日本文学嫌いと、戦闘描写について。
おはようございます。最近、自分でネタを考えるのが億劫になって、感想欄からネタを拾うことを思いついた作者です。
まず、作者の日本文学嫌いについて。
小説を書く上で、DV(家庭内暴力)をテーマにして作品を作るからといって、体中に傷がある女子供と粗暴な夫を出せばいいという安易な考えに反対です。恋愛をテーマに作品を作るからといって恋人を記憶喪失にするとか、消息不明で後に再会するというのも安易な展開だと思います。思いつめた挙句の自殺もよくありません。タブーをちりばめれば名作になると思っている連中も大嫌いです。
確かにこれらは鉄板ではあるのですが、筆力が追い付いていないと、オチの読めるギャグに見えてしまいます。日本文学はとにかくこういうのが多く、名作だと言われて改めて読むと、単なるテンプレキャラによるテンプレ話だったりします。さらに映画化されたりすると日本文学特有の「臭み」に拍車がかかり、もう見ていられません。
村上春樹の『ノルウェイの森』は、文学としては楽しめるのですが、映画化した作品は多くの人に絶賛される傍らで、同時に多くの人に貶されています。いかにレトリックを駆使して書かれた文学的(?)作品であっても、いざ映画化となれば心情描写は映像美の前に消え失せてしまいます。根本となる中身の薄さは隠せません。
閑話休題。以下もまた感想欄からの拾い上げです。
>リアルで本当に痛そうな暴力シーンと、非現実的な、実際にはあり得ないであろう暴力シーンとでは、どちらがストレスが無く読めるのでしょうか?
作者ごときには何とも言えませんが、どうも後者のほうが最近の流行りのような気がします。極端な例ですが、ニンジャスレイヤーがこの手法を使っています。具体的に一巻から抜粋すると、
>再戦である。ニンジャスレイヤーが恐るべき手練れであることは身に染みてわかっている。この間合いで最も注意を要するのは、スリケンをガードさせておいての飛び蹴りだ。それさえやりすごせば勝機が見える。スリケンを撃ち落し、飛び蹴りをブリッジで避けるべし!
>「イヤーッ!」ニンジャスレイヤーが叫んだ……来る! ミニットマンは迎撃のスリケンを構えようとした。そこで勝負は終わった。ミニットマンの目の前、息がかかるほどの近さに、すでにニンジャスレイヤーがいた。ミニットマンの胸の中心やや左寄りに、異物感があった。そんな。そんなばかな。
のような感じです。
ここでの重要なポイントは短いながらも「予想:スリケンをガードさせておいての飛び蹴り」「対策:スリケンを撃ち落とし、飛び蹴りをブリッジで避ける」「決着:予想外の心臓への一撃」が満たされている点で、一種の格闘ゲーム的な技の読み合いが読者の想像力を刺激しています。またニンジャ同士の戦闘なので「それは無理だろ」と突っ込めない、異様な説得力があります。
関係ないですが、最近躁気味だったので読書にチャレンジしたところ、ニンジャスレイヤー三巻(後半の途中まで読んでいた)を読破しました。体調がいいと本が読めるときがあるようで、いつか四巻にチャレンジしたいです。