私の作った煮物は捨てられた 〜「出ていけ」と言われた女の話〜
あの人のアパートの下にあるゴミ置き場で、透明なゴミ袋の底に、昨夜の私が作った煮物が沈んでいた。
面取りした大根は角を失い、茶色い汁にまみれて形を崩している。人参は他のごみに押し潰されて裂け、煮汁にまみれたまま、丁寧に作った料理だったことさえわからないほど無惨になっていた。
しばらく、私はその場から動けなかった。
ちゃんと作ったのに。
出汁も取った。火加減も見た。味がしみるまで待った。
体にやさしいようにと思って、油も控えた。
あの人が口にするものだから、少しでもやさしいものにしたかった。
買い物に行くときも、食べやすそうなものを選んだ。
どの大根ならやわらかく煮えるだろう、どれなら少しでも口にしやすいだろうって、そんなことを考えながら、ひとつずつ手に取った。
作っているあいだも、気づけばあの人のことを考えていた。
疲れて帰ってきても食べやすいように、少しでもほっとできるようにと思いながら、丁寧に煮た。
それなのに。
「……どうして」
小さくこぼれた声は、朝の冷たい空気に吸い込まれていった。
いらないなら、せめて見えないところで片づけてくれればよかったのに。
こんなふうに、昨夜の私が作った煮物を、すぐに見つけてしまう場所に捨てないでほしかった。
そう思うだけで、胸の奥がじわりと痛んだ。
どうして、こんなことするんだろう。
「……ひどい」
小さくつぶやいた声は、朝の空気に溶けて消えた。
私はゴミ袋を見つめたまま、奥歯を噛んだ。
泣きたくなるほど悲しかった。
あの大根は、まるで私みたいだった。
ちゃんと形を整えて、時間をかけて、やわらかくなれるように待って、それでようやく差し出したのに、最後は何も言われないまま、袋の底で形をなくしている。
私がどんな気持ちであれを作ったのか、あの人はきっと知らない。
きっと、私の好きなものも、好きなことも、何が誕生日にほしいかも、何ひとつ知らないんでしょうね、と私は思った。
それなのに、私はまだ、好きでいる。
もうやめたほうがいいのかもしれない。
あんなふうに捨てられてまで好きでいるくらいなら。
でも、嫌いになれない。
だって、あの人と同じ場所にいられる時間は、静かで、やさしくて、幸福だったから。
◇
最初は、ただ同じ場所にいるだけだった。
同じ朝のホーム。
同じ時間に来る電車。
同じ駅の改札。
あの人は少しだけ疲れた顔をしていて、周りのことなんて見ていないみたいだった。スマートフォンを見るか、ぼんやり遠くを見ているか、そのどちらかで、誰かに愛想よく笑うような人ではなかった。
何がきっかけだったのか、気づけば、いつのまにかあの人と一緒にいる時間は少しずつ増えていた。
言葉を交わさなくても、ただ同じ場所にいられるだけで満たされていた。
同じ空間にいて、同じ景色を見ている。
それだけで、胸の奥がじんわり温かくなった。
水族館に一緒に行った日も、そうだった。
青い光の中で、くらげの揺れる大きな水槽を見上げた。
少し前を歩く背中を追いながら、暗い通路をゆっくり進いていく。
あの人は少し照れ屋なのかもしれなかった。手を握ってくれなかったし、隣を歩いてくれるわけでもなかったけれど、それでも私は幸福だった。
同じものを見て、同じ場所にいて、同じ時間を過ごしている。
ああ、この時間がずっと続けばいいのに、とあのとき何度も思った。
手なんてつながなくていい。
名前を呼んでくれなくてもいい。
ただ、私はそこにいて、あの人もそこにいる。それだけでよかった。
気づけば、そういう時間が私の中で当たり前になっていた。
◇
私たちは一緒に暮らしているわけではなかった。
私は私の家に帰るし、あの人はあの人の部屋に帰る。
