単位のためならなんでもします!
アスファルトを焦がすような日差し。
湿度を含んだ空気はじっとりとまとわりつき、影で涼もうとする人たちを嘲笑う。
だが人類がいつまでも自然に負け続けているわけではなかった。
生き物と言うのは生来不快なことが嫌いなのだ。文明の進化は目覚ましく、現在平成の時代――少なくとも、コンクリートで出来た建物の内部は文明の利器が勝鬨の代わりにモーター音を静かに上げていた。
某大学構内も無論、その恩恵を受けている。
廊下ですら涼しい空調と、冷たいリノリウム、点在する自動販売機。
そして青い顔をした生徒たちが教務室の前で立ち尽くしているのもこの時期定番の光景だろう。
「先生! お願いします、単位をください!」
ノックもそこそこに「どうぞ」という返事も待たず、教務室に竜巻のように入り早々に女学生は頭を下げた。入室してからすさまじいスピードでのお辞儀だった。
遅れて彼女の後ろで扉が軋んだ音を立てながら閉まる。
眉間にしわを寄せながらパソコンのスクリーンとにらめっこしていた准教授はうんざりとした顔で女学生を見る。
それから大学外持ち出し禁止のUSBをパソコンに差そうとしたところで――手を止めた。
そんなもの見ないでも彼女の成績は悪夢のように准教授の瞼の裏に刻みつけられているからだ。
眉間を揉み解しながら、教鞭をとる立場として彼は言い放つ。
「あのな。レポートも期日に間に合っていない。テストもボロボロ。そんなんで単位を挙げる馬鹿がどこにいるのか」
きつく問いただすその言葉に女学生は顔を上げぬまま震える声で答える。
「…先生です…」
「遠まわしにケンカを売るな」
准教授はますます表情を渋くした。視線をデスクトップに向け、片手で操作を始める。
その音にもはや相手にされていないことを悟ったのか女学生はバッと顔を上げて叫ぶ。
「お願いします! わたし、わたしなんでもしますから!」
「……」
空調がガコンと音を立て静かになる。
ギィ、と椅子が軋んだ。
「なんでもといったな」
准教授は静かな声で確認するようにつぶやいた後、立ちあがって女学生に近寄る。
「はい、なんでも!」
女学生の眼鏡の奥の瞳が孕む感情は准教授には分からない。
分からなくていいのだ。そんなもの。
「じゃあ…、やってもらおうか」
意地悪くわざとゆっくりと発音しながら、彼は言った――。
「殺しの依頼を」
瞬間、女学生の目が細められる。心細げな瞳は値踏みするような鋭い眼光に飲み込まれた。
先ほど確かにあったはずの弱弱しい雰囲気はいっしゅんのうちに掻き消え、代わりに心臓を掴まれそうなほどの緊張感があたりを満たした。
その感情の高低差にはいつまでも慣れない。准教授は胸の内で『もうすこしいじめればよかった』と悔やんだ。
「いつ?」
「今日の夜」
「急だねぇ。明日補講が一限からあるんだけど」
彼女には伺うような口調もすでに跡形もなく、不敵な笑みを口元に宿していた。
「そのまま来ればいいだろ。教科書は図書館で借りるなりして」
「生徒の健康に気を使うのもセンセの役目だと思うなぁ」
「俺は俺の胃の機嫌を取るのに手いっぱいなんだよ…。やるのか、やらないのか?」
タイミングよくキリキリと悲鳴をあげはじめる胃に准教授はため息をついた。
対して女学生は実にご機嫌な顔で首を縦に振った。
「やる!」
「分かった。十五分後にお前にメールを送る。確認をしろ」
「単位くれるってことでいいの?」
「ああ。その代り報酬は少なくするからな。単位の代わりだと思え」
「ちぇっ、まあ仕方ないか。頼りにしてるよ、センセ」
入ってきた時とはガラリと変わった態度で女学生は出て行く。
准教授は胃薬を探した。
○ ○
その会話から、五時間後。
女学生は先ほどとはスカートをズボンにした以外は特に変わりのない格好をして道端に佇む。その下にはいろいろ仕込んだり着こんだりしているが、一目ではそうとは分からない。
一見すれば誰かと待ち合わせをしているようにも見えるだろう。間違ってはいないが彼女がまっているのは合図だ。
「ボディガードは五人。グロックを所持。どの型番なのよ、あの新人抜けすぎ。……センセ遅いなぁ」
声を出さずにつぶやき、メールを再確認し削除する。指紋認証と暗証番号が三回一致しなければ全データが削除される代物だ。彼女は馬鹿ではあるが、そのようなシビアな機器の扱いは間違えない。
視線を上げる。
立地のいい場所に建つマンションが目に映った。千か億か、とにかく高級なところではあるらしい。
彼女にそちらの興味はない。
もっというなら、暗殺対象にすら興味はない。
かろうじて性別と苗字を押さえているぐらいだ。それも仕事が終われば即座に忘れてしまうだろう。
視線を下から上へ、右から左へ素早く動かし部屋の位置を把握。
