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第8話 読めない胸と、作られた優しさ

 翌朝、俺は人生で一度も着たことのない種類の服を着せられていた。


「……これ、ほんとに俺が着るのか」


 鏡の前で思わず呟く。


 濃い色の上着に、動きやすいがそこそこ上等なズボン。襟元はきっちりしているが、学生制服というよりは“貴族家に仕える若い補佐役”みたいな格好だ。公爵家の紋章は目立たない位置にだけ入っている。派手ではない。だが安物にも見えない。


 つまり、絶妙に身元が曖昧だ。


 そこが今回の狙いらしい。


「似合っておりませんね」


 背後からの第一声がそれだった。


 振り返ると、マルグリットが腕を組んで立っている。

 今日も今日とて侍女長は容赦がない。


「朝からひどいな」


「事実を申し上げただけです」


「もう少しこう、励ますとかないのか」


「励ましてどうなるのです」


「心が軽くなる」


「不要です」


 ばっさりだった。


 だがそのあと、彼女は俺の襟元へ手を伸ばし、少し曲がっていた部分を整える。


「ただ」


「ん?」


「昨日までよりは、幾分ましです」


「それは褒めてるのか」


「最大限譲歩しております」


 なるほど。

 この人なりの好意なのだろう。分かりづらいけど。


 今日の俺の立場は、ヴァルモン家の遠縁筋から一時的に預けられた“雑務補佐兼使い走り”という設定になっていた。家名までは表に出さないが、公爵家の人間が裏で面倒を見るには都合のいい曖昧さだ。

 学園側にも最低限の話は通してあるらしい。さすがバルトロ、仕事が早い。


 問題は、その設定でどこまで中に入り込めるかだ。


「準備はよろしいですか」


 マルグリットに言われ、俺は鏡から離れた。


「まあな」


「よろしい。では最後に確認します」


 また確認か。

 いや、重要なのは分かっているけど。


「学園内では、お嬢様と必要以上に親しげにしないこと」


「それは分かってる」


「セシル嬢やその周囲へ、初手から敵意を見せないこと」


「分かってる」


「そして」


 侍女長の目が細くなる。


「必要以上に目を凝らさないこと」


「そこは無理なんだって!」


「努力はなさい」


「するけど!」


 毎回ここで詰められる。

 だが《乳眼》を使わずに学園へ行く意味が薄いのも事実だ。俺の役目はそこなのだから。


 扉がノックされ、若い侍女が顔を出す。


「お嬢様がお待ちです」


 リリアーヌは、今日は屋敷から出ない。


 それが今回の前提だった。


 表向き、婚約破棄騒動の渦中にいる公爵令嬢が堂々と学園へ現れれば、空気が一気に固まりすぎる。だから彼女は屋敷で情報を受け、必要な指示を出す側に回る。


 その代わり俺が学園へ行く。

 そして今日だけは、俺ひとりではない。


「本当に行くんだな、お前も」


「何ですの、その言い方」


 玄関ホールで待っていたのは、ミレイユだった。


 昨日の時点ではまだ協力者候補ですらなかったが、リリアーヌが早朝のうちに文を出し、短時間だけ接触できるよう取り計らったらしい。旧生徒会書記であり、学園内の人間関係や空気を比較的冷静に見ていた令嬢。

