闇堕ち聖女は魔王とともに帰還する
リサは、ピアノを弾くことが好きだった。
好きだから続けていただけなのに、いつの間にか人より上手くなっていた。小学生の頃から何度もコンクールに出て、高校に入ってからも毎日弾いた。賞を取れなかった日は悔しかったし、取れた日は嬉しかった。それでも結局、次の日になればまたピアノの前に座った。
高校卒業まで、あと少しだった。卒業したら何をするのかと聞かれる機会も増えた。音大を目指す友人もいれば、演奏家になるつもりで進路を決めている子もいる。
リサも幼い頃からクラシックピアノを続けてきたが、今はポップスを弾く方が好きだった。好きな曲を自分なりにアレンジして、時々演奏を配信する。見に来る人たちとコメントで話したり、リクエストされた曲を弾いたりする時間も好きだった。
だからといって、ピアノを仕事にしたいのかと聞かれると、まだよく分からない。ただ、これからも弾くのだろうとは思っていた。十年後も二十年後も、きっと。それはリサにとって、将来の夢というよりは息をすることと同じくらい、当たり前のことだった。
だから、異世界で目を覚ましたときも、最初に考えたのは帰る方法だった。
「聖女様。どうか我らをお救いください」
豪華な部屋だった。天井は高く、壁には見たこともない織物が掛けられている。床に膝をついている老人の後ろには、長い杖を持った男たちが並んでいた。
リサは寝台の上から彼らを見た。
「……ここ、どこですか」
誰も答えなかった。
「私、帰らないと」
老人が顔を上げた。
「帰還については、魔王討伐後に改めて研究いたします」
「魔王?」
「はい」
老人は、それが何でもない言葉であるかのように答えた。
「あなた様には、魔王を討ち滅ぼしていただきます」
リサはしばらく老人を見つめていた。
「……意味が分かりません」
部屋が静かになった。
「どうして私が戦うんですか。突然ここに連れてこられて、魔王を倒せって言われても」
老人は困ったように眉を寄せた。
「ご安心ください。聖女様には我々とは比較にならぬほどの魔力があります」
「そういうことじゃなくて」
「では、どのようなことでしょう」
「私、戦ったことなんてないです。人を殺したことだってない」
「魔王や魔族は人ではありません」
「人とか魔王とか、そういうことじゃない」
リサは首を振った。
「殺すなんてことが、できないんです」
老人はもう一度黙った。殺せないと言った意味そのものが、彼には分からないようだった。
その三日後、リサは王太子アルベルトに会った。
金色の髪に青い目をした、絵本に出てきそうな男だった。けれどリサが知っている王子様とは違い、腰には剣があり、右の頬から顎にかけて細い傷が走っていた。
「突然の召喚になったことは謝罪する」
アルベルトはそう言った。
「帰してください」
「現時点ではできない」
「なんで呼んだんですか」
「必要だったからだ」
あまりに迷いなく答えられ、リサは言葉を失った。
「現在、北方の三都市が魔王軍の支配下にある。昨年だけで四万人以上が死んだ。西では農地を焼かれ、この冬を越せない者も多い」
「……だから?」
「だから、我々には聖女が必要だった」
「私は知らないです」
「そうだろうな」
「知らない国の戦争です」
「ああ」
「知らない人たちです」
「そうだ」
「だったら――」
「だが、我々にとっては違う」
アルベルトは声を荒らげなかった。
「そこにいるのは私の民だ。死んでいるのも私の民だ。私は、この国の王太子だ」
リサは唇を噛んだ。
「私には関係ないです」
「そうだろう」
アルベルトは少し考えてから、リサを見た。
「君のいた世界には、戦争はないのか?」
「あります」
「ならば、戦う者もいるだろう」
「でも、私にとって戦争は、遠い国か、遠い昔の話でした」
リサは膝の上で手を握った。
「少なくとも、私が暮らしていたところでは、みんな普通に平和に暮らしてたんです。学校に行って、仕事をして、買い物をして、家に帰る。人を殺さないと明日を生きられないなんて、そんな生活したことない」
アルベルトは黙って聞いていた。
「病気になったら病院に行くし、怪我をしたら救急車が来ます。水も食べ物も、お金を払えば手に入る。夜でも街は明るいし、スマホではいろんなことができて、遠くにいる人ともすぐに話せて、知りたいことがあれば調べられる。私たちは、そういうものの中で生きてるんです」
