決別
流れる風は、横から草々を巻き込んで通り過ぎた。
無法に伸びきった雑草が体を揺らして音を奏でる。
その中で、混じって刃が揺れる音がした。
「やはり、ここか…」
そう言うと、剣坐は足を止めた。
場所は村と村を結ぶ道中に作られた小さな土手。
小さな川が流れており、数年前に行き来しやすいようにと橋が建てられた。
その橋の下。
薄暗い草原にその男は座っていた。
「久しいな。
ここに来たのはあの時…七年前以来だ」
剣坐の言葉に反応は無い。
丸くなった背中。
二,三歩離れた距離で、近づこうともせずただ見つめた。
「毎日、足を運んでいるようだな。なんのつもりだ?」
再び背中に問いかける。
小さな風が吹いた。
その後、肩が揺れた。
「ここは、こいつのお気に入りだった。
道場通ってた頃は、稽古終わりに寄ってはくだらねぇ話してたもんだ」
剣坐は見つめる。
その背中の裏側はどのような表情をしているかはわからない。
だが、剣坐は鋭い目をより一層尖らせ剣突をくらわす。
「ここに来ようとも、あるのは女房の墓だけだぞ風月!」
再び風が吹く。
先ほどと比べ物のならないほど強く、長く。
乱れる草の音は心揺れる比喩のよう。
風月は顔を上げる。
見つめるは橋の裏側。
しかし、その目に映るのは別のなにか。
風が吹き止み、口を開く。
「…ああ、知ってる」
呟く声は、念仏でも唱えるように小さかった。
名も刻まれぬ小さな墓石。
一輪、桃色の花が添えられていた。
「今のお前は亡霊だ。亡霊は亡霊らしく墓に通っとけばよいものを。
刀を捨てきれぬとは、なお達の悪い娑婆塞げそのものだ!」
放つ言葉は厳しかった。
感情の欠片のような口調は怒りと悲しみが入り混じり、どのような色をしているのかわからない。
しかし、風月の姿勢は変わらない。
振り向きもせず、絶えず背中を向けていた。
「俺はずっとこいつを振るってきた。守るために、守るためにと。
だがどうだ?山賊から村は守れても、てめぇ一人の女も守れなんだ。心に誓った女一人もだ!」
叫ぶ声は、橋に跳ね返って反響する。
立ち上がり振り返る。
その顔は、まるで修羅だった。
「自分でもわかってる。だが捨てきれねぇ。
こいつを捨てれば、京を死なせてしまった過去まで捨てちまう。京を否定しちまう。
そんな気がしてならねぇんだ」
震う肩は悲しげに刀を揺らす。
その頬は既に、濡れ迸っていた。
「わからねぇんだよ剣坐。振るう理由も、捨てる理由も、何一つ俺はわかっちゃいねぇんだ!」
それが最後、風月は頭を下げた。
唸り声のような弱弱しい声だけが鳴り響く。
剣坐はゆっくりと瞼を閉じた。
その瞼の裏で何を思ったのか。
しばらくして、小揺るぎもせず口を開いた。
「一昨日、信長様家老より直々にご命令があった。お前を斬り捨てよとの命令だ」
告げた言葉ははっきりとしていた。
風月は顔を下げたまま。
それに対して、今度は剣坐が風月に背を向けた。
「だが、今のお前を斬ったところで私の刀が汚れるだけだ。
…明日の末の刻、お前の村にて待つ。その迷い断ち切り、赴け」
呟き、足を進める。
しかし二、三歩進みすぐに足を止めた。
振り返る。
そこには、未だ俯いたままの親友がいた。
再び向き直し、剣坐もまた最後に情理をつくした。
「わかるだろう風月。
刀を捨て、罪から逃げる事と、刀を抜かずして生き恥を晒す事と一体何が違う。」
「………」
「何より、今のお前が女房の墓に花を手向ける資格があるのか?
京殿が真に愛した男というのは、人々を助け、守る剣に素志を貫いていた一匹の侍、霧島風月ではないのか!」
草がざわざわと騒ぎ出す。
まるで比喩のように。
もう語ることは無い。
そう言うように、剣坐は来た道を歩く。
二、三歩歩き、しかし立ち止まらない。
草道を分け、薄暗くなり始めた道を行く。
最後まで振り返ることは無く、剣坐は親友との決別を果たした。