 舞踏会ではリリアーヌ寄りではなかったが、決定的に敵でもない。


 今日の彼女は淡い緑のドレスに短い外套を羽織り、いかにも“学園に用事がある上級生令嬢”という格好をしていた。

 髪は肩口で上品にまとめられている。顔立ちは整っているが、リリアーヌとは違う種類の鋭さがある。知的で、よく周囲を見ていそうな目だ。


 その目が俺に向けられる。


「わたくしだって行きたくて行くのではありません」


「だろうな」


「ですが、あなた一人では、まず五歩で怪しまれるでしょう?」


「ひどいな」


「事実です」


 こっちも容赦がなかった。


 階段を下りてきたリリアーヌが、その会話へ割って入る。


「ミレイユ、よろしく頼みますわ」


「引き受けた以上はやります。ただし、これで本当にわたくしまで変な噂に巻き込まれたら、あとで責任を取ってくださいませ」


「善処します」


「善処では困ります」


「それはお互い様でしょう?」


 リリアーヌが少しだけ口元を上げる。

 ミレイユも小さく鼻を鳴らした。


 この二人、完全に親しいわけではない。

 だが、少なくとも言葉を交わせるだけの土台はある。


 リリアーヌは俺へ視線を向ける。


「拓真」


「ん」


「今日の目的を忘れないこと」


「セシルの観察。学園内の空気確認。あと、話せそうなやつがいるか探す」


「ええ。それからもう一つ」


「何だ」


「自分がどれほど怪しいかを常に自覚すること」


「最後がひどい」


「大事ですわ」


 大事らしい。

 まあ、否定はできない。


 玄関先まで見送りに出たリリアーヌは、最後に声を少し落として言った。


「……セシル本人について、決めつけないで」


「分かってる」


「嫌なものを見るかもしれませんわよ」


「それでも見るしかないだろ」


 その返答に、彼女は一瞬だけ目を細めた。

 何か言いかけて、結局飲み込む。


「そうですわね」


 それだけ言って、一歩退いた。


「行ってらっしゃい」


 妙に自然なその言葉に、俺は一瞬だけ間が抜けた。


「……ああ」


 それしか返せなかった。


 王立学園は、王都の中心から少し外れた高台にあった。


 白い石造りの門、広い敷地、左右に伸びる校舎、中央の噴水。

 規模としては前世の大学に近いかもしれないが、建物の雰囲気は完全に貴族社会のそれだ。整えられた庭木、制服姿の学生たち、馬車寄せに止まる家紋入りの車。空気が違う。


「……すげえな」


 馬車を降りて最初に漏れたのがそれだった。


 隣でミレイユが呆れたように言う。


「毎回その反応ですのね」


「いや、仕方ないだろ。前世でもこんな学校見たことない」


「前世という言い回し、本当に変ですわね」


「気にするな」


「気になります」


 そう言いながらも、彼女はさっさと歩き出す。

 俺も慌てて後を追った。


 門をくぐった瞬間から、視線が刺さるのが分かった。


 主にミレイユへ向かうものと、その隣にいる見慣れない男――つまり俺へ向かうもの。

 ひそひそと囁く声があちこちから漏れる。


「あれ、ミレイユ様よね」

「隣の方、どなた?」

「見たことないわ」

「ヴァルモン家の件と関係が……?」

「まさか新しい……?」


 最後の噂はやめろ。

 何が“新しい”だ。


 だがこうして入ってみて、すぐに分かることがあった。

 学園の空気はまだ昨日の舞踏会を引きずっている。

 当然だ。卒業記念舞踏会は一大イベントだし、その場で婚約破棄だの断罪だのが起きたのだ。今日の学園でそれが話題になっていないわけがない。


 ミレイユが歩きながら小声で言う。


「まずは自然に中を回ります」


「自然って、今かなり見られてる気がするけど」


「わたくしがいる時点で多少は仕方ありません」


「自覚あるんだな」


「あなたよりはあります」


 言い返せない。


 校舎の玄関ホールへ入ると、さらに視線が増えた。

 学生たちの服装は男女とも統一されているが、質と装飾に微妙な差がある。基本は学校の制服、そこへ家格や個人の趣味が少しだけ滲む感じだ。


 そして、その視線の中には明確なものもあった。


 好奇心。

 打算。

 噂話への期待。

 誰と誰が組むかを見る社交の目。


 こういう空間にリリアーヌがいたら、たしかにすぐ空気が固まるだろう。

 ここは、表面が穏やかであるほど水面下が濁る場所だ。


「……なるほどな」


「何がですの」


「リリアーヌが息苦しくなるの、ちょっと分かる」


 ミレイユがちらりとこちらを見る。


「分かったようなことを」


「まだ全部じゃないけど」


「全部分かられたら、あの子もたまりませんでしょうね」


 それはそうだ。


 俺たちはまず、舞踏会準備に関わった教室や旧生徒会室周辺を回った。

 ミレイユが表向きは「書類の確認」だの「貸し出し品の整理」だのそれっぽい理由を口にしつつ、さりげなくその場にいる生徒や下働きの手伝いへ話を振っていく。


 ここでも改めて分かった。

 この令嬢、かなり使える。


「あなた、そういう顔をしないでくださる?」


「いや、普通に優秀だなって思ってた」


「褒めても何も出ませんわよ」


「褒めてるんだからそこは普通に受け取れよ」


「怪しい男に褒められても嬉しくありません」


 言いながらも、ほんの少しだけ口元が動く。

 完全に無駄ではないらしい。


 それより問題は、セシルだった。


 午前のうち、何度か名前は耳に入った。

 “可哀想なセシル様”

 “昨日は本当にお気の毒だった”

 “リリアーヌ様ってやっぱり……”