「随分と豊かな国なのだな」
「そうです。でも私が凄いわけじゃない」
リサは首を振った。
「私一人でできることなんて、ほとんどないです。水を作ることもできないし、食べ物を育てることもできない。怪我を治すことも、剣を使うこともできません。電気だって、機械だって、使い方を知ってるだけで作れません」
自分で口にしているうちに、ますます場違いなところへ放り込まれた気がした。
「私は学校に行って、ピアノを弾いてただけです。そんな人間に、急に戦えって言われても無理なんです」
「ピアノとは?」
「楽器です。この世界には無いの?」
「音楽を愛でる余裕は今は無いな」
アルベルトはしばらく黙った。
「君の世界では、それでも生きていけた」
「はい」
「この世界では違う」
リサは顔を上げた。
「殺さなければ、生きていけないことがある」
「だからって、私が殺せるようになるわけじゃないです」
「分かっている」
「分かってないです」
「では、この国の者が死んでいくのを見ているしかないのか?」
「それを私に聞かないでください」
思わず声が強くなった。
「私は何も知らないんです。この国のことも、魔王のことも、魔族のことも。昨日まで普通に学校に行ってたんです。突然ここに連れてこられただけなのに、私にも責任があるみたいに言わないでください」
アルベルトは目を逸らさなかった。
「責任を押し付けているわけじゃない」
「じゃあ何ですか」
「その力を貸してほしい」
「それ、同じこと言ってますよ。嫌です」
「そうか」
あっさり返され、リサは一瞬言葉に詰まった。
「ならば、まずは学んでくれ」
「何をですか」
「魔法を」
「戦わないって言ってるじゃないですか」
「戦うかどうかを決めるのは、その後でいい」
「それも同じじゃない。戦わせるために教えるんでしょう」
アルベルトは否定しなかった。
「君には力がある。その力が何なのかも知らずに過ごさせることはできない」
「そんなのいりません」
「君が望んだ力ではないことは分かっている」
「だったら」
「だが、すでにある」
そこで話は終わった。
翌朝、リサの部屋には迎えの兵士が来た。断っても帰らなかった。
「王国魔法部隊長がお待ちです」
「行かないって言いました」
「お待ちします」
扉の前に立った兵士は、それ以上何も言わなかった。結局、リサが折れた。
案内された訓練場で待っていたのが、王国魔法部隊長エドガー・ヴァイスだった。それから、リサは毎日魔法を教えられた。王国魔法部隊長エドガー・ヴァイスは四十歳ほどの男だった。厳しい顔をしていたが、怒鳴ることは少なかった。
「集中してください」
「しています」
「していません。光が散っています」
「もう疲れました」
「あと三十分です」
「そう言って昨日は三十分で終わらなかったわ」
「昨日も必要だったからです」
何度やっても同じだった。杖を持たされ、魔力を流し、標的を破壊する。しかも、それが難なくできることが腹立たしかった。こんな力さえなければ、自分がここへ連れてこられることもなかったのに。
標的は日に日に形を変えていった。最初は藁人形だった。次は木製の人形になり、その次には魔力で動く人型の模型になった。やがて訓練には、魔法で作られた魔族の幻影まで使われるようになった。武器を持ったそれらがこちらへ向かってくるたび、リサは杖を構えることをためらった。たとえ偽物でも、人の形をしたものを攻撃することが嫌だった。
「聖女様」
「嫌です」
「これは人間ではありません」
「分かっています」
「では、攻撃してください」
「嫌です」
エドガーがため息をついた。
「敵は待ってはくれません」
「ここには敵なんていません」
「訓練です」
「そうですね」
「ならば」
「分かってても嫌なものは嫌なんです」
その日、後ろにいた若い魔法使いが小さく笑った。
「本当に平和なところから来たんですね」
リサは振り返った。青年は笑うのをやめた。
「申し訳ありません」
「どういう意味で言ったの?」
「……悪意はありません」
「じゃあ何ですか」
「羨ましいと思っただけです」
青年は目を伏せた。
「攻撃する訓練を嫌がれるほど、平和な世界だったのでしょう」
「平和に暮らしていたことを責められる言われはないわ」
リサは思わず言い返した。
「私じゃなくて、違う人に頼ればいいでしょう? どうしてそんなに、自分たちの都合ばかりで考えられるの?」