「十二階…だいたい四十メーター? 非常階段は二部屋お隣。生身で切り抜けられる脱出経路は無しってことでいいかな。うんうん、まあ楽なお仕事になりそうだね」
満足げに情報整理したところで耳に突っ込んでいたイヤホンから突然声が吐き出される。
『おい単位乞食』
「ひどーい」
『事実を言ったまでだ。こちらは全て完了した。行け』
「了解」
笑みは隠さず、意気揚々と彼女はマンションのエントランスへ足を向けた。
准教授がしていたのは厳重に駆けられたロックの解除――ハッキングだ。
今回少しばかり手間取っていたのはロック解除に伴い警告が流れる仕組みだったから。それらを無効化、ないし凍結化していたので時間がかかった。
『まあ、言い訳はそんなところだ』
「おつかれ。顔が割れないならなんでもいいよ」
『部屋は分かるか』
あっさりと開いたエントランスの扉に迎え入れられ、女学生は少しずつ身体に力を入れていく。
誰にも会わない。会っても彼女の正体に気付くものはまずいないだろうし、いたとしたらそこで殺すまでだ。
「分かる。エレベーターは?」
『安心して乗れ。今なら誰も乗っていないように見える』
「良かった―。息切れで突入なんて見苦しいもんね」
エレベーターボタンを押す。
すぐにやってきたそれに乗り込み、十二階を押してしばらく階表示を眺めた。
「付け加えは?」
『失敗は無し。目撃者は全員殺せ、ただし暴れすぎないように』
「どこまで?」
『どこまでって…いいか、死体であそぶな。バラバラにするな。投げ捨てるな』
「はーい。あ、ついた。突入します」
『……。またあとで』
ため息とともに通信が切れる。
手早くイヤホンをしまうと代わりにベルトに差し込んでいた刃渡り二十センチのナイフを取り出した。
それと同時に静かにエレベーターが開く。
「まあ、ある程度は察するよね」
ナイフを逆手に握り、稼働音に気がついて駆けつけたらしいボディーガードの首を通り過ぎざまに掻ききる。彼女の後ろで血飛沫があがる。
電子ロックは無効化されている。
よどみなく万能鍵を差し入れて、施錠を解くとそれまで堅牢であった安全なるシェルターを開いた。
「こんばんはー」
ナイフを持つ手とは逆の手で拳銃を構える。小さな彼女の手に合わせた特別製だ。
サイレンサーによりある程度抑えられた銃声と同時に、今まさに女学生を撃とうとしたボディーガードの胸に穴が開いた。
茫然とする室内の人間たちににっこりと笑いかけ、殺し屋は言った。
「とりあえず殺すね」
シェルターは、棺桶と化した。
○ ○
三十分もかからなかった。
日付さえ変わっていない。
こんなものだ。准教授はイレギュラーに備えて時間を多めに見積もっているが、トラブルがなければ一瞬のうちに終わってしまう。
「お、…あぶな」
ターゲットの男の腹を切り裂こうとしたところで、やめた。
鳥頭な彼女でも一応は『遊ぶな』と言われていたことを思い出したのだ。
周りの惨状には目もくれず、イヤホンを通信機器と繋ぎ、准教授を呼び出した。
それほど待たずに彼は出る。
「センセ? 生きてますか?」
『ああ、おかげさまで死にかけだ』
簡素な挨拶と合言葉を確認して女学生は機嫌よく言った。
「終わったよ。お迎えの人って来てる? こんなんじゃ外でれないや」
盛大に浴びた血はすでに乾き始めている。ぐっしょりとして気分が悪い。
『もうすこし綺麗に……まあいい。迎えを寄越す。近くに来たら連絡するからバスタオルかなんかかぶって出てこい』
「雑だなぁ。センセ、ちゃんと遊ばなかったよ。偉いでしょ」
『…偉いな。明日の一限も、何の教科だが知らないがちゃんと出たらますます偉い』
「やだなぁもうそういうことばっか。がんばるよ…。補講はサボれないからね…」
それからしばらく中身のない会話をし、言われた通りバスタオルを一枚失敬して被ると、女学生は一度も振り向かず部屋を出た。
部屋にはただ静寂のみが広がり、動くものは誰一人としていなかった。
○ ○
翌朝。
「おはようございます、先生」
「ああ、おはよう」
少し伏し目がちの女学生といつもどおりしかめつらした准教授は廊下ですれ違うと、何事もなかったように挨拶を交わした。
世間ではとある社長の突然の自殺で賑わっていたが、二人には興味のない事であった。
ニセ次回予告
「センセと旅行?大変、下着新しくしなきゃ」
「なんでもいいから虫刺されスプレーは買っとけ」
補講と称されて連れていかれたのは、いわくつきの孤島。
優しく出迎える島民。しかしその裏に流れる不穏な気配。
「こんなの、効かないよ。そういう風にあたしの身体は作られたから」
次第に不穏になる空気。
盛られる毒。
絶たれる通信手段。
そして――祭りが始まる。