うつくしびの心と馬涙の縁(1/4)
卍
黒い森を鉄の塊が切り裂いている。
それは文明という名前の太刀筋だった。蒸気機関車が威圧するような音を轟かせながら疾駆している。ごとごとという振動は推力の副産物としてはいささか大げさで、目の届く範囲の遥か先まで己の存在を誇示しているようだった。
遠慮も容赦もなく森の奥まで進入していく列車に呼応するように、樹々にとまって休んでいた鳥たちが次々に飛び立っていく。轟音と揺れの激しさに驚いているのだろう。「森の隧道」を通るときに必ず慌てふためく彼らは「鳥の緞帳」と親しみを込めて呼ばれていた。
やがて黒い森を抜け、蒸気機関車はこぢんまりとした駅に停まる。
乗客たち――新聞と鞄を携えた背広の男性、強烈な日差しに顔をしかめて帽子を深く被り直した婦人、杖を突いた老人ら――が次々と降りていく。
もう列車から乗客は出尽くしたかと思われたとき、一組の男女が歩廊に降り立った。
目立つ二人組だった。
「到着、ね!」
一人は学生服を着た少女。年齢は十代半ばだろう。髪は見事な金色だった。それが長くも短くもなく、ところどころゆるやかな曲線を描いている。頭の上には小さな緑色のふちなし帽がちょこんと乗っており、それが彼女にいかにもこぢんまりとした、可愛らしい印象を与えていた。
少女は小柄だったが、全身から活力が溢れ出ている。列車から飛び出してくる仕草にも、快活さを持て余しているような雰囲気があった。
少女は伸びをした後、ふと気づいたように隣の男を見上げた。
「どうしたのケイカ。もしかして、酔った?」
ケイカと呼ばれた青年はふるふると首を横に振る。
「いいエ。ただ、ズイブン遠くにきたナ、と思って」
彼のしゃべり方には、母国語ではない言語を発するときのぎこちなさがあった。
実際、外見も異国からの客人という風体そのものだった。彼の身を包むくたびれた法衣は明らかにこの辺りの宗教のものではない。無造作に縛った黒い髪も、東方の血が入っていることをうかがわせた。
穏やかな顔つきはいかにも霊的な教えを授けそうな雰囲気があるものの、それにしては若い。歳は二〇を少し越えたあたりだろう。流れの聖職者か、それとも気ままを愛する旅人か、傍目には容易に判断できそうになかった。
そんな青年が学生服を着た少女と連れ立っているのだから、不釣合いというほかない。列車内でも彼らは周囲の視線を集めていた。
「ここカラ、まだ列車に乗るんでしタっけ?」
「そうよ。ここは乗換駅なんだから」
ケイカの問いに、少女が嬉しそうに答える。学生服のポケットから取り出したのは小型の時刻表だ。「えっと、次の列車は一一時四〇分発ツァーデン行きね。目的地のザンベルクは終点の三つ前だから……、あと一時間弱ってところかしら」
対するケイカの顔には、いささかうんざりしたような疲労の色が浮かんでいる。
「州都からもう二時間も乗っているノニ、まだ先ですカ……。アロイジアは疲れてないノですか?」
「ぜんぜん!」
アロイジアと呼ばれた少女は力強く即答する。「むしろ、鉄道のあの振動はわたしを絶妙に癒してくれるわ。いうなれば、そう、心の整体ね」
「はア……」
「このお仕事、やっぱり受けてよかったわね。こんな地方線に乗れるんだから」
「別にそれが主目的ではナいのですけどネ……」
ケイカが溜息とともに発した言葉も、アロイジアの耳には入っていないようだった。彼女はいましがた降りたばかりの列車に向き直り、その偉大さを称えるように両手を広げた。
それからかたちの良い唇を口惜しそうに噛む。
「ああ、もう! やっぱりカメラを持ってくるべきだったわ。お父様にムリを言ってでも!」
駅周辺には小さな建物が並んでいた。典型的な田舎町の一つであり、酒場や雑貨店、役所といった最小限の施設は揃っているが、それ以上を期待してはいけない様子だった。
しかし、そんな景色でも目新しいのか、ケイカは飽きもせずに眺めていた。
「あのぉ……」
不意に弱々しげな声をかけられ、ケイカとアロイジアは同時に振り向いた。
まず目に飛び込んできたのは、麦わら帽子。不安げな上目遣いをした少女だった。頬にそばかすが散っており、日に焼けたオーバーオールが健康的な印象を与えている。
「あア、もしかしてトレメルさんノところの方ですカ?」
ケイカが察して尋ねると、少女はそうです、そうです、とほっとした様子で何度も頷いた。それから、自分の名前はマルガだと名乗った。年齢としてはアロイジアよりもケイカのほうに近いだろう。
「ええと、アロイジアさまにケイカさま、ですね? 車の用意がしてありますので、こちらにどうぞです」
マルガの口調にはやや訛りがあった。緊張しているのか、顔がやや赤い。
「それはツマリ、ここで乗り換えの列車を待つ必要はナいということですカ?」
「はい。お屋敷まではここから車でもけっこうかかりますが……、列車を待つよりはよっぽど早いです」
「だそうですヨ、アロイジア」
ケイカは学生服の少女に向き直った。「残念でしたネ」