「自分勝手なのは、聖女様の方でしょう」
別の青年が言った。リサはそちらを見る。
「あなたはずっと、元の世界へ帰ることしか考えていない。でも、俺たちはここで生きていくしかないんです」
「私だって、帰りたくても帰れないのよ。好きでここにいるわけじゃない」
「それでも、聖女様が嫌だと言っている間にも、人は死んでいます」
「それを私の責任みたいに言わないでよ」
「あなたに責任があるなんて言ってません。ただ、助けられる力があるのに使わないのは、俺には理解できない」
結局は堂々巡りであった。そしてあまりの言われように、リサはそれ以上、何も言えなかった。
翌日から、その青年は訓練場に来なくなった。あとで、北方へ送られたのだと聞いた。そして二週間後に死んだそうだ。エドガーからそれを聞かされたとき、リサは何も言わなかった。
「彼には妹がいました」
「……だからなんなんですか?」
「事実を言ったまでです」
「私を責めてるんですか」
「いいえ」
「責めてないのにそれ言えるの、逆にすごいよ。どんな倫理観してるの?」
エドガーはリサを見た。
「聖女様。私はあなたを責める資格を持っていません」
そこで言葉を切った。
「ですが、あなたを待てる時間も持っていない」
リサは杖を握った。結局、たどり着く答えは、この世界の価値観に自分が合わせることだけだった。誰も自分に合わせようとはしない。エドガーも、死んだ青年も、魔王も、この世界そのものにも腹が立った。
そして一番腹が立ったのは、自分自身だった。何もしないことに、少しずつ罪悪感を覚え始めている。それは、この世界に押しつけられたものだけではない。人を助けられるのに何もしないことを、自分の倫理観が無視できなくなっていた。
王国に召喚されて一か月ほど経つと、リサは指で机を叩くようになった。
右手を机の上に置き、親指から小指まで順番に動かして、また戻す。もう一度。親指、人差し指、中指、薬指、小指。今度は逆に戻る。それを何度も繰り返す。次はスタッカート。一音ずつ切るように指を跳ねさせ、また最初から。次はレガート。指から指へ途切れないようにつないで、端まで行けば戻る。フォルテシモ、ピアニシモ。強く、弱く。同じ動きを、速さと力だけ変えながら何度も反復する。鍵盤も音もないのに、基礎練習の運指は身体が覚えていた。
食事中にもしていた。授業中にもしていた。眠る前には、布団の上に両手を置いて鍵盤を思い出した。もう音は思い出さなくても聞こえた。
「何をしている?」
アルベルトに聞かれたことがあった。
「ピアノです」
「ピアノ?」
「楽器」
リサは指を止めなかった。
「君はそれを弾いていたのか」
「ずっと」
「上手かった?」
「結構」
その質問だけは、少し嬉しかった。
「コンクールにも出てました」
「コンクール?」
「演奏を競うんです」
「戦うのは嫌なのに、音楽では競うのか」
リサは手を止めた。
「……馬鹿にしてるなら、もう喋らないで」
思っていたより強い声が出た。
「そんなつもりでは……悪かった」
アルベルトはすぐに謝った。
「帰れたら、また弾くのか」
「当たり前」
そう言ってから、リサは思い出したように少し笑った。
「帰ったら、まずは一日中弾く」
アルベルトは何も言わなかった。その顔を見て、リサの笑顔も消えた。
「帰れるんですよね」
「現時点では何とも言えん」
「答えになってないわ」
「今は、それ以上のことは言えない」
リサはその日から、アルベルトの前ではピアノの話をしなくなった。
召喚から三か月が経った頃、勇者カイルが王都へ戻ってきた。勇者と呼ばれていたが、リサより十歳ほど年上の普通の男だった。左耳が半分なく、歩くと少し右足を引きずっていた。
「こいつが聖女か」
最初の言葉がそれだった。
「カイル」
アルベルトが咎めると、カイルは肩をすくめた。
「悪い。思ってたより子供だったもんで」
カイルは椅子に座り、リサを眺めた。
「魔王討伐には参加しないって?」
「はい」
「なんで」
「嫌だから」
「そうか」
カイルは笑った。馬鹿にした笑いではなかった。
「俺も嫌だ」
リサは初めて彼を見た。
「じゃあ、なんで行くんですか」
「俺が行かないと、代わりにもっと弱いやつが行くから」
「でも嫌なんですよね」
「嫌だよ」
「怖くないんですか」
「怖い」
「死ぬかもしれないのに?」
「そうだな」
「じゃあ逃げればいいじゃないですか」
