけでも助かってみせるから!って、私達を安心させてよ。エアのことは、みんな本当に心配なんだから」
「うん、ありがとうアリア。ごめんね」
「謝るくらいなら最初から騎士団にお願いなんかしないで、村の人に頼めばよかったのに。アトモとかトリーシャのお兄さんとか、腕の立つ男どもが何人かいるでしょう?」
「お兄ちゃんはこの前アトモにケンカ挑んでボコボコにされてたから、たぶん騎士様にもボコボコにされちゃうよ」
「水を差すんじゃない」
「きゃんっ」
「うん。アトモ達は頼りになるよね、すごく。でもね、だからこそ…」
「村に残って欲しいって言うんでしょ。分かってるわよ。騎士は信用してないけど、司祭様のことは信用してるし、エドガーが港のヘボ騎士よりも、ほんの少しはまともそうってことくらいは分かるわ。司祭様がエドガーに依頼したのも、なにか理由があるんでしょう。今更そこに文句を言ってもしょうがないわ」
そして、アリアはいつになく熱を込めて言った。
「絶対に帰ってきなさいよ。いいわね」
※
「それじゃあ、行ってきます」
「気を付けてな」
「行ってらっしゃい」
森の入り口にはたくさんの人が集まっていた。アトモの姿が見えないのが気になるけれど、昨日の晩に話したいことは話したし、後悔はない。アリアとトリーシャは司祭の後ろで楽しそうに手を振ってくれている。
「そろそろ行きましょう、エアさん」
「はい」
振り返ろうとしたその時、父が何かを持って駆けつけてきた。
「ああ、よかった。間に合った」
手には封筒が握られていた。父はそれをエアに手渡した。
「頼みたいことがある。無事に帝都に着いたら、これを私の友人の元に届けて欲しいんだ。医者の友人なんだが、母さんの病を治すのに協力してもらったそのお礼の手紙なんだ」
「うん。分かった」
「なんで帝都なんて遠い所に行かなきゃいけないのか私にはさっぱり分からんが、くれぐれも無事でな。本当は私もついていきたいくらいだが、司祭様に止められてはそれもできない」
「大丈夫。これまでだって自分の身は自分で守ってこれたし、いざという時はエドガーさんがいるもの。必ず帰ってくるから、心配しないで」
「エア…お前…」
父は嬉しそうな、でもどこか寂しそうに笑って言った。
「そうだな。でも、無理せずに行くんだぞ」
「うん。行ってきます」
エアとエドガーは森の入り口に向かって歩き出した。
やっぱり、私にはアリアの真似は出来なかった。父に嘘をつくことになっても、安心させてあげようとして、言葉を選んだつもりだった。でも、やっぱりそれは本心とはほど遠い、ただの見栄でしかなかった。
守ってほしい。助けてほしい。みんなと一緒にいたい。
心から言いたいのは、きっとそんなことじゃないのかな。自分の心のはずなのに、時々分からなくなる時がある。私って、変なのかな。
みんなを守りたい。
そのために、自分を守らなきゃいけない。
ちゃんと、役割を果たさなきゃいけない。
方陣士として。
森で冷やされた風を肌身で感じるようになる頃、村の方から聴こえるみんなの声は小さくなっていた。それを聴きながら、エドガーに心配されないように、こっそりと泣いた。