「別に残念じゃないわよ! おかしなことを言わないでちょうだい……」
頭の上に乗せた帽子が跳ね上がるような調子で怒りつつ、アロイジアは横目でマルガの存在を気にしているようだった。マルガは目の前のやりとりをどう解釈したものか、困った顔をしている。
「サテ、行きましょうか」
苦笑しつつ、ケイカは二人を促した。見れば、雑多な駅前の広場に確かに車が一台停まっている。
歩廊を出る直前、三人の中で一番後ろにいたアロイジアは立ち止まって停車場を振り返った。駅員が、欠伸をしながらのんびりと運転席に歩いていく。
「一期一会……。人と列車の出会いもそうだわ。だから別に惜しくなんて……ううっ」
まだ見ぬ列車が来るであろう線路を前に、彼女は玩具を取り上げられた子どものようにがっくりと肩を落とした。
マルガが乗ってきた車は、近年急激に人気を伸ばしつつある国民車だった。わずかに土埃がついているものの、まずまずきれいに使われている。そういった車種の選択や手入れの状態から、マルガの雇い主の質実な性格が読み取れるようだった。
「あ、あの! 依頼の詳細はお聞きになっておられますでしょうか?」
道中、いささか荒っぽい運転を見せながらマルガが後部座席の二人に尋ねた。
「いいえ」
きちんと膝の上に手を乗せたアロイジアが答える。列車の件を引きずっているのか、どことなく意気消沈した様子だった。「それより貴女、敬語がおかしいわよ」
「き、緊張しているので……」
「緊張?」
「その、大事なお客様だと、聞いていたので」
後写鏡越しに、どこか探るようなマルガの視線がケイカとアロイジアに向けられる。
もしかしたら彼女は運転免許証をとれる年齢に達していないのかもしれない。しかし、ここは州都ではない。車なしでの生活が成り立たないのであれば、無免許でのちょっとした運転も地方特有のおおらかさで見逃されるだろう。
車はとうに舗装路を過ぎ、車線も柵もない乾いた地面の上を走っていた。あたりの景色も代わり映えがないものに変わっている。農作地や放牧地がどこまでも広がり、たまに顔を出す人家の間隔はひどく広い。
「詳細は聞いていないけれど、だいたいは聞いているわ。失せもの探しよ」
隠すことでもない、という調子でアロイジアは言った。
「お、お二人は、警察の……?」
「そう見える?」
じろりと制服姿のアロイジアが睨むと、マルガはすかさず首を横に振った。
「さすがに、あたしでも違うってわかります……。では、その、探偵さまのようなことをされるので?」
「いいエ、違います。ワタシは糸を手繰るダケです」
ケイカが悠然と答えた。
「そ。失せ物探しはケイカのお仕事。わたしは、さしずめ宣伝者といったところね」
アロイジアが後部座席から身を乗り出した。「いい? くれぐれも、助手かなにかと勘違いしないでちょうだいね」
「はあ……。その、糸というのは?」
「因果ノ糸です」
ケイカが説明する。「原因ト結果は分かちがたく結ばれています。二ツを結ぶ糸があるノです。人ト人、人トモノ、長く過ごせば過ごすホド、そこにはつながりが生まれます。例外はありませン。ワタシはたまたまその糸が見えるノデ、ソレを応用して、こうやってダレかノお手伝いをすることがあります」
「そのう……、あたしにはちょっと難しいようです」
「ナニも難しいことはありませン。因果トいうのは、突き詰めレバとても単純ナ真理――良い行いニは良い報いが、そして悪い行いニは悪い報いが与えられる。タッタそれダケです」
「あー、いまのところは聞き流してちょうだい」
困り顔のマルガを見かねたようにアロイジアが口を挟んだ。「この人の、ケイカの失せもの探しの力は本物よ。実績だってちゃんとあるんだから。そもそも、今回だってあなたの主人がわたしたちの評判を聞いて依頼してきたのよ」
「トレメルさまが……」
エルマー・トレメルというのがケイカたちの依頼人の名前だった。地方在住の実業家で、親の代から引き継いだ農場を中心に、どちらかといえば手堅い取引を行っている。妻とは数年前に離縁しており、現在は独身。子どもはいない。依頼を受けてからアロイジアが調べた結果、得られたのはこのような情報だった。
「だから、わたしたちはおかしな宗教の勧誘でもないし、詐欺師でもないし、ましてや貴女のところのお屋敷に泥棒に入るために下見をしようっていうわけでもないのよ。そこのところは信じてちょうだい」
「はあ……。はい」
わずかに首をひねりながらも、マルガは素直に頷いた。
「ねえ、マルガ。貴女は依頼の内容についてなにか知らないの? さっきも言ったとおり、詳しいことは着いてから説明するからって、わたしたち、失くしたものも聞いてないのよ」
「いえ! あたしは、なにも……」
反応は顕著だった。いままでよりも高い声。そして、車が路肩に乗り上げかけ、ぐらりと揺れた。
「す、すみません!」
慌ててハンドルを握り直し、マルガは運転に集中しはじめたようだった。それきり後部座席の二人に目を向けることはなくなった。
ケイカとアロイジアは無言で顔を見合わせた。