カイルはしばらく考えた。
「逃げた先にも魔王軍が来る」
それだけだった。
「俺は別に、君に戦えとは言わない」
リサは少しだけ肩の力を抜いた。
「ただ、俺たちは戦う。そこは分かってくれ」
「分かっています」
「そうか」
「でも私には無理です」
「ああ」
カイルは頷いた。
「そこも分かってる」
この世界に来てから、こんなふうに話を切られず、責められもしない会話はほとんどなかった。リサにとって、それは久しぶりに不快ではないやり取りだった。
だから一か月後、カイルから魔王討伐への同行を求められたとき、裏切られたような気がした。
「話が違う」
「討伐には参加しなくていい」
「同じじゃないですか」
「後方にいてくれればいい。負傷者の治療と防壁だけでいい」
「行きません」
「聖女」
「行かない」
「リサ」
「嫌です」
カイルが黙った。
「私、言いましたよね」
「ああ」
「戦えないって」
「ああ」
「分かるって言いましたよね」
「言った」
「じゃあ、なんで」
カイルは片手で顔を擦った。
「思ったより死んでる」
「……」
「聖女の力があれば助かるやつが、思ったより多い」
「だから私が行くんですか」
「きて欲しい」
「私が怖いのはどうでもいい?」
「どうでもよくない」
「同じじゃないですか」
「同じだ」
カイルは否定しなかった。
「悪い」
謝られても、何も響かなかった。カイルは、リサにとってこの世界に来てから一番、自分の気持ちを理解してくれる人物だった。前線に立ち、命のやり取りを間近で見続けてきたからこそ、考え方もどこか達観している。それでも今の状況では、聖女の力に頼らざるを得ない。その矛盾すら、カイル自身が分かったうえで受け入れているのであろう。そんなことは、リサにも分かっていた。けれど、分かることと受け入れられることは違う。カイルが言った通り、いや、皆が言う通り、自分は平和な世界しか知らない子供なのだ。頭では理解できても、気持ちはまるでついていかなかった。
結局、討伐への参加は見送られた。代わりに、実戦形式の訓練が増えた。弱い魔物を捕獲し、結界の中へ放つ。最初は小型だった。犬ほどの大きさの魔物。次は人間ほどの大きさになった。
「攻撃してください」
「できません」
「聖女様」
「防御じゃ駄目なんですか」
「防御だけでは敵は減りません」
エドガーの声はいつもと変わらなかった。
「この前の討伐の同行だって、負傷者の治療と防壁だけでいいって言ってたじゃない。やっぱり口だけなんだ」
リサは杖を握ったまま、エドガーを睨んだ。
「状況が変わりました」
「そうやって、少しずつ変えていくんでしょ」
「聖女様」
「最初は戦わなくていい。次は防御だけでいい。その次は攻撃しろって。結局、最後には全部やらせるんじゃない」
エドガーは否定しなかった。
「聖女様」
「嫌です」
エドガーが合図した。結界が開いた。
「え」
魔物が走った。
「待って」
リサは杖を上げた。
「待って、無理、無理」
「攻撃してください!」
エドガーの声が飛んだ。魔物が跳んだ。リサは反射的に右腕を上げた。次の瞬間、何かが腕にぶつかった。嫌な音がした。枝を何本もまとめて折ったような音だった。何が起きたのか分からなかった。地面に倒れ、遅れて痛みが来た。
「――っ」
声が出なかった。右腕が、自分のものではない形になっていた。手首から先が大きく曲がっている。指もおかしかった。人差し指と中指が、曲がるはずのない方向へ折れていた。
「聖女様!」
誰かが魔物を吹き飛ばした。エドガーが走ってくる。
「治癒術師を呼べ! 早く!」
リサは右手を見ていた。
「触らないでください!」
治癒術師が叫んだ。
「固定します。聖女様、聞こえますか」
「手」
「聞こえますか?」
「私の手」
「治ります。大丈夫です」
「治る?」
「まず出血を止めます」
「治るんですか」
治癒術師は答えるよりも治療に移った。
「ピアノ」
「聖女様?」
「ピアノ弾けますか」
治癒術師は治療しながら答えた。
「ピアノが何かは分かりませんが、日常生活や戦闘に支障がない程度には、きちんと治ります。ですから、安心してください」
「ピアノ」
「聖女様、今は治療を」
「弾けるのか聞いてるんです!」
「治癒魔法で、日常生活や戦闘に支障がないところまでは治せます」
エドガーは淡々と言った。
「ですから、次からはきちんと攻撃していただく必要があります」
「……だからって、あんな突然」