 そんな言葉が、あまりに自然に教室や廊下を流れている。


 誰かが無理やり広めているというより、一度できた空気が勝手に増幅している感じだ。

 だから余計に厄介だ。


 そしてついに、昼前。


 中庭へ面した回廊を歩いていたとき、前方で学生たちの気配がふっと割れた。


 道が開く。

 ざわめきが少しだけ柔らかいものに変わる。


「あ……」


「セシル様」


「大丈夫かしら、お顔色が……」


 その中心にいたのが、セシル・エヴァレットだった。


 淡いクリーム色の制服風ドレス。胸元には聖女候補を示す細い意匠。栗色の髪はゆるくまとめられ、儚げな横顔が光の中に浮かぶ。昨日と同じだ。守ってあげたくなる雰囲気が、歩いているだけで周囲へ広がっている。


 そして、近くで見た瞬間。


 《乳眼》が反応した。


 目の奥が熱くなる。

 視界が少しだけ深くなる。


 セシルの胸元に、揺れはある。

 だがやはり妙だ。


 怖がっているように見える。

 疲れているようにも見える。

 けれど、その感情があまりに整っている。形が崩れない。怯えなら怯えで、もっと乱れた熱になっていいはずなのに、それがない。


 まるで、“そう見えるべき感情の型”へ流し込まれているみたいだった。


 気味が悪い。

 いや、怖い、の方が近いかもしれない。


「……どうしましたの」


 隣のミレイユが小さく囁く。


「妙だ」


「またそれですのね」


「昨日と同じだ。でも、近いと余計に分かる」


 セシルの周りには数人の令嬢と男子生徒がいて、皆が彼女を気遣っている。

 その空気もまた不自然だった。過剰なのだ。

 普通の心配に混ざって、“この子を守らなければならない”という圧が強すぎる。


 セシル本人が何かしているのか、それとも周囲が勝手にそうなっているのか。まだ分からない。

 だが少なくとも、自然な人気だけでは説明しづらい。


 そのとき、セシルがこちらを見た。


 正確には、ミレイユへ向けた視線が、その隣にいる俺へも触れた。


 ほんの一瞬。


 その瞬間だけ、《乳眼》の揺れが途切れた。


「……!」


 思わず息を呑む。


 消えた、というより、遮断された感じだ。

 見えない。

 いや、見せないようにされたような。


 俺が硬直したのに気づいたのか、ミレイユが低く言う。


「拓真」


「あ、ああ」


「顔に出ていますわよ」


「悪い」


 セシルはもうこちらを見ていない。

 だが俺の中の違和感は一気に増した。


 昨日は“整いすぎている”だった。

 今はそれに加えて、“触れた瞬間に隠された”感じがある。


 まさか本人が意識している?

 いや、そんな能力みたいな話があるのか?