それでも、仕事で帰りが遅い日などは、あの人の部屋に一人でいることがあった。
最初は少しだけ緊張したけれど、静かな部屋に一人でいる時間は、不思議と嫌いじゃなかった。
少し乱れたものを元に戻したり、冷えた空気の中で湯を沸かしたり、そういうことも、いつの間にか私の中では自然になっていた。
ある日、ご飯を作って驚かせてやろうと思った。
最近、帰りが遅い日が続いていたから。
せめて温かいものを用意してあげたら、少しは喜んでくれるかもしれないと思った。
その日は煮物を作った。
丁寧に、いつもより少しだけ時間をかけて。
体にやさしい味にして、疲れていても食べられるように。
きっと、少しは喜んでくれると思った。
でも、あの人は帰ってこなかった。
時計の針が進むたびに、部屋の中の温度が少しずつ下がっていく。
湯気は消えて、煮物は冷めて、私は何度も玄関のほうを見た。
結局、あの人が帰ってくる前に部屋を出た。
食卓に並べたまま、ラップだけかけて。
そして、次の日の朝。
あの煮物は、ゴミ袋の中にあった。
◇
それから、しばらく包丁を持てなかった。
まな板の上に大根を置くたび、あの朝の光景が蘇る。
崩れた大根。濁った汁。冷たいビニールの感触。
また作ろうと思うことはあった。
でも、そのたびに手が止まった。
それでも、あの人のことを放っておけなかった。
あの人の帰りは、少しずつ遅くなっていった。
気づけば、あの部屋で一人で過ごす時間は少しずつ長くなっていた。
その時間が増えるほど、あの人を思う気持ちも静かに募っていった。
先に来て、少しだけ部屋を整える。
床に落ちているものを拾って、シンクのコップを洗って、乾きかけた植物に水をやる。
そうしている時間は、不思議と落ち着いた。
ちゃんと、ここにいていい気がした。
ふと、椅子の背にかかったワイシャツが目に入ることがあった。
そっと抱きしめると、まだあの人の残り香がかすかに残っていて、それだけで少し救われる気がした。
あの部屋で一人で過ごす時間は少しずつ長くなっていたけれど、それでもよかった。
あの人の住む部屋の空気の中にいられるなら。
それだけで、幸せだと思ってしまう自分がいた。
◇
久しぶりに、もう一度ご飯を作ろうと思ったのは、最近あの人の体調が悪そうだったからだ。
顔色もよくない。
帰りも遅くて、コンビニ食ばかり。
何だか少し、やせた気もした。
だから今度は、もっとやさしいものにしようと思った。
雑炊にした。
出汁をきかせて、卵を落とす。
生姜も加える。体が温まるように。喉にも胃にもやさしいように。
油は使わない。塩気も強くしない。
食卓に器を並べて、私はエプロンの端を整えた。
あとは最後にネギを散らすだけだった。
包丁で細かく刻む音が、静かな部屋に規則正しく響く。
聞いていると、不思議と少しだけ落ち着いた。
今回は大丈夫かもしれないと思った。
今度は、食べてくれるかもしれない。
今度は、捨てられないかもしれない。
そんな根拠のない期待を、私はまた持ってしまった。
そのとき、玄関の鍵が回る音がした。
心臓が跳ねる。
今日はもっと遅いと思っていた。
一瞬、手が止まる。
ほんの少しだけ、ためらった。
こうして顔を合わせると思うと、胸が落ち着かなかった。
でも、私が少し勇気を出せばいいだけだと思った。
あの人はもう、私を受け入れる準備ができている。
あとは、私が一歩踏み出すだけだった。
そう思うと、不思議と胸の奥があたたかくなった。
足音が近づいてくる。
そして、リビングの入口で、あの人が止まった。
私は、ネギを刻んでいた包丁を持ったまま、やわらかく微笑んだ。
「おかえりなさい」
「ひっ……!?」
あの人の口から出た声は、喉の奥で潰れたような音だった。