「荒療治なのは分かっておりましたが、聖女様は攻撃魔法そのものは問題なく扱えています。できないのではなく、最後のところで躊躇しているだけだと判断しました。実際に危険が迫れば、考えるより先に身を守るための攻撃ができる。それを一度経験すれば、次からは訓練でも同じように動けるようになると考えました」
リサは何も言えなかった。治せる。だから怪我をしても構わない。少なくともエドガーにとっては、それで話が終わっているようだった。
治ると言っても、腕が痛かった。指が痛かった。でも、痛いことより指の形がおかしいことの方が怖かった。自分の指なのに、知らないものに見えた。
「戻して」
リサは言った。
「元に戻してください」
治癒術師が口を開いた。
「戻してください」
地面が揺れた。誰かが息を呑んだ。
「聖女様?」
「私、何もしてない」
空気が震えた。
「何もしてないの」
リサの身体から白い光が漏れ始めた。
「なんで」
「全員離れろ!」
エドガーが叫んだ。
「聖女様、魔力を抑えてください!」
「何もしてない!」
「深呼吸を!」
「私、戦わないって言った!」
訓練場の石壁に亀裂が走った。
「嫌だって言った!」
「リサ!」
アルベルトの声がした。いつ来たのか分からなかった。
「落ち着け!」
「帰りたいって言った!」
地面が裂けた。足元の石畳に一本亀裂が走ったかと思うと、それは乾いた音を立てながら蜘蛛の巣のように広がり、訓練場の床を次々と割っていく。砕けた石片が跳ね、白い光に照らされて宙へ舞った。
魔法使いたちが一斉に杖を掲げた。短い呪文が重なり、半透明の防壁が幾重にも張られる。淡く青白い膜のような壁が訓練場を覆い、暴走する魔力を押し留めようと震えた。
けれど次の瞬間、リサの身体からあふれた白い光が、それに正面からぶつかった。耳をつんざくような軋みが響き、防壁の表面にひび割れのような光の筋が走る。押し返されたのは白い光ではなく、防壁の方だった。膜は大きくたわみ、限界まで押し込まれ、ついには一枚、また一枚と砕けるように弾け飛んだ。散った光の粒が空中で消えるたび、衝撃だけが訓練場全体へ広がっていった。
「わっ、私、魔法……なんてっ、いらない!」
言葉の途中で息が詰まった。吸っているはずなのに足りない。喉の奥がひゅっと狭まり、浅い呼吸だけが何度も繰り返される。胸が激しく上下し、肩まで大きく揺れていた。
右手が脈打つたびに鋭い痛みが走った。折れた指先から手首、腕へと痛みが突き上がる。そのたびに呼吸が乱れ、うまく声が続かない。
「聖女なんかにっ……なりたく、なかった……!」
涙で視界が滲んでいた。頬は青ざめ、唇も震えている。それでも身体の周囲からあふれる白い光だけは弱まらなかった。むしろ息が乱れるたびに膨れ上がり、髪や衣服を内側から吹き上げるように揺らしていく。
「聖女様、呼吸を整えてください!」
誰かが叫んだ。リサは首を振った。呼吸を整えようとしても、どうすればいいのか分からない。吸って、吐いて、そのはずなのに息はますます速くなる。胸が苦しい。右手が痛い。周囲の声が重なって、何を言われているのかも分からなくなっていく。
「やだ……やだ、もう……っ」
杖を握る左手にも力が入らず、指が震えていた。その間にも、白い魔力はリサの意思とは無関係に膨張し続けていた。アルベルトがこちらへ歩いてくる。
「来ないで!」
「リサ」
「来ないで!」
光が弾けた。
アルベルトの身体が吹き飛ばされ、エドガーが防壁で受け止めた。
「殿下!」
そのときだった。
「人間とは随分と酷いことをするんだな」
知らない声がした。誰も動かなかった。訓練場の中央に、いつの間にか一人の男が立っていた。黒い服に黒い髪、血のように赤い瞳。背は高く、立っているだけで周囲を圧するような存在感があった。魔法使いたちが杖を向け、兵士たちが剣に手をかけても、男は一度も身構えなかった。自分へ向けられた敵意など、最初から脅威としてみていない。黒い髪の隙間から覗く赤い瞳がゆっくりと周囲を見渡し、最後にリサへ向けられた。その視線だけで、そこにいる全員が誰なのかを理解した。絵に描いたような魔王だった。
「ルシアン……」
アルベルトが低く言った。男が笑った。
「久しいな、王太子」
「魔王がなぜここにいる」
「聖女に会いに来た」
ルシアンはリサを見た。その視線が右腕へ落ちる。
「ああ」
小さく声を漏らした。