 だが異世界だ。聖女候補だ。何かしらの加護や術があっても不思議ではない。


 俺たちが立ち止まっていたせいか、セシルの近くにいた男子生徒の一人がこちらへ歩いてきた。


「ミレイユ嬢」


 柔らかな声音。

 整った顔立ち。

 だが《乳眼》を向けると、その胸元には露骨な警戒が浮いていた。


「そちらの方は?」


 ミレイユは完璧に社交用の笑みを浮かべる。


「わたくしの親類筋から預かっている雑務補佐ですわ。学園内の整理に少し手を借りておりますの」


「そうでしたか」


 男子生徒は笑顔を崩さない。

 けれど揺れは変わらない。

 探っている。俺が何者かを。


「昨日の件で、何かと大変でしょう」


「ええ、本当に」


「セシル様もお疲れです。これ以上、余計な刺激がないとよいのですが」


 言葉は柔らかい。

 だが含みは十分だ。

 つまり、“ヴァルモン寄りの動きを見せるな”という牽制でもある。


 ミレイユは笑みを崩さず返した。


「もちろんですわ。わたくしたちも、これ以上の混乱は望んでおりませんもの」


「それなら結構」


 男子生徒は一礼して戻っていった。


 去り際に俺へ向けた視線には、明確な値踏みがあった。


 ミレイユが小さく息を吐く。


「今のが生徒会副補佐のロイドです」


「味方か?」


「セシル寄りですわね。少なくとも今は」


「分かりやすいな」


「ええ。分かりやすい者はまだ楽です」


 つまり、分かりにくいやつの方が面倒だということだ。


 中庭の向こうでは、セシルが周囲に気遣われながらゆっくり歩いていく。

 その後ろ姿は、どう見ても儚くて、傷ついた少女に見える。


 だが俺は、さっきの“読めなさ”を忘れられなかった。


「……あの子、ほんとに何なんだ」


 思わず漏れた言葉に、ミレイユが静かに答える。


「皆、それを都合よく決めたがるのですわ」


「都合よく?」


「可哀想な聖女候補。守るべき少女。優しくて儚い子。そういう役を押しつければ、周囲は安心できますもの」


 彼女はセシルの消えた方角を見たまま続ける。


「でも、人はそんなに綺麗にひとつの役へ収まりません」


「……」


「リリアーヌもそうでしょう?」


 その言葉は重かった。


 高飛車な悪役令嬢。

 皆がそう決めた。

 でも実際には違った。


 なら、セシルもまた、“聖女”という役へ押し込まれている可能性がある。


 問題は、その押し込まれ方がどこまで本人の意志と無関係かだ。


「もう少し近くを知りたい」


 俺が言うと、ミレイユは即座に首を振った。


「焦りすぎです」


「でも」


「今日は空気を見る日です。いきなりセシルの内側へ飛び込めると思わないこと」


 正論だった。

 リリアーヌと少し似ている。言い方が容赦ないところも含めて。


 だがその直後、ミレイユは少しだけ声を落とした。


「……ただ」


「ん?」


「完全に手がかりがないわけでもありません」


「何か知ってるのか」


「セシルは昼休み、よく旧礼拝室へ行きます」


「礼拝室?」


「今はほとんど使われていない小さな祈りの部屋です。静かですし、人目も少ない。彼女が一人になりたいときに好んで使っていると聞きます」


 それは大きな情報だった。


「一人になるのか」


「少なくとも表向きは」


「……見に行けるか?」


 ミレイユは少し考え、それから頷いた。


「今日は無理ですわ。今のあなたは、まだ学園内で目立ちすぎる」


「自覚はある」


「ですが、明日以降なら導線を作れるかもしれません」


「頼む」


「簡単に頼まないでくださいまし」


 そう言いながらも、彼女は完全には拒まない。

 ここが彼女のいいところだろう。理屈が通れば動く。


 昼の鐘が鳴る。


 学生たちが一斉に動き始め、回廊の空気が変わる。

 俺たちは人波を避けるように端へ寄った。


 そのとき、向こう側から女子生徒二人の会話が聞こえてきた。


「でも、リリアーヌ様もあそこまで露骨じゃなくてよかったのに」

「でもセシル様、本当に可哀想で……」

「そうよね、泣きそうだったもの」

「というか、前から怖かったじゃない。リリアーヌ様って」


 足が止まる。


 怖かった。

 その一言が、妙に刺さった。


 ミレイユもそれに気づいたのか、小さく息を吐く。


「これが学園です」


「……」


「誰も大嘘をついているわけではない。けれど、誰も彼女の全部を見ようとはしない」


 そうだ。

 ここには悪意だけがあるわけじゃない。

 ただ“分かりやすい物語”へ流れ込んでいるだけだ。


 高飛車で怖い令嬢。

 可哀想な聖女候補。

 その図式の方が、皆が楽だから。


 だからこそ、壊しにくい。


 俺は自分でも驚くほど、はっきりと腹が立っていた。


「……拓真」


 ミレイユが少し強い声で呼ぶ。


「顔」


「え?」


「怒りすぎですわ」


 そう言われて初めて、自分の表情が硬くなっていたことに気づく。


「悪い」


「気持ちは分からなくもありませんが、今はまだ飲み込みなさい」


「分かってる」


「いいえ、半分くらいしか分かっていませんわね」


 鋭い。

 でも正しい。


 そのあと、俺たちは昼休みを挟んで学園内をさらに回った。


 資料室。

 旧生徒会室。

 舞踏会準備に使われた裁縫室。

