絶望
「桃野江道場組頭、倉永剣坐。ここに参りました」
深々と下がる頭の後、しばらくして剣坐は顔を上げた。
それとほぼ同時に、後ろで案内をした女将が襖を閉める音がした。
「ああ。大儀であった」
中央に座る白髭の男が、低い口調で言う。
「はっ!」
それにわざとらしく張った声で応えると、そそくさと男の前に正座した。
部屋は夜中にも関わらず、蝋燭や派手な光沢で明るかった。
さすがは、天下を治めようとする織田軍の家老は違う。
何人前あるのかわからない高級料理に名産の酒。
そして、お粗末に塗りたくられた金箔の数々。
農民が見たら一揆でも起こしかねない贅沢三昧だ。
だがそれも触れず、剣坐はじっと見つめ相手の言葉を待った。
「苦労かけるな。昼の演習見事であった。お主の地区の侍は皆、猛者ばかりじゃ」
「ありがとうございます。地区の代表として恐悦至極に存じ上げまする。奴らも喜ぶ事でしょう」
ふむと喉だけ鳴らすと、家老の男はお猪口を口に運んだ。
礼儀の感じられない態度だが、顔に刻まれたシワ一つ一つが経験の違いを訴えており、家老の名は伊達ではないと感じさせる。
この男もまた、幾たびの戦場を乗り越えてきた猛者なのである。
「…だが、その中にも忠義を知らぬ没義道者がいるようだな」
といきなり呟いた。
そして、酒を流し込む。
ゴクッという流動音は、酒の流れる音か。それとも、剣坐の喉が鳴ったか。
「…と、申しますと?」
返す言葉は重たかった。
脳裏に流れる嫌な予感。
それを察したように鋭い視線が剣坐に突き刺さる。
「通達には、全ての剣士須くと申したはず」
「それは、念には及ばず。故に、全戦力をもって男達を集めた所存でございます」
「ほう、これはしたり」
引きつった嫌味な笑い。
剣坐は小さく頷いた。
再び男が酒を口に運ぶ。
数秒間の沈黙。そ
して、吐いた息と共にそれが破れる。
「…霧島と言ったか?」
膝に乗る腕に力が入る。
崩れかけた表情を何とか保った。
絶えず送られる鋭い眼光。
しかし、目は逸らさない。
何故だかわからないが、ここで目を逸らしてしまったら何もかも終わる。
そんな気がした。
「お主、その者をなんと見る?」
男の態度は悪くなる一方だ。
対照的に剣坐は、丁寧に息を吐いた。
ゆっくりと目を瞑る。
瞼が閉じ、光が遮断され辺りは咫尺を弁ぜぬ闇と化す。
その闇の中、一人の少年が立っていた。
着物も髷もめちゃくちゃで、手足は煤でも踏んだかのように汚れている。
その腰には、体に似合わぬ長刀を奇妙に右側に差していた。
少年は、気づいてこちらを向いた。
顔は心底楽しそうな満面の笑み。
そして、いつものように口を開く。
「今日は勝たせてもらうぜ剣坐!」
…瞼を上げる。
もう一度深く息を吐いた。
「あ奴は、武士道精神を忘れ、生き恥を曝している下郎にございます」
そして、はっきりとそう言った。
「下郎と?」
それが、意外だったのか。
男は驚いたように声を漏らすと、目を見開いて剣坐を見つめた。
「はい。あのような者を軍に引き入れた所で、軍の風紀が落ちることが目に見えております。
構うことなどございませぬ。」
「…ふむ」
その言葉をどう感じたのか。
男はゆっくりと腰を上げた。
そして、小さな襖を開けると外を眺め始める。
中庭には、鯉池に月が映り風情があって綺麗だった。
「確かに若い衆も皆、口を揃えてそう言っておった」
口を開いた顔は、景色を眺めたまま。
剣坐は横顔を見つめ、小さく喉を鳴らした。
「…だが、奴と凌ぎを共にした侍達の話は違う。
曰く、その腕前に天稟ありとな」
剣坐の眼光が開く。
握り潰した着物がグシャリと音を立てた。
目眩がする。
頭の思考が止まっていく。
まるで、絶望が近づいてくるように首の座に直っていた。
「倉永、正直に申せ。お主が一番知っておるのだろう?」
気づけば男は、剣坐のすぐ横に移動していた。
剣坐は俯く。
一度、かちりと歯が擦れる音がした。
「…私にどうしろと?」
掠れたような弱弱しい声。
男は、口辺に笑みを漂わせた。
「主君に仕えるは侍の道。それをできぬというならば、主君の顔に泥を塗ることと同じ。
なにより、そのような者を信長様が放っておくわけがない」
膝をつき、顔を近づける。
剣坐は絶えず俯いていた。
ただ歯の擦れる音は一段と大きく、歪に鳴った。
「地区内の問題は、地区内で片を付けい。
その霧島とやら…」
嫌な予感が的中する。
頭はもう、まともに動いてなどいなかった。
流れているのは奴との記憶。
今はその思い出さえ憎い。
「お主が、斬り捨てい」
軋む音は、声となって口から漏れる。
絶望の近づく音はもうしない。
なぜなら、もうここにあるのだから。
重くなった体をゆっくりと傾ける。
そして、剣坐は震えた声を大袈裟に張って応えた。