「これは酷い」
「黙れ!」
エドガーが魔法を放った。黒い壁がそれを消した。
「お前たちに用はない」
赤い瞳がリサの右手へ落ちる。折れた指を見て、何かを確かめるように目を細めた。ルシアンが指を鳴らした。乾いた音が、訓練場に響く。その瞬間、彼の背後の景色が大きく歪んだ。石壁も地面も、そこだけ別の場所へ引きずり込まれるように輪郭を崩し、黒い影が空間そのものを押し広げていく。魔法使いたちがざわめき、何人かが反射的に杖を構え直した。兵士たちも一歩退いた。影の中から、何かがせり出してくる。輪郭がはっきりするにつれて、リサの目が見開かれた。それは、この世界にはあり得ない形をしていた。見間違えるはずがない。リサは息を止めた。グランドピアノだった。磨き上げられた黒い外装。白と黒の鍵盤。椅子まである。
ルシアンが微笑んだ。
「弾いてくれ」
リサは彼を見た。
「……は?」
「お前の演奏を聴きたい」
「何言ってるの」
「ピアノだ」
「そんなの分かってる」
リサは右手を持ち上げた。途中で痛みに顔が歪んだ。
「これ、見えないの?」
「見えているぞ」
「弾けるわけないでしょ」
「そうか?」
「指、折れてるんだけど」
「ああ」
「手首も」
「酷いな」
「じゃあなんで」
ルシアンはピアノへ手を置いた。
「お前のピアノは素晴らしい」
リサは瞬きをした。
「知らないでしょ」
「知っている」
「嘘」
「聴きたい」
「だから無理だって!」
「今のお前には、これが必要だ」
リサは笑った。自分でも、なぜ笑ったのか分からなかった。
「何それ」
「弾けばいい」
「だから弾けないの」
「弾いてくれ」
「うるさい」
「お前の音が好きだ」
「うるさい!」
「もっと聴きたい」
「黙れ!」
「リサ」
「名前を呼ぶな!」
怒鳴っているのに、ルシアンはまるで堪えていなかった。話が通じているのかさえ分からない。右手はボロボロだった。弾けないと何度も言っている。それなのに、目の前にはピアノがあって、この男は演奏を求め続けている。もう意味が分からなかった。腹が立っているはずなのに、怒りが振り切れたように喉の奥から乾いた笑いが漏れた。
「……何なの、ほんと」
「お前はよく頑張った」
「……何なの」
「疲れただろう」
「黙って」
「もういい」
「黙ってよ」
「全部、嫌になっただろう」
ルシアンの言葉は、気持ちが悪いくらい耳に心地よかった。何も知らないはずなのに、まるで分かっているかのように、リサがずっと欲しかった言葉だけを選んで並べていた。
リサが振り返ると、血を流したアルベルトが立ち上がろうとしていた。その近くではエドガーが杖を構え、遠くからは兵士たちとカイルが駆けてくる。
「リサ! 魔王から離れろ!」
「聖女様、魔力を抑えてください!」
アルベルトも手を伸ばした。
「リサ、こちらへ来い!」
三人はそれぞれに声を張り、リサを呼び戻そうとしていた。
リサはそれを無視して、ルシアンを見た。
「弾いてくれ。お前の演奏が聴きたい」
「弾けないって」
「ああ」
「もう弾けない」
「ああ」
「私、もう」
右手を見た。指が曲がっていた。
「帰っても、弾けない」
誰も答えなかった。世界が、とても静かになった。
「私、何のために帰るの」
アルベルトが何か言おうとした。リサは聞かなかった。
「ずっと帰りたかったのに」
光が広がった。
「帰ったらピアノ弾こうと思ってたのに」
ルシアンだけが動かなかった。
「戦争なんか知らない」
地面が崩れ始めた。
「魔王も知らない」
王城の塔が折れた。
「聖女なんて知らない」
空に白い亀裂が走った。
「全部、私に関係ない」
「リサ!」
アルベルトが叫んだ。リサは彼を見た。不思議と、もう腹も立たなかった。
「もういいです」
「待て」
リサは笑った。何かが壊れた。音はしなかった。白い光が広がり、王城も訓練場も、その境目を失うように消えていった。壁も塔も、人も、空も地面も、すべてが同じ白の中へ溶けていく。
魔法使いたちが何かを叫んでいたが、もう聞こえなかった。カイルは剣を抜き、エドガーは防壁を張った。アルベルトは最後までリサの方へ歩いてきた。それでも白い光は止まらず、三人の姿もやがて見えなくなった。
光はそのまま王都を越え、平原へ広がり、北方の戦場も魔族の街も飲み込んでいった。山も森も海も、そこにあったものから順に消えていく。人間か魔族かは関係なかった。聖女に救われる側も、魔王に従う側も、同じように白い光の中へ消えていった。