 どこへ行っても、セシルの名は“可哀想な被害者”として語られ、リリアーヌの名は“やりかねない人”として囁かれていた。


 だが同時に、少しだけ違う声もあった。


「リリアーヌ様って、厳しいけど筋は通ってたわよね」

「怖かったけど、理不尽ではなかったかも」

「セシル様の周り、ちょっと過保護すぎる気もする」


 小さい。

 だがゼロじゃない。


 その声を拾えるのは、たぶんまだ遅くない証拠だ。


 夕方近く、ようやく学園を出たときには、俺はかなり神経を使い果たしていた。


 帰りの馬車の中、ミレイユが向かいで腕を組む。


「で」


「何だ」


「今日見たこと、どう報告しますの?」


 俺は窓の外を見ながら答えた。


「セシル本人は、まだ黒とも白とも言えない」


「ええ」


「でも、あの子の周りの空気はおかしい。守るべき存在として完成しすぎてる」


「同感ですわ」


「あと、学園の中にはまだリリアーヌを完全に黒だと思ってないやつもいる」


「それも事実」


「問題は、そういう連中が皆、小声でしか話せないことだな」


 ミレイユは少しだけ目を細める。


「“空気”に逆らうのは疲れますもの」


「だろうな」


「そして今の学園では、セシルに寄り添う方が安全です」


「つまり、セシル側が正しいかどうかじゃなく、そっちへ流れた方が楽」


「ええ」


 それが一番厄介だった。


 誰か一人を叩いて終わるならまだ単純だ。

 だがこれは、もっと広くて曖昧なものだ。

 人の印象、社交、気遣い、保身、噂。

 そういうもの全部が混ざって、リリアーヌを悪役にしやすい空気を作っている。


 そしてセシルは、その中心にいる。

 本人の意志がどれほどであれ。


 馬車がヴァルモン家の門をくぐる頃には、俺の中でひとつだけはっきりしていた。


 セシルは簡単な相手じゃない。

 悪役でも、単なる被害者でも、どちらでも片づかない。


 だからこそ、近づいて確かめるしかない。


 屋敷へ戻ると、リリアーヌはすぐに応接室で待っていた。


 今日の彼女は昼間よりさらに仕事の顔だ。

 俺とミレイユが座るなり、簡潔に尋ねる。


「どうでしたの」


 俺は一度だけ息を吐いた。


「セシルは、やっぱり妙だ」


 リリアーヌの目が細くなる。


「同じ結論ですのね」


「ああ。でも、昨日よりはっきりした」


「どういう意味で?」


「見えない瞬間があった」


 その言葉に、ミレイユが小さく眉を動かす。

 リリアーヌは黙って先を促した。


「近くで見たとき、感情が整いすぎてる感じは同じだった。でも、一瞬だけ、揺れそのものが切れた。隠されたみたいに」


「隠された……」


「本人の意思か、何か別のものかは分からない。でも普通じゃない」


 応接室が静まり返る。


 やがて、リリアーヌがゆっくり言った。


「……そう」


 その声は低かったが、驚きだけではなかった。

 むしろ、腑に落ちる何かがある声だ。


「わたくし、昔一度だけ、あの子の目が空っぽに見えたことがありますの」


「空っぽ?」


「ええ。ほんの一瞬。話しかけたとき、まるで“正しい反応を探している”みたいな目をした」


 それは俺の感じた“整いすぎている”にかなり近い。


 ミレイユが静かに言う。


「セシル本人も、何かに合わせ続けている可能性がありますわね」


「……だとしても」


 リリアーヌの声音が少しだけ硬くなる。


「だからといって、わたくしが悪役にされたことの説明にはなりません」


「当然だ」


 俺が答えると、彼女はわずかにこちらを見た。


「学園内の空気は?」


「最悪寄りだな」


「でしょうね」


「でも、完全に固まってるわけでもない。小声なら、リリアーヌをそこまで悪く思ってないやつもいる」


「数は?」


「多くはない。でもゼロじゃない」


 そこまで言うと、リリアーヌはほんの少しだけ息をついた。

 安堵に近い揺れがある。


 ゼロではない。

 それはたぶん、今の彼女にとってかなり大きい。


 俺は最後に付け加えた。


「あと、セシルが昼休みによく行く場所がある」


 ミレイユが補足する。


「旧礼拝室です。人目を避けるにはちょうどいい場所」


 リリアーヌの視線が鋭くなった。


「……そこですわね」


「次はそこだな」


「ええ」


 そこで彼女は一度だけ目を閉じ、開いた。


「次は、セシルそのものへ近づきます」


 応接室の空気が変わる。


 今までは、周囲を見ていた。

 空気を見て、証言を拾って、違和感を固めていた。

 でも次からは、その中心へ踏み込む。


 聖女候補セシル・エヴァレット。

 白すぎる少女。

 読めない瞬間を持つ相手。


 俺は背筋を伸ばした。


「……やるしかないな」


 リリアーヌはまっすぐ俺を見る。


「ええ。もう、そこを避けては進めませんもの」


 その目にあったのは、怒りだけじゃない。

 覚悟だ。


 自分を悪役にした空気の中心へ、真正面から踏み込む覚悟。


 俺は静かに頷く。


 次に見るべきは、作られた優しさの奥だ。

 あの“聖女”が本当に何者なのか。

 被害者なのか、共犯なのか、それともそのどちらでもないのか。


 その答えに触れなければ、たぶんこの先へは進めない。

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