持っていた鞄が床に落ちる。
あの人は二歩、三歩と後ずさり、そのまま足をもつれさせて尻餅をついた。腰が抜けたみたいに、立ち上がれないでいる。
怯えきった顔で、私を見上げている。
私は少しだけ眉を寄せた。
「やだ……どうしたの?」
何か、そんなに怖いことがあったのかしら。
「だ、誰だよ……!? なんで俺の部屋にいるんだよ!!」
部屋の空気がびりっと震えるくらいの声だった。
私は少しだけ傷ついた。
そんな言い方をするなんて。
「やだ、そんな冷たい言い方しないで」
できるだけやさしく笑う。
ただ、今日はちゃんと食べてほしかっただけなのに。
何をそんなに怖がるのか、よくわからなかった。
「来るな!!」
床に手をついたまま、あの人はさらに体を引いた。
私は食卓のほうを見た。
雑炊の湯気は、まだ少しだけ立っている。
「今日はね、ちゃんと考えたのよ」
やわらかく、言い聞かせるみたいに言う。
「最近、少し体調悪そうだったでしょう。コンビニのレシートばかりで、不摂生がたたったんじゃないかしら。胃腸も悪いみたいだから、胃にやさしいものにしたの。ネギも入れたし、生姜も少し多めにしてあるから、温まると思う」
「……なんで、そんなこと知ってるんだよ……」
掠れた声だった。
私は少しだけ首をかしげた。
「やだ、この前、ゴミ袋の中に処方箋が捨ててあったじゃない」
少しだけ間を置く。
「胃腸科の」
あの人の顔から、見る見るうちに血の気が引いていく。
「だから、ああ、やっぱりと思って。脂っこいものばっかり食べるからじゃないの。今回はちゃんとやさしいものにしたのよ」
「……この前の飯も……」
視線が、食卓の器と私の顔を何度も往復する。
「……この前のも、お前がやったのか?」
私は少しだけ眉を寄せた。
どうして、そんな言い方をするんだろう。
「ひどいわ」
声が少しだけ掠れた。
「ちゃんと出汁も取って、面取りもして、落とし蓋までして、丁寧に作ったのよ。捨てられたときは、さすがにすごく悲しかった」
胸の奥が、あの朝みたいに少しだけ冷える。
「でも、もう許してあげる」
私はやさしく笑った。
「だって、あなた、ちゃんとしたご飯に慣れていないだけなんだもの」
「警察に相談してるんだよ……!」
ほとんど悲鳴だった。
「部屋に誰かが入った痕跡があって、相談してたんだ……!」
私は一瞬だけ目を見開いた。
それから、小さく笑った。
「やだ、ひどいわ」
どうしてそんなに怖がるのだろう。
私はただ、あなたのことを思っているだけなのに。
「出て行け!!」
強く、言い放たれた。
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
「……悲しい」
私は小さくつぶやいた。
「私に、そういうことを言うのね」
それでも、笑う。
泣きたくなるほど悲しいのに、笑ってしまう。
「今さらそんなこと。合鍵だってくれたじゃない」
「……は?」
あの人は固まったまま、私を見る。
私は首をかしげて、やわらかく言った。
「前に、落としてくれたでしょ」
一拍置いて。
「私のために」
あの人の顔が、音もなく崩れた。
一歩だけ近づく。
右手には、さっきまでネギを刻んでいた包丁がまだ残っていた。
左手でエプロンの胸元を軽く押さえて、私はにこやかに言った。
「今回はね、やさしいご飯を作ったの」
食卓の湯気を見て、少しだけうれしくなる。
「ちゃんと食べてね」
首をかしげる。
「残さずに」
それから、やさしく言い直した。
「今度は捨てないでね」
よろしければ、あらすじをもう一度ご覧ください。
何か見つかるかもしれません。
そのうえで、本文をぜひもう一度読み直していただければ、また違った物語に見えてくると思います。