その中で、ルシアンだけが残っていた。リサの前で、彼は膝をついた。
「何」
「何も」
「止めないの」
「なぜ?」
「魔王なんでしょ」
「ああ」
「魔界もなくなるよ」
「そうだな」
「あなたも死ぬよ」
「構わない」
ルシアンはリサの壊れた右手を取った。黒いものが腕を伝った。
「何してるの」
「私の全てをやる」
リサからあふれる白い光に、ルシアンの黒い闇が重なった。相反するはずの二つの力はぶつかることなく絡み合い、白と黒の境目を失いながら広がっていった。
魔王の身体が崩れ始める。煙のようにほどけ、リサの中へ入ってくる。
「待って」
「大丈夫だ」
声だけが残った。
「弾いてくれ」
それが最後だった。やがて、何もなくなった。
リサはその場に立ち尽くしていた。しばらくは、自分が立っていることすらよく分からなかった。耳に残っていた叫び声も、崩れる音も、魔力の震えも、すべて消えている。ゆっくりと呼吸が戻り、ぼんやりしていた意識が少しずつはっきりしてくる。
そこは白い場所だった。空も地面もなく、どこまでが上で、どこからが下なのかも分からない。音もなく、人間も魔族もいない。王国も魔界も、さっきまでそこにあったものは何一つ残っていなかった。そして目の前に、一台だけピアノがあった。
「あれ」
右手を見下ろすと、あれほど酷かった傷は消えていた。恐る恐る指を曲げてみると、五本とも思いどおりに動いた。続けて手首を回してみても、痛みはなかった。
「治ってる」
リサはピアノの前まで歩き、椅子に腰を下ろした。右手を鍵盤の上へ置こうとして、途中で止める。さっきまで壊れていた手だと思うと、触れることさえ少し怖かった。それでも、もう一度ゆっくりと右手を下ろした。人差し指で白い鍵盤をひとつ押す。澄んだ音が鳴り、静かな白い空間へ長く響いていった。リサはその音をしばらく聞いてから、次の鍵盤へ指を移した。右手だけで旋律をなぞり、確かめるように一音ずつ弾いていく。やがて左手も添えた。何度も弾いてきた曲だった。指はまだ覚えていた。速い部分も細かな動きも引っかかることなく、以前と同じように動いていった。
世界にはもう何もなかった。人間も魔族も、王も勇者も、誰もいなかった。リサのピアノだけが響いていた。
「……やっぱり」
口元が少し緩んだ。
「楽しいな」
白い世界の中で、リサは弾き続けた。どのくらい経ったのか分からなかった。ただ、いつの間にかピアノの響きが少しずつ変わっていた。どこまでも広がる空間へ伸びていた音が、次第に遠くまで届かなくなっていく。一音鳴らすたびに長く残っていた残響も短くなり、すぐ近くの壁や天井に当たって返ってくるような響きへと変わっていった。それでもリサは弾き続けた。広い場所で弾いていたはずのピアノが、いつの間にか狭い部屋の中で鳴っているように聞こえていた。
白い世界自体も、変わってきた。ぼんやりとした白の中に、直線が浮かび上がる。やがてそれは白い板になり、その間に細い継ぎ目が見えた。さらに、四角い照明の輪郭まで現れる。
リサはそこでようやく鍵盤から手を離した。指を止めると、さっきまで響いていたピアノの音の代わりに聞こえてきたのは、小さな電子音だった。一定の間隔で、同じ音が繰り返されていた。
意識が戻るにつれて、身体の感覚も少しずつ戻ってきた。鼻には何かが差し込まれていて、口の中はひどく乾いている。身体全体が重く、思うように動かなかった。
リサはゆっくりと目を開けた。視界の先には、白い天井があった。見覚えのない、知らない天井だった。
「……リサ?」
女の声がして、リサはそちらへ顔を向けた。そこには母親がいた。目の下には濃い隈ができ、髪も乱れていて、ひどく疲れた顔をしていた。
「リサ」
母親が立ち上がった。
「先生、先生!」
ほどなくして白衣の医師や看護師たちが集まってきた。見覚えのない男から名前や年齢を尋ねられ、リサは戸惑いながら答えた。しかし、ここがどこなのか、何月なのか、何日なのか、それどころか自分がどれくらいここにいたのかも分からない。ついさっきまで白い世界でピアノを弾いていたはずなのに、その前がどこまで現実だったのかも曖昧だった。
「事故のことは覚えていますか」
医師に聞かれた。
「事故?」
「交通事故です」
リサは医師を見た。
「下校中、トラックとの接触事故に遭いました」
記憶の奥から、ぼんやりといくつかの光景が浮かんできた。自分の記憶なのか、それとも今になって作られたものなのかも分からない。学校からの帰り道らしい景色と、信号、横断歩道が断片的に見える。次に鋭いクラクションの音がして、大きな影がこちらへ迫った。そこから先は、何も思い出せなかった。
「私……死んだんじゃ」
「いいえ」
医師が答えた。
「かなり危険な状態でしたが、手術は成功しました」
リサは自分の身体を確かめようとしたが、首まで固定されていて、ほとんど動かせなかった。見える範囲は狭い。それでも視線を下げると、右腕だけははっきり見えた。肩から先が真っ白に固定され、手まで厚く覆われていた。
「なにこれ」
母親が泣き始めた。医師が一瞬、母親を見た。医師は一度息を整えてから、できるだけゆっくりと説明した。
「右腕は肩から手まで、複数箇所を骨折しています。手首と指にも損傷があります。それから、神経にも一部傷がありました」
「治る?」
「手術そのものは予定どおり終わっています。ただ、今後は状態を確認しながらリハビリを続けることになります」
「治るの?」
医師はすぐには答えなかった。
「日常生活で使用できるところまで回復する可能性は十分あります」
「ピアノ」
母親が顔を覆った。
「ピアノ弾けるんですか」
「現時点では何とも言えません」
どこかで、何度も聞いたような言葉だった。リサは右手へ視線を落とし、指を動かそうとした。けれど、何も動かなかった。
「無理に動かさないでください」
看護師が言った。リサは天井を見た。白い。さっきまでいた場所と、よく似ていた。
「夢……」
声が掠れた。母親が顔を上げた。
「どうしたの?」
「何でも」
夢だったのだ。当たり前だった。異世界も聖女も存在しない。アルベルトも、エドガーも、カイルも、ルシアンもいない。全部、事故で意識を失っている間に見た夢だった。
現実で右腕を壊したから、夢の中でも右腕が壊れた。ピアノが弾けなくなることが怖かったから、夢の中では世界そのものを壊した。ただ、それだけだった。
しばらくして、母親は医師と話すために病室を出て、看護師もあとに続いた。静かな病室には、一定の間隔で鳴る電子音だけが残った。リサはもう一度、右手を動かそうとした。けれど、指は少しも動かない。痛みさえまだはっきりせず、厚い包帯の下に本当に自分の手があるのかさえ分からなかった。それでももう一度、指を動かそうと力を込めた。何も変わらなかった。
「……弾きたい」
誰もいない病室で呟いても、返事はなかった。リサは目を閉じ、あの黒いグランドピアノを思い出した。白と黒の鍵盤と、何の痛みもなく動いていた右手。あの世界では弾けた。世界を全部なくしたあとなら、ちゃんと弾けた。そのとき、耳の奥で声がした。
『弾けばいい』
リサは目を開けた。病室には誰もいなかった。白い天井と、一定の間隔で鳴る電子音だけがある。
『お前の音が好きだ』
聞き間違いではなかった。知っている声だった。
『また聴かせてくれ』
リサは右手へ視線を落とした。厚い包帯に覆われた指は、やはり動かなかった。
『好きなだけ弾けばいい』
不思議だった。あれほど気味が悪かった声なのに、今は少しも怖くない。むしろ一言聞くたびに、胸の奥に張りついていたものがゆっくりとほどけていった。
『誰も急かさない』
『誰もお前に戦えとは言わない』
『ただ、弾けばいい』
『私はお前のピアノが聴きたい』
リサは黙ったまま聞いていた。
事故のことも、医師の言葉も、動かない右手も、少しずつ遠くなっていくようだった。
『好きな曲を弾け』
『お前が弾きたいものを、好きなだけ弾けばいい』
あの白い世界を思い出した。誰もいなかった。何もなかった。ただピアノだけがあって、右手は自由に動いた。あの場所では、誰にも何も求められなかった。
『もし弾けないなら』
声が少しだけ近くなった。
『壊せばいい』
リサは瞬きをした。
『壊せばいいんだよ』
優しく言い聞かせるような声だった。
『全部壊してしまおう』
『そうすればまた弾けるだろう』
リサは白い天井を見つめたまま、ゆっくりと息を吸った。もう一度、深く吸う。胸の奥に残っていた苦しさが、呼吸を重ねるたびに消えていく。何をすればいいのか、ようやく分かったような気がした。
病室には誰もいない。それでもリサの耳には、あの声がまだ優しく語りかけていた。
口元が、ゆっくりと緩んだ。リサは、希望に満ちた瞳で笑った。




